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樋口尚文 銀幕の個性派たち

中丸新将、個性派の鑑のごとき横顔(前篇)

毎月連載

第88回

TBS『華麗なる一族』(2007)

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1949年生まれの中丸新将は、今やインテリ風の大物の悪役から心優しき市井のシニアまでみごとに演じきる大ベテランの個性派俳優だ。まさに個性派の鑑のような中丸は、なんと高校時代に銀座にあった伝説のシャンソン・カフェ「銀巴里」のステージに立ったという異色の経歴を持ち、その美貌と声は、さまざまな演出家から愛された。パリ留学を経て本名の「中丸信」名義にて劇団四季で活躍、さらにはいきのいい日活ロマンポルノに飛びこんで数々の鮮烈な演技を披露、それ以降は一躍映画からテレビドラマ、舞台まで引く手あまたのバイプレーヤー道を歩んできた。今回はその横顔を探ってみたい。

中二でひそかに「新入社員」役を

──新将さんは横浜の鶴見でお育ちですが、ご実家はどんなお仕事をなさっていたんですか。

東京ガス(当時は東京瓦斯株式会社)の下請けの運送会社で、それこそ馬車でコークスを運んでいた昔から続く家業だったんです。父が戦争から帰って来た頃に中丸運輸合資会社というかたちになった。父は四男で四郎と言ったんですが、きょうだいは一郎から七郎までいたのに、戦争で亡くなったり、不慮の事故で亡くなったり。結局、祖父が88歳まで生きたのに、子どもたちは皆早死にで、いちばん長生きしたのがうちの父。それでも68歳でしたけれども。

──その家業をお手伝いされたり?

中学の頃はうちの会社でアルバイトしてました。高校になると長者町の、おやじの知り合いがやっていたガソリンスタンドで働いてました。

──そんな新将さんが演技に興味を持つきっかけは映画ですか。

幼い子どもの頃にはお芝居に興味があったのですが、やっぱり映画の影響ですね。当時は映画黄金期だから鶴見に八軒も映画館あった。東映から大映まで邦画各社の劇場がずらりとあったし、洋画専門も二館。アメリカ映画専門館と、横浜レアルトというヨーロッパ映画専門館。うちの祖父が地元では知られた人だったので、生意気にも僕は顔パスで入れたんです。

──ではもう片っ端から観ているという感じでしょうね。

東映の時代劇から大映の大人っぽいメロドラマまで、もう何でも観ました。小さい時は『鞍馬天狗』からジョン・ウェイン、ランドルフ・スコット、アラン・ラッドの西部劇まで。それでチャンバラごっこをしたりガンマンごっこをしたり。でも小学校に入ったらもうフランス映画にはまって。横浜レアルトで『大いなる幻影』とかわけわからずに観てましたね。それからデートリッヒ作品も。レアルトの番組は、たいていは『にがい米』とかヨーロッパ映画でしたが、東宝系の『モスラ』なんかもやっていたかな。

──小学校でジャン・ルノワールに耽溺とはおませさんですね(笑)。新将さんはフランス語もお得意ですが、その頃のフランス映画の影響もありますか。

確かにレアルトでは吹き替えなしのフランス語を聴いていたので、学校でインチキなフランス語のものまねなんかやってました(笑)。そのほかにも、フジテレビでお昼に「奥様映画劇場」というのをやっていて、そこでミレーヌ・ドモンジョやらミシェル・モルガンやらが出ているフランス映画を吹き替えで観てましたね。

──中学高校は成城学園ですが、鶴見からだとちょっと距離がありますけれども、これは何か動機が?

鶴見は京浜工業地帯のど真ん中で空気が悪くて、親父も喘息気味だったから、いくらかでも空気のいいところの学校へ行きなさいということで成城に行ったんです。当時の成城はひなびたいい環境でしたから。成城の中学ではバスケ部だったんですけど、演劇部も入ってくれというんで一本だけ公演に出ましたね。有島武郎の『ドモ又の死』です。

