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樋口尚文 銀幕の個性派たち

尚玄、島から世界へ吹き抜ける風(前篇)

毎月連載

第82回

撮影=樋口尚文 撮影協力=神保町「猫の本棚」

グローバルな活躍を続ける俳優・尚玄が8年ごしの自らの企画を実現し、主役を果たした挑戦作『義足のボクサー』。フィリピンの名匠ブリランテ・メンドーサ監督の泰然とした演出を得て、尚玄の代表作のひとつとなった本作は、雑味のない澄みわたった仕上がりが思わず観る者を瞠目させよう。これまでの俳優人生で、尚玄はどんな思いを抱えながらこの作品にたどりついたのか。その誠実な人柄がにじむ言葉の数々を前後篇でお届けする。

沖縄を出たらどこだって同じ「異国」

── 『義足のボクサー』の企画はいつに遡るのでしょう。

十年以上前にこの主人公のモデルとなった土山直純君と仲よくなって、お互いのことを話すようになったんです。ところが普通に飲み屋で会っているぶんには、彼が義足ということにまったく気づかなかった。四回目か五回目に会った時にようやくそのことを知ったんです。

── 義足は踵のところは垂直で曲がらないわけですが、他のところは普通と変わらないんですね。

もうズボンをはいていると、動きも普通なのでまるでわからないです。それで話を聞いていると、彼は当時まだ30歳くらいだったのに、映画になるような人生のエピソードが多くて驚きました。それで8年くらい前に、あなたの人生を映画にしていいかと切り出しまして、僕の初主演映画の『ハブと拳骨』以来お世話になっている山下貴裕プロデューサーに相談しました。

(C)2022「義足のボクサー GENSAN PUNCH」製作委員会

── そもそもボクシング映画は好きだったのですか。

沢木耕太郎さんのノンフィクション『一瞬の夏』を愛読して、ボクサーの映画を作れたらとずっと思っていました。映画で言えば、それこそ『アンチェイン』から『レイジング・ブル』までとても好きです。ただこの企画は『ロッキー』のようにフィクションとして痛快なものでもないし、あえて言えばミッキー・ロークの『レスラー』に苦味のあるドキュメンタリー・タッチの作品かなと考えていました。

── しかしこういう企画はなかなか日本の映画業界では難しいでしょう。

そうなんです。いかに「事実に基づく物語」といっても、そのモデル自体に大きな知名度があるわけでも、売れた原作があるわけでもない。そんな状況のなかで、これはいずれにしても撮影はフィリピンが中心になるし、英語のコミュニケーションも必要とされるだろうから、いっそ海外の監督にお願いしてもいいのでは、ということになったんです。

── それでよりによってブリランテ・メンドーサ監督と出会った経緯とは?

まず旧知のシンガポールのエリック・クー監督に相談したら、「これはひじょうに興味深い内容だが、僕はフィリピンのことがよくわからないので、メンドーサ監督に相談してみては」という助言を下さったんです。メンドーサ監督はちょうど2018年の東京国際映画祭で審査委員長をつとめる前、その年の釜山国際映画祭に見えるというのでそこへ伺って話をしました。すると監督は「そんなにこの企画をやりたいのなら、一度うちのスタジオに来なさい」とおっしゃるので、間髪入れずにフィリピンに飛んで、この企画について熱くプレゼンテーションしました。そうやってメンドーサ監督に決まってからは、一気に実現に向けて動き出した感じです。折しも東京オリンピックが近づいてきてパラリンピックにも共鳴や理解が深まった時期だったので、その機運も味方してくれました。

(C)2022「義足のボクサー GENSAN PUNCH」製作委員会

── しかし主演だけでなく自分で企画して、アソシエイト・プロデューサーを兼ねて製作費集めにまで奔走されたというのは本当に素晴らしい姿勢ですね。

その根底にはやはり沖縄人の自分が日本の映画業界で「外国人」扱いされた体験があると思います。まだ若い頃に、ある映画プロデューサーに「君みたいなルックスでは日本では映画やドラマのいい役にありつけることなどない」という趣旨のことをきつく言われてショックを受けたんです。でもそういう体験があったので、それなら日本にこだわらないで海外の作品に出ればいいじゃないかという発想の転換につながって、演技と英語のスキルを高めるためにニューヨークに演技を学びに行ったりしました。

── しかし若い時分にそんなことを言われて折れるのではなく、よくそういう前向きな方向に身を処しましたね。

そもそも僕の中では「沖縄の内か外か」ということが問題であって、沖縄を出たらどこも一緒という気持ちはあったんです。もちろんなじんだ日本で仕事ができれば嬉しくはありますが、世界のどこであれ自分の芝居が出来るところで頑張ればいいんだと考えるようになりました。

