安倍寧のBRAVO!ショービジネス
映画『イン・ザ・ハイツ』が、ヒップホップに乗って描き出す人種・文化の多様性
不定期連載
第40回
映画『イン・ザ・ハイツ』 (C)2020 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved
映画『イン・ザ・ハイツ』(監督ジョン・M・チュウ)を見てブロードウェイ・ミュージカルの映画化は久しぶりだなと思った。クリント・イーストウッド監督の『ジャージー・ボーイズ』(2014)以来かな。ほかになにかあっただろうか。映画『キャッツ』もあったが、あれはそもそもブロードウェイ発ではなくウエストエンド発だから横に措くとして。
『イン・ザ・ハイツ』は悪くない出来である。ミュージカル・シーンが滅法楽しい。私はもう一度見て細部の細部まで堪能したいと思ったくらいだが、世間的には話題作とはいい難い。たまたま「キネマ旬報」9月上旬号にこんな記事を見掛けた。
B 7月30日(金)より全国公開されて、初日3日間で興収6721万円を記録、最終興収は3億円の見込みです。
A 本国のアメリカでは好評のようですが、日本ではなかなかむずかしい映画ですね。(〈日本BOXOFFICE〉欄)
ではアメリカではどのくらいの興行収入を上げているのか。映画興行の数字を開示しているインターネット情報The Numbers – Where Data and the Movie Business Meetでチェックしてみたら、8月末日現在で$29,879,041という数字が上がっていた。約$30,000,000として1ドル=109円で換算すると、約32億7000万円か。極めてラフな計算ながら、この時点で日米の興収対比は1対11ということになる。
日本とアメリカでは人口が違う。したがって映画市場の規模も違ってくる。大雑把な数字の比較は意味がない。私は数字より「キネ旬」の記事でのA氏の「日本ではなかなかむずかしい映画」のひとことに注目したい。そこでどこがどう難しいのか、私なりに考えてみたい。難しさは作品の内容、物語の背景と深い係わり合いがあると思う。
『イン・ザ・ハイツ』はニューヨーク市はマンハッタン地区の最北部ワシントン・ハイツが舞台の青春物語である。雑貨店を切り盛りするウスナビ、タクシー会社の配車係ベニー、夏休みで帰省中の大学生ニーナ、美容院で働くバネッサ……。彼等の悩み多い、しかし希望も仄見える人生がヒップホップ色濃厚な音楽に乗って生き生きと描き出される。
ワシントン・ハイツはドミニカからの移民の街として知られる一方、古くからアイルランド系、イタリア系、ユダヤ系など多様な人種が入り混じる地域として注目を集めてきた。今、世界中が直面している大課題、ダイヴァーシティを象徴するようなコミュニティらしい。そのようなこの地域の実態が広くアメリカ全体に知れ渡っているわけではないにせよ、少なくともニューヨーク州や東部の人たちはじゅうぶん理解していることだろう。残念ながら日本人はそういうわけにはいかない。
日米彼我の差ということでもうひとつ大きな違いがあるのは、『イン・ザ・ハイツ』の作詞・作曲者リン=マニュエル=ミランダの知名度である。2008年、この作品を引っ下げてブロードウェイに殴り込みを掛けた当時のミランダはほとんど無名に近かった。作品が最優秀ミュージカル作品賞を含む4つのトニー賞に輝き、ロングランが視野に入っても、ブロードウェイのホープという域を出なかった。しかし、2015年、ブロードウェイでミランダの新作『ハミルトン』が開幕してのち、彼をとり巻く事情は大きく様変わりした。作品自体がミュージカル、ブロードウェイ、ショウビジネスという枠組み、領域を超えて全米的な関心事となっただけではない。脚本・作詞・作曲を手掛けたミランダ自身も超々有名人にのし上がったのだ。
『ハミルトン』は、アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンのもとで財務長官を務めたアレキサンダー・ハミルトンの伝記ミュージカルである。登場人物はハミルトン、彼の政敵アーロン・バー、ワシントン初め白人のはずなのに、演じるのは有色系俳優という意外性がまずは話題を呼んだ。物語を進行させる音楽は、『イン・ザ・ハイツ』同様、いや、それ以上にヒップホップ・サウンドに彩られ、ミュージカル・ナンバーはラップ調である。早々にオバマ大統領が作品の支持を明らかにしたことも人気加速に一役買ったようだ。トニー賞では最優秀ミュージカル作品賞を筆頭に11部門で受賞し圧倒的強さを誇った。
今回の『イン・ザ・ハイツ』映画化でも『ハミルトン』人気とその作り手ミランダの知名度が、アメリカ市場では有利に働かなかったわけがない。ミュージカル観客のなかには、『ハミルトン』は見ているけれど『イン・ザ・ハイツ』は未見という人たちだって大勢いるはずで、彼等の多くが映画『イン・ザ・ハイツ』に駈けつけたことだろう。
映画『イン・ザ・ハイツ』のもどかしさのひとつは、字幕ではラップの歌詞が到底追い切れないことだ。かといって字幕のほかに解決方法があるわけではない。作品を真に理解しようと思ったら、歌詞カードと首っ引きでサントラ盤を繰り返し聴くくらいしか方法はないかもしれない。
映画『イン・ザ・ハイツ』が私たちに突きつけてくる主題は、ずばりダイヴァーシティ、人種・民族、更には文化の多様性である。もちろん原作ミュージカルから引き継がれたものだし、『ハミルトン』の配役にも受け継がれている。プエルトリコ系の家系に生まれ育ったリン=マニュエル=ミランダの永遠のテーマにちがいない。
映画『イン・ザ・ハイツ』は、私たち日本人には完全に咀嚼(そしゃく)できない面がある一方、主題を含め、楽しみながら学ぶ部分も多い作品である。シネ・ミュージカル史上の一頁を飾る作品になること間違いなし。
プロフィール
あべ・やすし
1933年生まれ。音楽評論家。慶応大学在学中からフリーランスとして、内外ポピュラーミュージック、ミュージカルなどの批評、コラムを執筆。半世紀以上にわたって、国内で上演されるミュージカルはもとより、ブロードウェイ、ウエストエンドの主要作品を見続けている。主な著書に「VIVA!劇団四季ミュージカル」「ミュージカルにI LOVE YOU」「ミュージカル教室へようこそ!」(日之出出版)。