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安倍寧のBRAVO!ショービジネス

現役を貫いて60年 バーブラ・ストライサンドの新コンピレーション・アルバム

不定期連載

第68回

バーブラ・ストライサンド 『エヴァーグリーンズ: 60年の在籍を祝して』 ソニー・ミュージックレーベルズ

『バーブラ・ストライサンド/エヴァーグリーンズ:60年の在籍を祝して』というCDアルバムがリリースされた。日本の音楽ジャーナリズムはこのアルバムにもバーブラの音楽界におけるその優れたキャリアにもほとんど関心を示していないが、ひとりの歌手がこのようなタイトルのもとに新コンピレーション・アルバムを出すというのは、もっと大騒ぎされていい出来事ではないか。

もっとも『60年の在籍を祝して』という文字を見てすぐにピンと来る音楽愛好家は、若い世代にはほとんどいないかも知れない。「在籍って、いったいどこにいたって話なの?」という声がどこからか聞こえて来るような気がする。そう、在籍とはある特定のレコード・レーベルと専属契約を結んできた、もう少し噛みくだいていえばあるレコード会社に身柄を預けてきたということなんですよ。バーブラの場合、なんと60年もの長きにわたり、アメリカ・コロムビア・レーベルと一心同体となって音楽活動を続けてきた、その経歴を祝す記念アルバムが出されたということだ。

レコード産業がショウ・ビジネスのど真ん中に居すわっていたとき、有名・人気アーティストの移籍を巡って札束が飛び交うのは当たり前のことだった。しかし、彼女には移籍の噂話は囁かれたこともなかった。バーブラの操が堅かったのか、双方の相性がよかったのか。ちなみに今回の60年という区切りは、1963年2月25日発売のデビュー・アルバム「バーブラ・ストライサンド・アルバム」から数えてのことである。当時はまだLPの時代だった。

バーブラ・ストライサンド

そもそも新人の音楽アーティストがデビューを果たそうとしたら、どこかのレコード会社のしかるべきレーベルの力を借りなければ一歩も進まなかった。自宅である程度のパッケージに仕上げネットに上げて世間の反応を見守るというような今日の状況とは、すべてが異っていた。「60年の在籍を祝して」というフレーズを目の前にすると、思わずレコード界における時代の移り変わりにも目を向けたくなる。

それはさて措き、バーブラ・ストライサンドは〝凄い〟アーティストだ。新人時代から揺るぎない存在感を見せつけて来た。人が望むことより自らがやりたいことをやるという姿勢は今も昔も変わらない。まさに〝わが道を往く〟だ。それが私たち見るほう聴くほうには堪(こた)えられないのかも知れない。もちろん卓抜の歌唱力、表現力あってなし遂げられることである。

バーブラとともに本作「エヴァーグリーンズ」のプロデューサーを務めたジェイ・ランダーズが書いたライナーノーツによると、このアルバムに収められている22曲のうち「スター誕生の愛のテーマ」を除くと、すべての曲が「過去のバーブラ・ストライサンドのコンピレーション盤には収録されていない。」という。ランダーズはまた次のようにも記している。「今回のコレクションのため、バーブラ自らおこなった選曲に、数字や記録はまるで関係がない。むしろ彼女が選んだのはどれも、彼女の心の中、記憶の中に特別な意味を持つ曲であり、そのメロディと歌詞からは、バーブラ自身の感情が伝わってくる。」と。

なお例外的な1曲「スター誕生の愛のテーマ」にも(2023年ミックス)という但し書きが付いている。念のため。

長年、バーブラはブロードウェイ・ミュージカルのよく知られた主題曲、それから転じてジャズのスタンダード・ナンバーになった楽曲を好んで歌って来た。このコンピレーション盤にも「魅せられて(Bewitched)」「トゥモロー(Tomorrow)」「魅惑の宵(Some Enchanted Evening)」などおなじみの曲が顔をそろえているが、私はむしろあまり知名度の高くない「フー・キャン・アイ・ターン・トゥ(Who Can I Turn To)」に心惹かれるものを感じた。この歌の作者でミュージカル俳優でもあるアンソニー・ニューリー(曲はレスリー・ブリッカスとの連名)との二重唱なのだが、ぴたり息が合った二重唱で、ついつい聴き惚れてしまう。