── でもそれはめぐりめぐって、ボーダーレスでとても現在的な考え方とも言えますね。

だからこそ、国内の規約ゆえにプロになれない義足のボクサーが夢をかなえるためにフィリピンへ飛んだ、という物語にここまで心底思い入れられたのだと思いますし、この役に相応しいのは自分しかいないという気持ちもあります。

テクニックより深いところで役をつかむこと

撮影=樋口尚文

── 『義足のボクサー』の舞台となるジェネラル・サントスゆかりの原題『GENSAN PUNCH』というタイトルはどなたが考えたのですか。

僕らは他にもいろいろ考えていたのですが、これはメンドーサ監督が考えたんです。

── ついに念願のクランクインを果たしたのはいつでしょう。

2020年の1月で、まさに新型コロナ禍による規制が始まる直前に滑り込んだ感じです。おかげでリングを囲む群衆のシーンも問題なく撮れました。メンドーサ監督は撮影の前にお互いをよく知るプロセスを大事にされるので、クランクインの前にも二度フィリピンに行きました。そこでちょっと突っ込んだプライベートな話もして信頼感を築くんですが、結果、この人物像は土山直純くんに加えて僕自身の個人的な要素もいくらか入っているかたちに育って行った感じですね。たとえば南果歩さんの母親役との関係性などは、そんな監督との交感のなかで加味されました。一方ではフィリピンのボクシングジムにも通うことができて、メンドーサ監督のおかげでさまざまに心身の準備ができました。

── 撮影中の演出でメンドーサ監督はどんな指示をするのでしょう。

もう役になりきっていてくれれば余計なことを注文する必要はないと、本当に任せてくれて、ことこまかな指示などは一切ありませんでした。そのかわり、カメラを向けていないところで気を抜いたりしている俳優は怒られていました。ちなみに監督は舞台となっている場所に、あえてこちらには知らせずにトリガー的なものを配するんです。たとえばそこに思わぬ人物が急に配置されていて、それをどう受けるかを見ているんですが、こちらがちゃんと役に入って入ればそのリアクションも自然と出てくるので全くやりにくいことはありませんでした。

(C)2022「義足のボクサー GENSAN PUNCH」製作委員会

── それってちゃんと演技しようとする俳優にとってみれば、最高にやりがいもあり、演ずる愉しさもふんだんにある現場ではないですか。

最高だと思います。だからカメラさえ意識せず、テクニックよりも深いところで役をつかんでいれば自在に演じていいんだ、という演技の根本に立ち返ったような気がしました。

── 俳優を自分の鋳型に押し込めるまで何度もカメラを回す監督もいますが、メンドーサ監督はそういうタイプでは全くないでしょうから、きっとテイク数も少ないでしょうね。

カメラは3台回しますが、テイクは重ねないですね。

── カメラは3台なんですか? しかもメンドーサ監督は手持ちが多いから、試合のシーンなどはお互いが入らないようにポジションを決めるのが大変なのでは。

そこはもう一緒に作品づくりを重ねてきたメンドーサ組ならではの呼吸で、まるでまごつかずに見事なカメラワークをやってのけるんです。あれは普段からずっと一緒にやっているファミリーでなければ無理ですね。また、3台のカメラがとらえる映像を都度都度きびきびと確認しながらよどみなく撮影を進めてゆくメンドーサ監督も凄いです。

── 試合のシーンは迫真の演技ですが、あれはアクション・コーディネーターのようなスタッフがいるわけですよね。

僕も心配だったので、そういうスタッフはいるのかと事前に聞いたのですが、ずっと「ノー・プロブレム」と言って来るだけなんです(笑)。それでいざ撮るとなるとそんなスタッフはいなくて、対戦相手は基本的にプロなのですが、段取りも決めずに監督から「強過ぎなくていいから当ててほしい」(笑)とのみ指示されて始めるんです。「強過ぎず」と言ってもやはり当たると痛いし、こちらも熱が入ってくると距離は縮まってゆくので加減が難しくなりますよね。だから、あの対戦相手が鼻血を出しているのは本当に僕のフックが入ってしまったせいなんです。

── あの鼻血はみごとなメイクだなと思いましたが、まさか本物とは! さすがに凄い撮り方をしますね。リアルという点では、手持ちのカメラなのに義足のVFXもごく自然に仕上がっていました。

でも最初に義足を外した足が出てくるのは、実は土山直純君本人の足で、なんとカメラの動きのなかで一瞬のうちに僕と入れ替わっているんです。メンドーサ監督はそういう古典的なやり方も堂々ととり入れるから面白いですよね。

── あんなに自然な義足のVFXが可能なのに、一方であえてサイレント映画級の技法をやってしまうと、「まさかそんなことはしていまい」と観客は思うのでしてやったりですね。

ところが、そんなふうに2020年の1月から3月までぐっと集中力を維持しながらフィリピン、沖縄、福岡とロケして、ようやく撮了したと思って安心していたら、メンドーサ監督が追撮したいと言いだしたんです。でもその頃から新型コロナ禍が本格化してえんえん渡航もできず、なんと僕が改めてフィリピンの地を踏んだのは15ケ月後の2021年6月のことで……。

