中井美穂 めくるめく演劇チラシの世界
『NORA』
毎月連載
第93回
『NORA』チラシ(表面)
淡いネイビーの背景の端に、1/4程度覗く顔。4種類のチラシかと思えば、実は折り畳まれた大きなサイズのチラシに、4人それぞれが映っています。この顔と「NORA」の文字以外は何もない、それゆえ目を惹きます。『NORA』プロデューサーの吉田直美さんにお話を聞きました。
中井 今回は、どんな経緯でデザイナーの加藤秀幸(grindhouse)さんにお声がけを?
吉田 舞台芸術部門芸術監督に岡田利規がこの4月に就任したばかりですし、新たな出会いが必要だと思ったのと、加藤さんがデザインされた『おどる夫婦』(2025/THEATER MILANO-Za)のチラシが印象に残っていて、何よりドラマ『凪のお暇』(2019/TBS系)の宣伝ビジュアルも手掛けられていましたから。黒木華さんが主演であることは決まっていたので、繋がりのある方がいいかなと。
中井 それにしてもすごいですよね、これ。
吉田 折り目を変えただけです。
中井 この、畳むことで4人それぞれの顔が出るというアイデアは加藤さんから?
吉田 4人の顔が並んでいるというデザインと折り畳む案は加藤さんからです。ノラ(黒木)とヘルメル(勝地)が表側にきていたのですが、そこに私が折りたたみ方を変えたら、クリスティーン(瀧内)とクログスタ(鈴木)のバージョンも出来て、つまり(ぱっと見)2種類のチラシができる。とご相談したら、加藤さんも「いいですね」と言ってくださって実現しました。
中井 ちょうどNODA・MAPを観て、(東京芸術劇場)プレイハウスを出たところのラックに4人の顔が並んでいて、インパクトがありました。
吉田 はい、あの場所のラックに配架する考えがあっての作戦でした。
中井 今回はどんなコンセプトでチラシの依頼を?
吉田 この作品はすでにスイス版とブルガリア版があって、その時の舞台映像を加藤さんに観ていただきました。スマホをベースにして物語が進んでいくことから、加藤さんの中でスマホをモチーフにというところがあったようです。「落として画面がバキバキに割れたスマホで、夫婦間の日々を表現できるかも」という案も出ましたが、結局はいちばんシンプルで、かついろんなことが想像できるデザインになりました。そこに、この折り方のアイデアが重なって。
中井 確かに、自撮りをするとだいたいこうなりますね。手前に自分の顔が切れて大きく入る。この顔と配置は、スマホを象徴していたわけですね。色合いも特徴的ですね。
吉田 色は1色にしたほうがいいよねということは、最初の打ち合わせで話していました。でもこの色味は加藤さんのアイデアです。紙も、最初の段階でいくつか今まで手がけたチラシなどのサンプルを見せてくださって、透けた、ザラついた感じのものがあったので、「これいいですね」となりました。繊細な色味なので、加藤さんのニュアンスがうまく伝わる印刷会社で印刷しました。
中井 単純にいっても、サイズを考えると通常の4倍分は紙代がかかりますよね? 絶対にこのデザインでやりたい、と?
吉田 もちろん見積もりを出していただいて、こちらも「どうしようかな」という段階はありました。でも、これはお金をかけてでもやりたいと。といっても、フルカラーではなく青の特色と、文字に使った銀の2色ですし。加藤さんは予算感も考えてくださっていたので、できることの範囲内で提案してくださいました。
中井 このブルーは、最初から決まっていましたか? 他の色も提案が?
