安倍寧のBRAVO!ショービジネス
音楽プロデューサー川原伸司著『ジョージ・マーティンになりたくて』は、とって置きの秘話が満載
不定期連載
第51回
川原伸司『ジョージ・マーティンになりたくて~プロデューサー川原伸司、素顔の仕事録』シンコーミュージック 1980円
ベテラン音楽プロデューサーの川原伸司さんが、自らの足跡を振り返った著書を出版した。『ジョージ・マーティンになりたくて~プロデューサー川原伸司、素顔の仕事録』(構成藤本国彦、シンコーミュージック・エンタテインメント刊)である。まずなにより“5人目のザ・ビートルズ”といわれたジョージ・マーティン(1926~2016)にあやかった表題が人目を惹く。ビートルズのほぼ全作品のレコーディングでプロデューサーを務めたジョージ・マーティンこそ、著者の畏敬する人物だという気持が端的に読みとれる。

ジョージ・マーティンは、彼の存在なくしてビートルズ・サウンズは誕生しなかったろうといわれる人物である。ビートルズの長所短所をきっちり抑えていたにちがいない。しかし、必要以上に表にしゃしゃり出て来ることはなかった。見事な立ち位置で4人と、また世間と相対し続けた。川原さんはマーティンに音楽プロデューサーの理想像を見出していたのではないか。
ビートルズといえば、中学2年のとき、川原さんは映画『ハード・デイズ・ナイト』を見てギターのとりこになる。親にねだって金8千円也のガット・ギターを買ってもらった。高校1年生のときには同級生とバンドを組んでいる。しかし、うまい奴が入ってくると、それまでいちばんうまかった奴があっさり首になったりするドライな人間関係が、肌に合わなかったようで、さっさとやめてしまう。それからはひとりでFM番組をエアチェックしたり、作曲の真似事に手を出したり。高3からはオープン・リール・デッキを用いての多重録音にも挑戦する。「マルチ・レコーディングの初歩は自宅で学んだ」と自負している。生まれながらの性格が、どう演奏したり歌ったりするかより、どう音楽を加工するかのほうに向いていたということだろうか。
川原さんの音楽プロデューサー歴は、1974年、日本大学芸術学部放送学科を卒業し、ビクター音楽産業にアルバイト採用で潜り込んだところから始まった。当時は現在のようにフリーランスの音楽プロデューサーという職業は存在せず、どこかレコード会社にやとってもらわなくては手も足も出なかった。川原さんの場合、幸運なスタートといえるだろう。
ビクターでまだペエペエだった頃のエピソードをひとつ。ピンク・レディーのデビューに関する作戦会議に出席した折のこと、会議が終わったのち、すでに顔見知りだった阿久悠からお茶に誘われた。そこで何気なく『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の話をする。阿久は興味をそそられたようだ。私が思うに、もしかすると阿久はこのアルバムについてよく知らなかったのかもしれない。後日、川原さんが上司から見せてもらった阿久の原稿には「ペッパー警部」のタイトルが躍っていたという。川原さんは思いもしなかったかたちでピンク・レディーのデビュー曲に一役買ったことになる。
川原さんの音楽プロデューサー歴で凄いなと思うのは、ビクターとソニー・ミュージック・エンタテインメントと代表的なレコード会社の間を退社したり再入社したり、それをなんども繰り返していることだ。86年、当時のCBS・ソニーへ、89年ソニーをやめ再びビクターへ、94年ビクターを辞し、またソニーへ。そのあとはさすがに2010年60歳の定年までソニーに腰を落ち着けるが、こんなピンポン玉のように行ったり来たりの職歴は、才能本位で活動の自由度の高い音楽業界といえども結構珍しいのではないか。それだけ彼の実力が高く評価されていたことの端的な現われと見る。
川原さんが1章割いて長めに語っている人たちが計8人いる。いずれも公私に渡って関係の深い音楽仲間である。杉真理、大瀧詠一、松本隆、松田聖子、中森明菜、鷺巣詩郎、井上陽水、筒美京平。どの章にもとって置きの制作裏話が次々に出て来る。たとえば陽水とのコラボ風景はこんな具合だったらしい。
陽水さんからは、曲のイメージに関して、変わった図形や折れ線グラフが渡されたり、断片的な言葉だけを書いた詞がきたりするんです。それをモチーフに僕がピアノで好きに弾いていると、そのうちに陽水さんが言葉とメロディを乗せてくる。それを2、3時間やってるんです。折れ線グラフはメロディの起伏みたいなもので、「詞はこんな感じだから、たぶんこういうのをイメージしてるんだろうな」と、折れ線グラフと詞を見ながら弾いてみるんですよ。でも、ブギーでブルースみたいな曲をイメージして2~3時間弾いてたら、「川原さん、これバラードにしたいんです」と言われて、「それ、早く言ってくれません?」なんてやりとりもあったり(笑)。

ふたりのこうした共同作業から生まれたヒット曲のひとつに「少年時代」がある。作詞井上陽水、作曲井上陽水、平井夏美。平井夏美は川原さんのペンネームである。この名前がクレジットされているヒット曲では松田聖子の歌う「瑠璃色の地球」も見逃せない。実は川原さんには作曲家という顔もあるのだ。そうそう、この曲、中森明菜もカバーしている。
「瑠璃色の地球」の作詞者松本隆がこの曲について興味深い感想を漏らしている。
「あの曲は、聖子だったらファンタジーだけど、明菜が歌うとドキュメンタリーになる。生きることに一度絶望したアーティストが、わずかに残された愛を分け与えたいと唄うことがすごい」
ところで、この本にはなにかにつけてビートルズが顔を出す。書名に“5番目のザ・ビートルズ”ジョージ・マーティンが登場するくらいだから、当然といえば当然か。1966年、ビートルズが来日したときには、著者はまだ15歳、高1だったが、ちゃっかり日本武道館でのコンサートに出掛けている。運よく抽選で切符を手に入れることが出来たのだそうだ。「ジョンはずっとサングラスをかけっぱなし」「リンゴがすごく調子がよかった」と思い出を記している。杉真理、竹内まりやと月2回のペースでビートルズ研究会をやっていた時期もある。金沢明子の「イエロー・サブマリン音頭」も川原さんが言い出しっぺだった。映画『ハード・デイズ・ナイト』やピンク・レディー「ペッパー警部」にまつわるエピソードは、すでに紹介した通りである。

original photo by Kozo Fukuoka
川原さんはビートルズを「永遠のユース・カルチャー」と呼んでいる。決して手放すことのない自分たち世代の若者文化ということだろう。音楽から生きざままで多くのことを学んだようだ。
長年、ビートルズから吸いとった養分のせいか、川原さんはいくつになっても現役ぱりぱりの音楽プロデューサーである。
プロフィール
あべ・やすし
1933年生まれ。音楽評論家。慶応大学在学中からフリーランスとして、内外ポピュラーミュージック、ミュージカルなどの批評、コラムを執筆。半世紀以上にわたって、国内で上演されるミュージカルはもとより、ブロードウェイ、ウエストエンドの主要作品を見続けている。主な著書に「VIVA!劇団四季ミュージカル」「ミュージカルにI LOVE YOU」「ミュージカル教室へようこそ!」(日之出出版)。