「フー・キャン・アイ・ターン・トゥ」という題名は英語を片仮名にしただけだが、ライナーノーツの対訳を見ると、このフレーズには「誰にすがればいいの」という訳が当てられている。そして「私を導く星はなく/そばで支えてくれる人もない」と続く。この曲のヒロインは、今、恋の真っ只中にいるらしいのだが、一方、いつ相手が去っていくかわからないという不安にもさいなまれている。相手から確かな反応が返ってくればくるほど、恋の行き先に不安を抱く。男も「けれど 誰にすがればいいのか あなたに拒まれたら」と同じような不安をもらす。男の不安は女の不安をますます増幅させることになる。恋する男女の揺れ動く微妙な心理を描いて興趣尽きない。

「フー・キャン・アイ・ターン・トゥ」は、1965年、ブロードウェイで開幕した『ドーランの叫び―観客の匂い(The Roar Of The Greasepaint―The Smell Of The Crowd)』という、題名からしてわけのわからないミュージカルのなかで歌われたナンバーである。ミュージカル自体、金持ち階級代表と庶民代表がいろんなゲームをするという一風変わった作品で知名度は高くない(それでもブロードウェイで、232回の上演記録を残している)。原作のミュージカルも曲そのものもマイナーだが、奥行きの深さ、芯の強さを感じさせる。そのあたりが口当たりのいいものより一捻りしたものが好きなバーブラの個性とぴったりなのだろう。

1965年開幕のブロードウエイ・ミュージカル『ドーランの叫び−観客の匂い』の オリジナル・キャスト版。バーブラの取り上げた「フー・キャン・アイ・ターン・トゥ」 はこのミュージカルの中の主題曲です。 ※著者コレクションより

バーブラ・ストライサンドは、数多くのアメリカ人歌手が日本でコンサートをおこなってきたなかで、来日公演のない例外的なスター歌手である。来日は、1977年、主演映画「スター誕生」のキャンペーンのために1回あっただけだ。1942年4月24日生まれ、当年とって81歳の今日、日本での生のステージは望むべくもない。その渇きを癒やすためにも『エヴァーグリーンズ:60年の在籍を祝して』を筆頭とする数々のアルバムを繰り返し聴くことになるだろう。

ランダル・リース著「バーブラ・ストライサンド」という彼女についての名評伝がある。邦訳(大崎愛子訳、東亜音楽社刊)は上巻「スター誕生」、下巻「シンデレラ・ストーリー」と2巻にわたる大著である。その最後を飾る文章を引く。

「前髪はおでこにかかり、その下から大きな目が覗く。青く澄みきり、生き生きと輝く目が。力強く存在感のある鼻は、彼女が乗り越えてきた障害の数々を象徴している。大きく豊かな口は、開く度に多くを伝えるのだ。」

これ以上、彼女の存在、経歴、特色を集約した文章を私は知らない。

登場初期のバーブラを縦横に描き出しています。歌手、女優の評伝としては 画期的ななものでしょう。 ※著者コレクションより

プロフィール

あべ・やすし

1933年生まれ。音楽評論家。慶応大学在学中からフリーランスとして、内外ポピュラーミュージック、ミュージカルなどの批評、コラムを執筆。半世紀以上にわたって、国内で上演されるミュージカルはもとより、ブロードウェイ、ウエストエンドの主要作品を見続けている。主な著書に「VIVA!劇団四季ミュージカル」「ミュージカルにI LOVE YOU」「ミュージカル教室へようこそ!」(日之出出版)。