Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

安倍寧のBRAVO!ショービジネス

創立75周年を迎えた日本最古の?プロダクション、マナセプロ

不定期連載

第64回

マナセプロダクション創立75周年パーティーにて配布されたマナセプロの社史DVD「75th Anniversary Since 1948」

去る8月7日、ザ・プリンススパークタワー東京でマナセプロダクション創立75周年記念パーティーが催された。着席で、前菜、スープ、魚料理、肉料理、デザートのフルコースディナー。総テーブル数44。総出席者数は、主催者側を含め300名近かったと思われる。

ちなみに私ども夫婦のテーブルはドン小西、コシノジュンコ、中尾ミエ、加藤タキ、矢内廣・麻貴子夫妻という顔ぶれであった。コースがデザートの頃になると、“廊下とんび”ならぬ“テーブルとんび”が盛んにおこなわれた。知り合いのいるテーブルにこちらから出掛けていったり、別のテーブルの友人知人が私たちの席にやってきたり……。私も多くの知己たちと改めて交遊を深めることができた。当日、親しく言葉を交した人々のお名前をごく一部書き連ねておく。名倉加代子、加藤登紀子、高平哲郎、山崎芳人、朝妻一郎、前田三郎etc.,&c.(乞うご容赦、順不同及び敬称略)。

パーティーでヒット曲「きっと愛がある」を歌う西田ひかる
真琴つばさは「恋人よ我に帰れ」を披露した

マナセプロは西田ひかる、真琴つばさ(系列会社エフ・スピリット所属)らを擁する中堅芸能プロダクションである。この日も西田が「きっと愛がある」、真琴が「恋人よ我に帰れ」を歌い饗宴に花を添えた。それにしても創立75周年というのは凄い。前身のオリエンタル芸能社(仙台をベースにした対アメリカ占領軍向けのエンターテインメント斡旋業)がスタートした1948年(昭和23年)から数えての確固たる歴史である。パーティー当日配られた引き出物の社史(DVD)は、「75th Anniversary Since 1948」という英語の表題になっていた。もっとも同芸能社の歴史はもっと古く、46年という説もある(戸部田誠著「芸能界誕生」、新潮選書)。創設者は現在、マナセプロ代表を務める山田道枝さんの両親曲直瀬正雄、花子夫妻。ふたりは当時の日本人には珍しく英語堪能(特に花子夫人が)、押し出しも誠に立派で堂々としていた。私もしばしばお会いする機会があったが、ふたりそろって日本人離れした雰囲気を漂わせていた。

マナセプロダクションの創設者、曲直瀬正雄、花子夫妻

戦後のジャズ・バンド、ジャズ歌手で曲直瀬夫妻の世話にならなかった人はいないという。東北方面で米軍の仕事をしようと思ったら、オリエンタル芸能社に頼らざるを得なかったからだ。たとえば戦後日本を代表するジャズ歌手、ナンシー梅木。小樽市出身の彼女が上京する途中、仙台で腕を磨いた話は、当時から有名だった。その世話をしたのが曲直瀬夫妻なのはいうに及ばず。のちにナンシーは渡米し、アメリカ芸能界で大活躍する。映画『サヨナラ』(1957)では、見事アカデミー賞助演女優賞に輝いている。ブロードウェイでミュージカル『フラワー・ドラム・ソング』(59)に主演した際には、トニー賞主演女優賞にノミネートされた。残念ながら受賞は逸したけれど。

仙台の進駐軍でオリエンタル芸能社のマネジメントがスタートした頃。東京からも多くのミュージシャンがやってきたという

マナセプロを語って坂本九に触れないわけにはいくまい。先のDVD社史にも九ちゃんの“百万ドルの笑顔”が登場し、それに“感謝”の二文字がダブって映し出される画面があった。今なお九ちゃんはマナセプロの“顔”ということだろう。それにしても今から38年前のあの日航機事故は痛ましい限りというほかない。一瞬にして看板スターを失ったマナセプロ関係者の衝撃、哀しみはいかばかりであったか。ディナー・パーティーの席には柏木由紀子さん、大島花子さんの姿もあった。私も親しく挨拶を交わすことができた。九ちゃんの死を逞しく乗り超え生き抜いてきた遺族の皆さんに蔭ながら拍手を贈る。

1961年に発売された坂本九「上を向いて歩こう」のレコードジャケット

九ちゃん繋がりでは「上を向いて歩こう」の作曲者中村八大さんの子息中村力丸さんとも話ができた。九ちゃんの歌う「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」のタイトルのもと、全米ヒットチャート第1位の栄冠を手にしたのは、63年6月15日のことであった。その後、日本発のシングル曲で同じ栄光に輝いた例は、もちろんない。その点においても、坂本九、「上を向いて歩こう」は、日米ポピュラー音楽史上、決して忘れてはならない楽曲である。

44もあったテーブルのうち、とりわけ数多くの人々が吸い寄せられるかのように訪れるテーブルがひとつ目に入った。渡辺プロダクション名誉会長兼グループ代表渡邊美佐さんがすわっていたテーブルである。美佐名誉会長は、マナセプロ創立者曲直瀬正雄、花子夫妻の長女に当たる(ちなみに現代表、山田道枝さんは五女)。夫君渡邊晋氏とともに渡辺プロダクションの創設者として広く知られる。というより、夫婦二人三脚で日本に芸能プロダクション・ビジネスを定着させた最大の功労者と定義づけたほうが、よりふさわしいかもしれない。芸能プロによる映画、舞台、テレビ番組のパッケージ製作、系列音楽出版社の楽曲一括管理など、今日、芸能プロが当たり前のようにおこなっているあらゆるビジネスの端緒を開いたのは、ほかならぬ晋・美佐夫妻である。晋氏が、87年、60歳の働き盛りに亡くなってからかなり久しい歳月が過ぎ去ったが、美佐さんは美しく、またお元気とお見受けする。この日、彼女のかたわらにはふたりの令嬢が寄り添い、なにくれとなく母上の面倒を見ていたが、その分を心得たエスコートぶりがなんとも好もしかった。ちなみに長女渡辺ミキさんはワタナベエンターテインメント代表取締役社長、渡辺プロダクション代表取締役会長、次女渡邊万由美さんはトップコート代表取締役社長、渡辺プロダクション代表取締役社長である。

パーティー当日、挨拶する筆者

「There’s No business Like Show Business」 という曲名でもあり歌詞でもある有名な成句がある。「ショウほど素敵な商売はない」という日本語訳で知られる。マナセプロの関係者だけではなく、ショウ・ビジネスになんらかの意味で係わり合いのある者全員、この言葉の意味するところを信じ、元気いっぱい邁進しようじゃありませんか。

プロフィール

あべ・やすし

1933年生まれ。音楽評論家。慶応大学在学中からフリーランスとして、内外ポピュラーミュージック、ミュージカルなどの批評、コラムを執筆。半世紀以上にわたって、国内で上演されるミュージカルはもとより、ブロードウェイ、ウエストエンドの主要作品を見続けている。主な著書に「VIVA!劇団四季ミュージカル」「ミュージカルにI LOVE YOU」「ミュージカル教室へようこそ!」(日之出出版)。