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安倍寧のBRAVO!ショービジネス

佐藤剛著「上を向いて歩こう」で振り返る 「SUKIYAKI」ブームの裏表

不定期連載

第65回

佐藤剛『上を向いて歩こう』(岩波書店)

前回の本連載で「マナセプロダクション創立75周年パーティーをとり上げた際、おのずから同プロのかつての看板スター坂本九、それと彼の超ヒット曲「上を向いて歩こう」についても触れるところとなった。それにしても思い出とは不思議なものだ。さまざまな事柄が次々連鎖的に甦る。ひとつにはディナー・パーティーが8月7日、九ちゃんの命日(日航機御巣鷹山事故)が同月12日と日付が近かったということもあるだろう。それやこれやで今回は坂本と「上を向いて歩こう」の回想をテーマということに──。

坂本九、「上を向いて歩こう」を主題にする際、避けて通るわけにいかないのが、佐藤剛著『上を向いて歩こう』(岩波書店及び小学館文庫)である。超ヒット曲の曲名をずばり表題にしたこの著作は、歌い手本人はもちろん、永六輔(作詞)、中村八大(作曲)らの来歴、当時の日本のレコード業界の状況、全米ヒットチャートで第1位に駈け上がった経緯、その隠れた舞台裏などを澱みなく語って尽きることを知らない。著者佐藤剛氏は、本年6月20日、惜しくも世を去ったが(享年71)、この優れたノンフィクションは末永く読み継がれていくことだろう。クラシック、ポピュラーを問わず音楽を素材としたドキュメンタリーが少ないだけに、すこぶる貴重な1冊である。

佐藤剛氏は、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』編集者、営業マンからスタートし、音楽マネジャーあるいは音楽プロデューサーとして常に第一線で活躍してきた。とりわけ甲斐バンド、THE BOOMの売り出し、由紀さおりとピンク・マルティーニの合作アルバム「1969」(EMIミュージック・ジャパン)のプロデュースでその名を広く知られる。かたわら音楽物の書き手として揺ぎない地歩を固めてきた。『上を向いて歩こう』のほかにも『「黄昏のビギン」の物語』(小学館新書)、『美輪明宏とヨイトマケの唄』(文芸春秋)などの力作がある。氏は音楽をよく知るだけではなく、音楽を文章で表現する方法をもよく心得ていたので、読みながら音楽の生の現場に立ち合っているようなリアルな感覚に浸ることができる。

佐藤氏は綿密な取材に基づく様々なデータをその著書に盛り込んでいる。その成果を踏まえつつ、改めて「上を向いて歩こう」が全米ヒットチャートNO.1に輝いたその実態を振り返ってみよう。この曲がビルボード誌チャートで、初めて第1位となったのは、1963年6月15日号においてであった。22日号、29日号でもトップに居続け3週連続の快挙となった。ビルボード誌のライバル、キャッシュボックス誌のチャートでは6月15、22、29、7月6日号と4週連続、第1位を保持し続けた。レーベルはキャピトル。坂本の歌は日本で発売されたままの日本語によるものだが、題名は「SUKIYAKI」に変更された。しかも、発売当初は「SUKIYAKA」とわけのわからない名がつけられていたというおまけつきで。そもそも永の歌詞と料理のすき焼とはなんの関係もない。日本を象徴するわかりやすい言葉という理由だけで選ばれたのだろう。日本とアメリカがいかに遠く隔たっていたか、その実情を物語る興味深いエピソードではないか。

坂本九「上を向いて歩こう」(1961年)
「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」というタイトルで全米ビルボード誌のシングル部門1位に輝いたのは1963年6月15日。この日から60周年にあたる2023年6月15日、2枚組CDのほか「上を向いて歩こう」「SUKIYAKI」のアナログレコードなどもついた豪華BOX『THE BOX of 上を向いて歩こう/SUKIYAKI』が発売された。

