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安倍寧のBRAVO!ショービジネス

YMO売り出しの〈陰の立役者〉川添象郎さんって何者? 自伝『象の記憶』が滅法面白い!

不定期連載

第52回

川添象郎『象の記憶』 DU BOOKS

前回、音楽プロデューサー川原伸司さんの著書『ジョージ・マーティンになりたくて』(シンコーミュージックエンタテインメント)を話題にした。続けて今月も数々の音楽シーンにその名を刻む川添象郎さんの『象の記憶』(DU BOOKS)をとり上げたい。これまた興味尽きない音楽プロデューサーの回想録である。ほかにも松田聖子の発見者としてよく知られる若松宗雄さんの『松田聖子の誕生』(新潮社)も耳目を集めている。音楽プロデューサーのメモワールが次々と刊行されるのはいったいどうして? ある程度の歳月を経たので、皆さん、そろそろ思い出の封印を切ってもいいと思ったのかな。野次馬としては当事者の口から真相(多分、ね)を聞くことができるのだから、こんなにわくわく嬉しいことはない。

今回の主役川添象郎さんは、1941年生まれ、ことし81歳である。ミュージカル『ヘアー』の日本初演、スタンダード・ナンバー「マイ・ウェイ」の日本における版権取得、松任谷由実のデビュー、YMOの全世界向けキャンペーンなど音楽史上エポックメーキングな数々の出来事に係わってきた。それも当事者として深く──。その生々しい体験がこの本では詳細に綴られているのだから、面白くないわけがない。もちろん書名の『象の記憶』は著者の名前象郎に由来するものであろう。しかし、象はあらゆる動物のなかでもっとも記憶力がいいという伝聞もあるそうで、その意味合いも踏まえているようだ。

川添象郎氏 撮影:大宮浩平

1960年、はたちになるかならずやのとき、ふらりと訪れたニューヨークはグリニッジ・ヴィレッジのライヴハウスでフラメンコ音楽に出逢う。ギター一丁でどうしてあのような強烈な音楽を生み出すことができるのか。たちまちにしてそのとりことなる。早速、フラメンコ・ギターの先生を見つけ弟子入りする。教則本がなくて苦労したらしい。それから2、3年のちのこと、フラメンコへの夢覚めやらず本場で腕を磨きたくて、なんのつてもなく単身マドリッドを訪れる。そして毎夜、タブラオと呼ばれるフラメンコの常打ち小屋に通い詰め、出演者たちとたちまち友人となる。気がついたらいっしょに演奏していた……。そんな夢のような出来事が実現してしまうのは、川添さんの愛すべき人柄、物怖じしない行動力の賜物か。

実は象郎さんの父浩史氏からして、文化・芸術分野で幅広く活躍したプロデューサーであった。戦後初の文化使節“アヅマ・カブキ・ダンス”(主宰吾妻徳穂)の欧米公演を成功させる一方、これまた初のブロードウェイからの招聘公演『ウエスト・サイド物語』を実現させた。しかし、最大規模のイベントは大阪万博(EXPO’70)における富士グループパビリオンではなかったか。館内のマルチスクリーンもさることながら、合成繊維のパイプと圧縮空気を用いて作られたパビリオン自体(設計村田豊)が圧巻であった。ちなみに象郎さんの母は世界的ピアニスト原智恵子さんである。このような両親を持つ象郎さんがアートとビジネスの接点に立つ音楽プロデューサーという仕事に就くのは、ごく自然のなりゆきだったにちがいない。

もっとも、浩史、智恵子夫妻は、象郎さんが高校生のとき離婚している。新しい川添夫人は、彫刻家エミリオ・グレコの直弟子の梶子(旧姓岩元)さん、アヅマ・カブキ欧州公演の折、通訳を務めたこともあるようだ。やがて川添新夫妻は飯倉片町にレストランキャンティを開店する。メニューはイタリア滞在の長い梶子さんが練りに練った。オープンするや、夫妻の顔の広さ、チャーミングな人柄もあって、夜ごと芸能人、文化人、財界人の集うサロンと化す。二代目象郎さんは若い頃からその有様をその目で見て育ったはずだ。華麗なキャンティ人脈から吸いとった養分は、のちの音楽プロデューサー人生で大いに役立ったのではないか。開店以来60年あまりの歴史を誇るキャンティは、もちろん今もって健在である。