吉田 墨の話は少し出たかもしれませんけど、かなり早い段階からブルーでした。夫婦のすれ違いの、孤独感や焦燥感を表すのには、こういう淡い色がいいんじゃないか、と加藤さんがおっしゃっていた記憶があります。感情的なゆらめき、内面的なネイビーということで指定されたのだと思います。
中井 裏の文字が透けているところもいいですね。NORAの文字も面白い。
吉田 儚い感じですよね。
中井 現代っぽさを感じます。
吉田 でも、このデザインが成り立つのは、この4人の顔を私たちが知っているというのも大きいかもしれません。
チラシが手に取られない今だからこそ生まれたもの
中井 『NORA』というタイトルを聞いて、『人形の家』にすぐ結びつく人もいれば、全く結びつかない人もいますよね。本来であれば「実は『人形の家』で」とか「スマホを軸にして」といったキャッチーなことを持ってくるというやり方もあると思います。けれど、このチラシには何もない。書かれている文字がタイトルかもわからないし、このもの自体が、チラシか新聞かもわからない。だから、目を惹きますよね。
吉田 最初の打ち合わせの時に、今チラシは持っていかれないという話をしたんです。スマホでチケットが買えるし、ビジュアルもスマホで確認する。そんな中で確実に手に取ってもらえるものはなんだろう? と考えた時、一風変わったアイデアとしてこの形態が出ました。
中井 近寄ってみると、あれ、4人分ある。まず最初に開くと2種類ある。でどちらももらって帰る。で全部開いたら「あ、一緒か」という。開いてみると裏側に情報が載っている。この潔さはすごいですよね。
吉田 この余白は効果的な感じがしますよね。なんでチラシを作るのかという部分で、情報だけ得たいのであればスマホでいい。けれど、チラシはここからもう作品が始まっているということなのかもしれません。
中井 入口としても、チラシは演劇の世界では重要というわけですね。評判はいかがですか?
吉田 各方面から面白いねと言っていただけます。
中井 たまたま今作のヘアメイクを担当されている赤松(絵利)さんとお話しする機会があったのですが、「(稽古場は)面白いですよ」と話していました。「ほとんどセリフがないよ」と。
吉田 そうですね。序盤の方は特に発話するセリフが少ないので、稽古場も最初シーンとしていました。舞台の前面に4つのスマートフォンの画面が映し出されるんです。
中井 実際に役者さんたちが打ち込む文字が、そのまま。
吉田 はい。リアルタイムに投影されるので、文字の打ち間違いも全部出ます。役者さんたちは携帯を実際に操作しながら演技をしています。
中井 では、誰かがセリフを言っている時に、ノラがスマホを入力していることも?
吉田 あります。舞台は三面に区切られていて、上手でノラを演じる黒木さんが乳母と子供とやり取りをしている時に、下手側ではヘルメル役の勝地さんが床屋に行って髭剃りをしてもらっている。それぞれに発話する会話もあるし、舞台前面に投影されるスマホ画面ではメッセージのやり取りが流れていく。ストーリーの主軸は分かるようになっている演出だけれど、舞台上で起きていることの何にフォーカスするかで、一度の観劇では見つくせない面白さがあります。
スマホの画面上でも繰り広げられる物語
中井 お話としては『人形の家』そのままですか?
吉田 そうです。
中井 でも『人形の家』はとても現代的なテーマですよね。
吉田 近代劇の革新的な作品で、女性の自立について描いたと言われていますが、今の私達の感覚からすると、色んな見方ができるし、ノラの生き方・権利についても意見が分かれると思っています。
中井 海外演出家と組む際には、翻訳や通訳、演出助手もかなり重要になるかと思いますが。
吉田 演出のティモフェイ・クリャービンさんとドラマトゥルクのロマン・ドルジャンスキーさんがロシア語での上演台本を書かれています。それをベースにロシア語通訳の小賀明子さんと演出家の熊林弘高さん作品のドラマトゥルクでも活躍されている田丸一宏さんが日本語台本のベースを作ってくれました。ティモフェイさんからは、稽古場で役者たちと相談しながらセリフを変えていきたいという希望がありました。
中井 きっとそこが一番難しい部分でもあるのでしょうね。
吉田 言葉の機微は日本側じゃないとわからない部分があるので、難しいですよね。でも皆さん、演出家に積極的に質問されています。スマートフォンの画面上で繰り広げられるセリフについても、改行位置を気にしてみたり、くだけた感じでやってみたりと工夫をしてくださっています。
中井 楽しみです。スマホがあるということは、『人形の家』でありながら現代劇ということですよね?
吉田 そうなります。ノラたちの役名はそのままで、日本語でLINEをやり取りしている不思議な違和感がありますけど。
中井 面白いですね。
吉田 ただ、海外の、しかも19世紀末の戯曲だけれども、スマホというガジェットがあることで異国の話でも昔の話でもなくなる。稽古場でも、ティモフェイさんが日本人の俳優を演出しているのに「違う国の話」とはあまり思わないんですよ。それは、スマホが世界共通のツールになってしまっているからだと思うんです。実際、ドイツにいる衣裳プランナーさんとスマホのアプリを通じて翻訳機能を使いながらやり取りしました。それで意思疎通が取れてしまう。完璧ではないけれども、便利ではあるなと思います。だけど、やっぱり生身のコミュニケーションも大事で。
中井 演劇はその最たるものですね。人が出かけていって、劇場で座って、生身の人が出てきて2時間くらいで終わって、それぞれの家に帰っていく。原始的な面白さがあるもの。それにしても、今まで『人形の家』を知っていた方も、かなり違う手触りの物語になっているということですね。このプロダクションが動き始めたのはいつ頃ですか?