名曲には伝説がつきものだ。「上を向いて歩こう」がアメリカでブームとなったきっかけは、ワシントン州パスコのラジオ局DJがファンの聴取者から日本盤のレコードを持ち込まれ、それをかけたことだといわれる。しかし、あれよあれよとヒットチャートを駆け上がったその裏側には仕掛人がいたのではないか? 佐藤剛氏は前々から疑い? の目を向けていた。そしてキャピトル・レコードのA&R(Artist & Repertoire)マン、デイヴ・デクスター・ジュニア(1915~90)の存在を突き止める。その名前を示唆したのは、もと中村八大のマネジャー、長らくロサンゼルスに住む桑島滉氏であった。桑島氏は以前から佐藤氏と同じくスキヤキ・ブームの裏側に興味を持っていて情報収集をおこなっていたところ、デクスター・ジュニアに突き当たった。直接、話を聞いたこともあったそうだ。幸いデクスター・ジュニアは自伝「PLAYBACK」を出版していて、そのなかでもスキヤキ・ブームのいきさつをくわしく語っている。以下、佐藤氏の著作からデクスター・ジュニアの貴重な証言を要約して紹介する。

あるときデクスター・ジュニアはカリフォルニア州フレズノのDJ(先のワシントン州パスコのDJではない)から電話をもらう。ある日本語の曲を流したところ、電話、葉書が殺到し大騒ぎが起こっているという。DJ氏曰く、「女の子のキュートな歌なんですよ。彼女の伴奏にはモダンなオーケストラがついていて、ヴィブラフォーンがフィーチュアされています」と。デクスター・ジュニアは早速、日本の提携先、東芝音楽工業から送られてきている見本盤のファイルをチェックしてみる。しかし、女性ヴォーカルのLPは1枚も見当たらない。東芝に問い合わせ、ミス・サカモトはミスター・サカモトで22歳の青年だと知る。もちろん、すぐに聞いてみた。「心地よいサウンドで、一緒に口ずさみやすい、MOR(中道路線)のポップス」という印象を持った。

注目したいのはその後の彼の素速い行動力である。かなり乱暴な話だけれど、日本からのLPをマスターにラジオ局向けのサンプル盤をプレスしたのだ。日本からマスターテープをとり寄せる時間ももったいないと思ったのか。配った枚数は2000枚とか。かたわらラジオでの評判がよかったら、すぐにでも一般発売できるよう準備を整えていたにちがいない。レコードがヒットチャートを駈け上がるためには、ブツすなわちレコードの手持ちがなかったら話は始まらないわけだから。フレズノのDJの情報から、彼はラジオで評判になることを十分に予測していたのだろうか。

しかしそれにしても、なにゆえ「SUKIYAKI」が多くのアメリカ人の心を捉えたのか。正解は、案外、フレズノのDJが口にした「女の子のキュートな歌」というひとことに隠されているのかもしれない。佐藤氏は往時をふり返って「一九六三年といえば、キュートな女性ヴォーカルがヒット曲に直結していたアメリカン・ポップスの時代だった。」と書いている。念のため八木誠監修・著『洋楽ヒット大事典』(小学館)の63年の項を見てみると、「60年代初頭よりみられた女性歌手の活躍が顕著となり」、多くのソロ歌手、グループが「相次いでヒット・パレード界に登場した」という記述があった。まさにこの年は、女性歌手ポーラをフィーチュアした男女デュオ、ポール&ポーラやリトル・ペギー・マーチがクローズアップされた年であった。

更に佐藤氏は1963年について次のような見方もできると述べている。エルヴィス・プレスリーの退潮とビートルズを筆頭とする英国ロック勢の攻勢のちょうど狭間に当たる年だったのではないか、と。男性歌手がうしろに引っ込んだ分、女性歌手が台頭しやすく、坂本九もその時流にうまくはまったという見立てである。

最後に佐藤氏の著作から身内代表として桑島滉氏の言葉を紹介する。

「詞を含めて、曲に力があったからです。それと、デイヴ・デクスター・ジュニアの耳が良かったということです。」

プロフィール

あべ・やすし

1933年生まれ。音楽評論家。慶応大学在学中からフリーランスとして、内外ポピュラーミュージック、ミュージカルなどの批評、コラムを執筆。半世紀以上にわたって、国内で上演されるミュージカルはもとより、ブロードウェイ、ウエストエンドの主要作品を見続けている。主な著書に「VIVA!劇団四季ミュージカル」「ミュージカルにI LOVE YOU」「ミュージカル教室へようこそ!」(日之出出版)。