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安倍寧のBRAVO!ショービジネス

1965年、そして1994年、私は二度、生のバーブラを聴いた

不定期連載

第69回

バーブラ・ストライサンド「Barbra: The Concert Highlights」ソニー・ミュージック

古い資料(CDアルバム、スクラップブック)をごそごそやっていたら、バーブラ・ストライサンドについて書いたライナー・ノーツが見つかりました(1995年執筆)。『BARBRA STREISAND THE CONCERT-HIGHLIGHTSバーブラ・ストライサンド/ザ・コンサート―ハイライト』のために書いたものです。前回、バーブラの話題をとり上げたので、その流れでアップします。ちょっと長目ですが、あしからず。後半に出てくる鼻に関するジョークをお見逃しなきよう。

 日記で確かめてみると、1994年6月23日のことである。この日、バーブラ・ストライサンドのマディソン・スクエア・ガーデンでの公演を見ることができたのは、私にとって、たとえようもなく僥倖なことであった。
 若い人たちにもすんなりわかるように、“ラッキーなことであった”でいいところを、なぜ、わざわざ仰々しく“僥倖なことであった”などと書いたかと言うと、“ラッキーな……”では、あのとき、私がバーブラのステージから感じていた感動の喜びが表現しきれないように思えたからだ。
 それほど、この公演でのバーブラ・ストライサンドには圧倒的な存在感があった。私のすわったアリーナの席は、決して悪い席ではなかったものの、2万人の観客を収容できるあのマディソン・スクエア・ガーデンのことである。ステージの彼女の一挙手一投足が手にとるように目に入るというわけにはいかないにもかかわらず、彼女のスターとしか言いようのない存在感が、ひしひしと感じとれたのである。
 1994年から遡ることちょうど29年前の1965年6月のある日、私は、同じニューヨークのウインター・ガーデン劇場でバーブラの主演するミュージカル『ファニー・ガール』を観劇している。あれは私にとって初めてのブロードウェイへの旅で、滞在中、片端から見て歩いた舞台のひとつが『ファニー・ガール』だった。
 断わるまでもなく、『ファニー・ガール』はバーブラの出世作である。この一作で彼女はスターダムにのし上がることができた。
 しかし、『ファニー・ガール』は、ブロードウェイにおける1964~1965年のシーズンの、もっとも入手の難しい切符、所謂ホッテスト・チケットだったかというと、かならずしもそうではなかった。ホッテスト・チケットは、キャロル・チャニング主演の『ハロー・ドーリー!』であった。
 『ハロー・ドーリー!』のほうは、3ヶ月も前から在ニューヨークの友人を通じてダフ屋から買ったというのに、『ファニー・ガール』は、ふらりと劇場の窓口に行って翌日のいい席を手に入れることができた。
 この『ハロー・ドーリー!』ともバーブラは因縁浅からぬものがある。1969年、ジーン・ケリー監督で映画化されたとき、主役の結婚媒介業をいとなむドーリー夫人に抜擢されたのが、ほかならぬバーブラだったのだから。

映画『ハロー・ドーリー!』(1969年) 写真:Everett Collection/アフロ

 映画『ハロー・ドーリー!』の主役がバーブラと決まったとき、ハリウッドとその周辺には、このキャスティングに異論を唱える向きがかなり多かった。コメディエンヌとしての闊達さということでは、キャロル・チャニングに1日どころか10年、20年の長さがあったからだろう。
 同じコメディエンヌといっても、このふたりの女優の間には芸風からして相当な隔たりがある。キャロル・チャニングという人は、どこまでもあけっぴろげな雰囲気とやるところまでとことんやる、サーヴィス精神を売りものにしている。一方、バーブラの個性には知的で、どことなくとり澄ましたところが感じられる。それに年齢的にも大きな開きがあった。
 1969年、このブロードウェイ・ミュージカルが映画化された時点で1921年生れのチャニング、48歳、1942年生れのストライサンド、27歳、なんとその差20歳以上である。
 これらのハンディキャップがありながら、バーブラが選ばれたのは、前年の映画『ファニー・ガール』の成功があったからにちがいない。ブロードウェイでこそ大スター、大女優であっても、ハリウッドとその観客には知名度が低いということが、チャニングに不利に働いたということも考えられる。
 しかし今や、われらがバーブラ・ストライサンドも当時のチャニングの年齢を大きく越える60代の大台に乗ったとは!
 余談になるが、キャロル・チャニングは、1994年からふたたび『ハロー・ドーリー!』を引っ下げて全米ツアーをおこない、1995年10月には遂にブロードウェイ入りを果たした。幸いボックス・オフィスの売り上げも好調である。
 実は私も、1994年11月、ボストンでなんと29年ぶりにキャロルのドーリー夫人を見たが、往年のしたたかなコメディエンヌぶり未だ衰えず、驚嘆せずにいられなかった。
 もちろん満員の客席は、彼女が舞台に現われただけで全員スタンディング・オヴェイション、一瞬にして興奮のるつぼと化すほどの歓迎ぶりだった。
 なぜキャロル・チャニングについてこれほど脱線してまで記したかというと、21歳も後輩のバーブラに是非ともこの大先輩の元気のよさをまさにあやかって、いつまでも活躍して欲しいと願うからにほかならない。
 バーブラのニューヨーク公演を全曲収録したライヴ盤『Barbra Streisand/The Concert(邦題:バーブラ・コンサート)SRCS7546~7/2枚組』のライナー・ノーツを読んでいたら、村岡裕司さんが次のように書いていた。
 「『ファニー・ガール』は、ブロードウェイやロンドンでバーブラのステージを見ることが出来た人にとってはステージの印象が強いだろうが、それ以外の人々には映画のヴァージョンのイメージが強いはずだ。かくいう僕も当然のことながら映画の方しか見ていないので後者の方」
 村岡さんの想像する通り、私のように『ファニー・ガール』を映画より先に舞台で見ている者には、生の舞台におけるバーブラの印象が5倍も10倍も強烈に記憶のなかに刻み込まれてしまっている。鮮烈な印象を残すといった点では、映画は、生の俳優の登場する舞台には勝てるわけがないのである。
 たとえば主役のファニー・ブライスに扮したバーブラが、往年のレヴィユゥ『ジーグフェルド・フォーリーズ』の一場面を再現した“ラ・タータ・タ”という景で、軍服姿なのにそれにそぐわない丸い眼鏡をかけ、身の丈より大きな星条旗を振りまわす姿など、今もって忘れようにも忘れられない。
 念のために書き添えておくが、『ファニー・ガール』は、1910年から36年の間、ニューヨーク名物の豪華絢爛たるレヴィユゥ『ジーグフェルド・フォーリーズ』で活躍した大スター、ファニー・ブライスを女主人公にしたバック・ステージ物である。このレヴィユゥは、大柄のスレンダー美人を売りものにしていたにもかかわらず、ファニー・ブライスは、例外的に小柄でしかも美貌とは言い難い女優だった。
 それでいながら、絶大な人気を得ていたのは、いつも天衣無縫なコメディエンヌぶりで客席を沸かせていたからだろう。イーディッシュ(ユダヤ人のドイツ語)訛りの英語で連発するジョークには、観客はお腹を抱えて笑ったものらしい。
 イーディッシュ訛りの英語を話す人は、ニューヨークでもブルックリンの住民に多い。もちろんブライスもブルックリン生れのブルックリン育ちである。同じブルックリン出身のバーブラも、祖父母や両親がイーディッシュ訛りの英語を喋るのを聴きながら成長したにちがいない。