吉田 2019年にティモフェイ演出の、手話で演じる『三人姉妹』をロシアから招聘したんです。それがあまりにもすばらしかったので、また一緒に仕事がしたいねと。そこで、前芸術監督の野田秀樹さんが力をいれていた東京演劇道場でワークショップをやってもらったんです。そこでティモフェイさんも手応えを感じてくださったみたいで、この公演が動き始めました。
中井 そんな経緯が。
吉田 外国人演出家と一緒にやって思うのは、言葉がわからなくても、いい俳優さんはちゃんとわかるんだなということです。
中井 セリフの発し方なのか何なのか、伝わるものがあるのでしょうか。私はさいたまゴールドシアターの公演で、どうしても目が行ってしまう方がいて。すごく価値観を揺さぶられたことを覚えています。と思ったら、加藤さんは以前俳優として蜷川作品に出演されていた方だとか!
吉田 私もお聞きしてびっくりしました。
中井 蜷川さんはいろんな人を生み出したのだなと驚きました。お話を聞いて、ますます公演が楽しみになりました。
吉田 嬉しいです。先日、劇場でこのチラシを開いてくださるお客様を見かけて、加藤さんと最初にお話しした、「持って帰ってもらえる、手元に置いておいてもらえるチラシ」になった気がしました。
中井 現代の人にこそ観てほしいですね。私は以前夫と『人形の家』を観にいった時、夫が「俺がノラだな」と言っていました(笑)。そんなふうにやり尽くされている作品が新たに違った形で立ち上がるのはいいですね。
吉田 コミュニケーションのあり方がフォーカスされると思います。ノラの生き方だけでなく、いろんなものを感じていただける作品かもしれません。
中井 若い方はもちろん、年齢層の高い方にも観ていただきたいですよね。アンダー25のように、オーバー75のチケットがあってもいいかもしれない。「『人形の家』昔観たわ」という方が観にきたりして。
吉田 確かに!上演を繰り返す作品はそういったことも考えられますね。
中井 スタンダードな戯曲を今やる意味は問われるわけで、「いろんな世代の目から観て残していく、というのは公共劇場しかできない取り組みだと思います。こじつけのようですけど、そういうことも含めて、いろんな可能性を、このチラシの余白からは感じます。観て感じたことを書き足してもいいかもしれませんね。
取材・文:青島せとか 撮影:藤田亜弓
公演情報
『NORA』
【東京公演】
日程:2026年7月15日(水)~26日(日)
会場: 東京芸術劇場 プレイハウス
【宮城公演】
日程:2026年8月1日(土)
会場: えずこホール(仙南芸術文化センター)大ホール
【愛知公演】
日程:2026年8月15日(土)・16日(日)
会場: 春日井市民会館
原作:『人形の家』ヘンリック・イプセン
演出:ティモフェイ・クリャービン
ドラマターグ:ロマン・ドルジャンスキー
出演:黒木華 勝地涼 瀧内公美 鈴木浩介
石村みか 今井公平 越後静月 大滝樹 小幡貴史 木山廉彬 中野風音
天野叶愛 木根渕凛音 佐々木直輝 滝澤このみ 福元愛悠 師岡結月
宣伝美術:加藤秀幸(grindhouse)
インスタグラム
プロフィール
中井美穂(なかい・みほ)
1965年、東京都出身(ロサンゼルス生まれ)。日大芸術学部卒業後、1987~1995年、フジテレビのアナウンサーとして活躍。1997年から2022年まで「世界陸上」(TBS)のメインキャスターを務めたほか、「鶴瓶のスジナシ」(TBS)、「タカラヅカ・カフェブレイク」(TOKYO MX)、「華麗なる宝塚歌劇の世界」(時代劇専門チャンネル)にレギュラー出演。舞台への造詣が深く、2013年より読売演劇大賞選考委員を務めている。