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安倍寧のBRAVO!ショービジネス

虚実皮膜!? 映画『TAR/ター』 描き尽くす現代の社会的・文化的状況の生々しさ

不定期連載

第62回

(C)2022 FOCUS FEATURES LLC.

改めて映画は時代を映し出す鏡だと思い知らされた。この映画『TAR/ター』は、ヒロインの女性オーケストラ指揮者の生きざまを通じて、現代社会が直面するさまざまな問題を浮き彫りにして見せる。そうか、今、私たちはこのような社会に生きているんだなと、スクリーンと対峙しながらうなずかずにいられない。クラシック音楽界から材を得ているものの、この映画は所謂音楽映画という領域を完全にはみ出してしまっている。たとえば私たちが世界的指揮者リディア・ター(ケイト・ブランシェット)の存在、イメージからひしひしと感じるのは、現代社会における権威とはなにかという奥深い問題である。そう、この映画の最大の主題は権威の強靭さと脆弱さかもしれない。製作・脚本・監督トッド・フィールド(『イン・ザ・ベッドルーム』『リトル・チルドレン』)。

ヒロインはベルリン・フィル初の女性マエストロ、リディア・ター(ケイト・ブランシェット)

この映画の見どころのひとつは、ターのヒロイン像が100パーセント、フィクショナルでありながら実在の人物のように見えることである。それはひとつには、彼女の肩書きがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団指揮者というような巌として実在するものだからだろう(スクリーンに居並ぶオーケストラは、ベルリン・フィルではなくドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団だけれども)。彼女が後進の指導に当たるニューヨークのジュリアード音楽院ももちろん実在する有名校だ。ターがある若い指揮者を副指揮者に抜擢しないよう、世界の一流指揮者にメールする場面がある。「親愛なる……」に続くファースト・ネームはグスターボ(・ドゥダメル)、サイモン(・ラトル)ら実在する人物の名前が続くという。ヴィジュアル&サウンド・ライターの前島秀国さんが、プレスシートに寄せた一文でそう指摘していた。私はそんなディテールまで目がいき届かなかったけれど。そのような細部での些細な事実の積み重ねが、ター像のリアリティをすこぶる強固なものにしていることは、まず間違いないだろう。

ターはベルリン・フィルの首席指揮者として絶対的な地位を築いていた

オーケストラにおける首席指揮者は集団における絶対的権威の象徴である。いや単なる飾りもののシンボルではなく、絶対的権力者そのものといえる。首席指揮者と意見を異にする楽員は去らねばならない。それにしても世界の有名交響楽団の指揮者に女性がほとんどいないのはどうしてか? 男性指揮者が手を結んでその登場を阻んできたせいかもしれない。なにゆえかはさて措き、この21世紀に著名女性指揮者の不在は不自然もはなはだしい。なるほど実力、人気ともに優れた女性指揮者が出て来たっておかしくない。フィールド監督、実にいいところに目をつけましたね。しかもリディア・ターは同性愛者という設定になっている。今どきのお話という実感がそくそくと迫ってくる。さらにその相手が同じオケのコンサート・マスターでヴァイオリン奏者のシャロン・グッドナゥ(ニーナ・ホス)ときた。ふたりには養女もいる。すべての状況が今ならあり得そうなことばかりだ。

ターを公私にわたって支えているのはヴァイオリン奏者のシャロン(ニーナ・ホス)

映画のなかでリディア・ターが、今、とり組んでいるとても大きなひとつにグスタフ・マーラーの交響曲第5番の録音がある。もちろん演奏するオケはベルリン・フィルという設定だ。ベルリン・フィルは今までにこの有名な交響曲を録音していないという前提で物語は進行する。めでたくレコーディングが終った暁にはドイツ・グラモフォンからの発売も決まっているという。実際にはこの高名なオケがこの人気楽曲を録音していないわけがない。この映画は音楽的な事柄、出来事について細部の細部まで考証がゆき届いているので、マーラー交響曲5番のエビソードも信じたくなってしまう。なんと見事な“虚実皮膜”!この映画を楽しむのだったら、映画が描いている事柄はすべてほんとうと信じて見るのが一番かもしれない。なおベルリン・フィル演奏のマーラー交響曲5番は、以下の指揮者によるアルバムが市販されている。ヘルベルト・フォン・カラヤン盤(録音1973)、クラウディオ・アバド盤(93)、サイモン・ラトル盤(2002)、グスターボ・ドゥダメル盤(18)など。更にことし10月22日には指揮ズービン・メータ、演奏ベルリン・フィルによるコンサート映像が配信される予定という。

ターはマーラーの交響曲第5番のライブ録音に向けて、リハーサルを重ねていく

思わず息を止めて見入ったのは、リハーサルでケイト・ブランシェット演じるターが5番の一部を振るシーンだろうか。完璧にブランシェットはターに化身している。どこから見ても現役の指揮者である。ここに至るまでどのようなレッスンを経てきたのだろうか。プロフェッショナルな女優としての覚悟、努力に脱帽せずにいられない。この場面の音楽は、撮影の際、収録したものが完成された映画でもそのまま使用されている。演奏時間7分43秒。サントラ盤で聴くこともできる。クレジットは指揮ケイト・ブランシェット、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団。

完璧なはずのターの人生だったが、弟子筋のクリスタが自殺したことから綻びが見え始める。そうなると権力者が椅子から転げ落ちるのはあっという間だ。ラストのオチには声を挙げたくなった。いかにも今日の社会的・文化的状況にぴったりの出来事で、ターに対する皮肉がじゅうぶん過ぎるほど利いている。もっとも予備知識なしで見たので、すんなり腑に落ちたわけではない。並ぶ者なき見巧者の映画評論家、町田智浩さんだって、少し戸惑ったようだから(どこかのユーチューブでそうおっしゃっていました。正直なお方ですね)、私ごときがなにが起こったのか、すぐさま把握できないのは当たり前だろう。しばらくして、なるほどと膝をたたけばいいのです。未見の向きはネタバレ記事、批評は絶対避けていただきたい。

若手指揮者クリスタが自殺したことからターは窮地に立たされていく

それにしても16年間のブランクを経てこのような超傑作をものすることができる監督トッド・フィールドとは、いかなる人物か。と同時にブランクなど気にせずこの監督に縦横に腕を振るわせたアメリカ映画界の懐の深さにも敬意を表さずにいられない。

プロフィール

あべ・やすし

1933年生まれ。音楽評論家。慶応大学在学中からフリーランスとして、内外ポピュラーミュージック、ミュージカルなどの批評、コラムを執筆。半世紀以上にわたって、国内で上演されるミュージカルはもとより、ブロードウェイ、ウエストエンドの主要作品を見続けている。主な著書に「VIVA!劇団四季ミュージカル」「ミュージカルにI LOVE YOU」「ミュージカル教室へようこそ!」(日之出出版)。