映画『ファニー・ガール』(1968年)  写真:Everett Collection/アフロ

 無名の新人バーブラの『ファニー・ガール』での抜擢は、多分にブルックリン出身という経歴が買われてのことだったと思われる。
 そう、ジョークの名人という点もファニー・ブライスとバーブラとの共通項かもしれない。それで思い出すのは、マディソン・スクエア・ガーデンでの公演でバーブラが口にした凄いジョークである。
 それは、スティーヴン・ソンドハイムが歌詞を書き直した「アイム・スティル・ヒア」のなかの一節なのだが、なんと彼女は、
 “I’ve kept my nose to spite my face(私のご面相は鼻のせいで被害甚大)”
 と歌ってくれたのである。
 なるほど彼女の鼻は、これまでずっと邪魔であり続けてきた。彼女は、そのことをどんなに疎しく思ったことだろうか。
 ジョークは、われとわが身に向けて放たれるとき、10倍も100倍も痛烈さを増す。しかし、そのジョークで自分自身が傷つくことになるのだから、愉快であるわけがない。人間的におとなでジョークの効用を悟って初めてなし得ることではなかろうか。
 ソンドハイムにしても、おとなのバーブラならば、にっこり笑ってこのジョークを受け入れるにちがいないと想定して、このように書き改めたのだろう。
 これが精神的に成熟していない子どもっぽい歌手だったら、よくもあたしをからかったわねとばかり一騒動起きたにちがいない。
 私がステージを見た日も、このくだりでは、歌の途中にもかかわらず、やんやの大喝采が巻き起っていたものだった。
 これはジョークではないけれど、何か熱いものが胸に込み上げてくるということで、バーブラがマーヴィン・ハムリッシュを紹介するときの科白も忘れ難い。
 「わたしの指揮者で編曲者、そして大の親友の彼は、30年前、『ファニー・ガール』でリハーサル・ピアニストを務めていました」
 あの心揺さぶる名曲「アイ・ディド・イット・フォー・ラヴ」を含むミュージカル『コーラスライン』の全曲を書いたハムリッシュが、『ファニー・ガール』の稽古のピアノ弾きだったとは!
 あのとき、ふたりは出逢い、やがて、それぞれの才能の花を咲かせ、そして、その後もずっとアメリカ・ミュージカル界において押しも押されもせぬ立場を堅持し続けている。このようにアーチスト同士が同じ歴史を共有した上で、確固たる人間関係を存続させているからこそ、アメリカのショウ・ビジネスは揺るぎないのである。
 私は、マディソン・スクエア・ガーデンのアリーナ席でバーブラの歌を聴き、彼女の語りに耳を傾けながら、しばしば遥か昔の『ファニー・ガール』の舞台に思いを馳せずにいられなかった。1965年7月、思えば『ファニー・ガール』でデビューしたての若きバーブラを見ておいたことは、言いようもなく僥倖だった。
 そしてふたたび、29年後、アメリカ・ショウ・ビジネス界の大スターの座に昇り詰めたバーブラ・ストライサンドをこの目でしかと見ることのできた僥倖──。
 人生で出会ったふたつのこの大きな僥倖を改めて噛みしめるとき、生きていてよかったとつくづく思わずにいられない。
(1995/11/15)

プロフィール

あべ・やすし

1933年生まれ。音楽評論家。慶応大学在学中からフリーランスとして、内外ポピュラーミュージック、ミュージカルなどの批評、コラムを執筆。半世紀以上にわたって、国内で上演されるミュージカルはもとより、ブロードウェイ、ウエストエンドの主要作品を見続けている。主な著書に「VIVA!劇団四季ミュージカル」「ミュージカルにI LOVE YOU」「ミュージカル教室へようこそ!」(日之出出版)。