1960年、飯倉片町にオープンし、文化人たちのサロンのような場所となったレストラン、キャンティ

川添象郎さんの幅広い交友関係のなかで特に強い絆で結ばれているのは作曲家村井邦彦さんである。村井さんが音楽出版社アルファミュージックを立ち上げたとき、この社名を提案したのはほかならぬ象郎さんだったという。

アルファミュージック設立前後の頃、川添さん、村井さんでフランスの大手音楽出版エディションバークレイを訪れたことがある。村井さんが先方の社長とビジネス・ミーティングに入ると、手持無沙汰の象郎さんは廊下をぶらぶらしていた。すると床にすわってギター片手に歌を口ずさんでいる青年に出喰わした。象郎さんはたちまちその歌に心奪われる。ただちに村井さんにその曲の権利をとるよう薦め、もちろん村井さんも同意しサインした。その曲はやがてポール・アンカの作詞、フランク・シナトラの歌で世界的に超ヒットすることになる。いうまでもない「マイ・ウェイ」である。原題「Comme D‛Habitude(いつものように)」という。廊下でぼそぼそと歌っていたのは、作曲者としてクロード・フランソワとともに名を連ねるジャック・ルヴォーであった。

なおフランス繋がりでいえば、象郎さんの制作したアルバムに加橋かつみ『パリ・1969』(フィリップス)がある。

加橋かつみ『パリ・1969』(1969)

象郎さんは、村井邦彦さんが設立したアルファレコードでも制作担当取締役として敏腕を振るった。もっとも大きな足跡は、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を世界的な存在に押し上げるに当たって中心的役割を果たしたことだろう。電子音をフィーチャーしたYMOの音楽は未来を先取りしていただけに、既存のどの音楽ジャンルにも入らない斬新さにあふれていた。お蔭でレコード店のどこの棚に置いてもらうか定まらず一苦労した。窮余の一策、当時流行していたフュージョン音楽ということにして市場に打って出たという。

火がついたのは、1978年夏、ロサンゼルスのグリーク・シアターでおこなわれたロック・バンド、チューブスのコンサートで前座を務めたことからだった。村井さん、川添さんの人脈から偶然に決まった海外初出演。聴衆の求めているものと一致したのか一曲目から大受けに受けた。高橋幸宏デザインの真っ赤な人民服のような衣裳も評判を呼んだ。アメリカではメイン・アクトを引き立たせるため前座の演奏は音量を絞ることがままあるので、象郎さんは舞台監督に千ドル握らせ未然に防いだ。さすがである。このときの映像はただちに日本にも送られ、NHKテレビのニュース番組で放映された。国内的にもここから快進撃が始まったようだ。

川添象郎『象の記憶』より、YMOのメンバーと川添氏

この調子で紹介したら切りがないので、『ヘアー』、松任谷由実などについては、皆さんご自身でお読みいただきたい。この一冊には、智恵と人間関係を武器に戦い抜いてきたひとりの男の姿がたっぷり詰め込まれていて、興趣尽きせず。

画像出典:川添象郎『象の記憶』(DU BOOKS)より

プロフィール

あべ・やすし

1933年生まれ。音楽評論家。慶応大学在学中からフリーランスとして、内外ポピュラーミュージック、ミュージカルなどの批評、コラムを執筆。半世紀以上にわたって、国内で上演されるミュージカルはもとより、ブロードウェイ、ウエストエンドの主要作品を見続けている。主な著書に「VIVA!劇団四季ミュージカル」「ミュージカルにI LOVE YOU」「ミュージカル教室へようこそ!」(日之出出版)。