クリシェはことごとく排除する

撮影=樋口尚文

── そのスタンバイ期間はしんどかったでしょうね。

そうなんです。いつ撮影が再開されるかわからないので、ずっと体型は維持しないといけない。フィリピンに飛べるかと思いきや果たせずの繰り返しで15カ月、週に5~6回はジムに通って体をキープしていましたが、これは本当にキツかったです。

── その追撮というのはどういう箇所なのでしょう。

監督は全体にわたって組み直そうとしていましたね。さまざまなものを切ってみて、全体に新たに欲しい部分が見えてきたということでしょう。でも、それを迷わず「追撮したい」と言うところはさすが巨匠です(笑)。追撮自体は3日で終わりましたが、そのために製作費も追加で集めないといけないし、僕は15ケ月ものストイックな体の維持が求められました。その期間は言わば錨をおろした船の状態なので、体型のことだけでなく精神的にもさっぱり切り替えてしまうわけにはいかず、これはしんどかったです。

── でもこの作品のエンディングには意外や長めのメイキング映像が付いていて興味深いのですが、これを観ているとスタッフもキャストもやけに楽しそうでびっくりしました。

実際本当に明るい現場なんですよ。フィリピンの皆さんはとにかく陽気なので、撮影中も笑ったり踊ったりで全くピリピリしていない素敵な現場で。僕は役を維持するためにその陽気さにのまれないようにするのもタイヘンでした(笑)。

(C)2022「義足のボクサー GENSAN PUNCH」製作委員会

── 仕上げに至る過程で、メンドーサ監督はどういう方向性を打ち出して行ったのでしょう。

監督は、いわゆるボクシング映画にありがちな、観客が観たがるクリシェはことごく排除するかたちに持って行きましたね。それから僕とジムの娘の男女としての感情を描く部分もかなり切っていましたので、映画としては僕とコーチの関係性にごくシンプルに絞り込んだものになりました。

── この作品を観てとても澄んだ印象があったのですが、それはまさにそういったボクシング映画というジャンルが予想される盛り上げのクリシェを濾過した結果、映画が澄み渡っているように感じたんですね。

(続く)

データ

COME & GO カム・アンド・ゴー
2021年11月19日公開
配給:リアリーライクフィルムズ/Cinema Drifters
監督・脚本:リム・カーワイ
出演:リー・カンション/リエン・ビン・ファット/千原せいじ/渡辺真起子/桂雀々/尚玄

親密な他人
2022年3月5日公開
配給:シグロ
監督・脚本:中村真夕
出演:黒沢あすか/神尾楓珠/上村侑/尚玄/佐野史郎/丘みつ子

義足のボクサー GENSAN PUNCH
2022年6月10日公開
配給:彩プロ
監督:ブリランテ・メンドーサ
製作:山下貴裕/クリスマ・マクラン・ファジャード/子尚玄
出演:尚玄/ロニー・ラザロ/ビューティー・ゴンザレス/南果歩

プロフィール

樋口 尚文(ひぐち・なおふみ)

1962年生まれ。映画評論家/映画監督。著書に『大島渚のすべて』『黒澤明の映画術』『実相寺昭雄 才気の伽藍』『グッドモーニング、ゴジラ 監督本多猪四郎と撮影所の時代』『「砂の器」と「日本沈没」70年代日本の超大作映画』『ロマンポルノと実録やくざ映画』『「昭和」の子役 もうひとつの日本映画史』『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』『映画のキャッチコピー学』ほか。監督作に『インターミッション』『葬式の名人』。新著は『秋吉久美子 調書』。『大島渚 全映画秘蔵資料集成』(編著)。

『大島渚 全映画秘蔵資料集成』監修:大島渚プロダクション 編著:樋口尚文 国書刊行会刊

【ひとこと】

2013年に他界された大島渚監督が、自宅やプロダクションの保管庫などに遺した大な資料、写真、書簡、日記などをすみずみまで精査し、詳細な解説を加える作業を重ねてきましたが、濃厚な内容と圧倒的な厚みの本書に結実しました。日本映画史に刺激的に屹立する作家の「創造の渦」をぜひ体感してください。(樋口尚文)

『葬式の名人』

『葬式の名人』
2019年9月20日公開 配給:ティ・ジョイ
監督:樋口尚文 原作:川端康成
脚本:大野裕之
出演:前田敦子/高良健吾/白洲迅/尾上寛之/中西美帆/奥野瑛太/佐藤都輝子/樋井明日香/中江有里/大島葉子/佐伯日菜子/阿比留照太/桂雀々/堀内正美/和泉ちぬ/福本清三/中島貞夫/栗塚旭/有馬稲子