──演劇部の舞台にも立った新将さんは、なんでも中学時代にテレビドラマに出ていたんだそうですね。

1963年、中二の暮れに家でとっていたスポニチで、フジテレビの渡辺プロがやるドラマの「新入社員役募集」って記事を見つけたんです。谷啓さんと梓みちよさんが主役の『天下の若者』。年齢はごまかせばいいやと思って写真を撮ってもらって、生まれて初めて履歴書を書いて応募したら受かっちゃった。これが一年間続くドラマで、クレージーキャッツから曾我廼家明蝶、ミヤコ蝶々、南都雄二と東西の喜劇人が総出演。びっくりしたのは、なんとゲストでエノケン(榎本健一)も出たんです。

──中学生がそんなオールスターのドラマで新入社員をやっているというのは、今ならありえませんね。

しかも当時はギャラは手渡しだから、もう日比谷の三信ビルにあった渡辺企画で毎週ギャラをもらうたびに、日比谷で映画を観て、洋服買って洋食食べてなくなっちゃうわけ(笑)。日比谷といえば宝塚劇場の上にあった東宝演芸場の東宝名人会に行って中学で五代目志ん生師匠を聴いてましたからね。

「銀巴里」からパリの演劇学校へ

「銀巴里」オーディションの頃

──その流れでなんと「銀巴里」のステージにも立ってしまった。

ませてたから「銀巴里」にも行ってビール飲んでワンステージくらい聴いて帰ってたんですけど、これが高校になったら自分が出ちゃうことになるんですね。当時の「銀巴里」はもう客席からして凄くて三島由紀夫さんとか仲代達矢さんとかそうそうたる皆さんが聴きに来ていた。本当に素晴らしい場所で毎週通っていました。するとある日、丸山明宏(現・美輪明宏)さんがご出演の時に三島由紀夫さんが見えたのですが、なぜか私も同席させていただいて。狭いシャンソン・カフェだし、自分で言うのもおかしいですがオシャレなガキでしたから目立っていたのでしょうね(笑)。

──それにしてもどうしてご自分が高校生で歌うことに?

そうやって通ううちに田中朗さんというシャンソン歌手の方にかわいがっていただき、時々オーディションがあることを教わったんですね。それを受けてみたら合格して、「中丸信」で1ステージ歌いました。その時はフランス語の歌詞を日本語で歌ってくれないかと言われたのですが、自分はフランス語で覚えているので無理ですと言って、そのまま歌いました。他に原実とB&Bというバンドが出た時に二回ほど歌いましたね。

──後に「銀巴里」のことを美輪明宏さんと話す機会があったそうですね。

それから10年以上経った1980年に、若くして亡くなった尾上辰之助さん主演の『リチャード三世』に出たのですが、この時美輪さんが辰之助さんと共演されていた。そこで「銀巴里」の話をしたら「あら、あなた出たの?!」って覚えていただきまして(笑)。その後、美輪さんのステージで司会と前歌、つまり前座をつとめさせて頂いたこともありますよ。

──でもその後は桐朋で演劇の勉強をなさるんですね。

ドラマや「銀巴里」の出演はあくまで中学高校の時の思い出で、桐朋学園大学短期大学部に進んでからは演劇一本です。俳優座養成所が閉じて三年後なので千田是也先生や田中千禾夫先生がスライドして来て教鞭をとられていました。

──桐朋時代になんとパリのジャック・ルコック国際演劇学校に留学されました。ここはピーター・ブルックをして「世界で最高の演劇学校」と言わしめたところですね。

学校でパントマイムを教えてくださっていた大橋也寸さんの紹介でジャック・ルコック国際演劇学校に留学しました。大橋さんはこの学校の日本人最初の卒業生。ここではパントマイムもやるんですがそれはあくまで授業の一部で、基本は演劇を学ぶところですね。有名なニュートラル・マスク(中性仮面)とクラウン(ピエロの赤鼻)を用いた授業も経験しました。三カ月ごとのコースが4セットあって一年。ここではお話ししきれないほどのことを学びました。

──それは貴重な経験でしたが、フランス語もこの時に勉強されたんですね。

留学に行くと決めてから一年間、ちゃんと教わりました。「劇団民藝」の演出家の渡辺浩子先生が桐朋学園で教えておられたんですが、「中丸くん、フランス行くんだったら、うちの義理の弟に週一くらいで習ったら」と。この妹さんのご主人がフランス生まれのベトナム人で、ベトナム家具の輸入もやっているタンさんという方。とてもいい人で、緊張してたらワイン飲みながら教えてくれた。ああ、奇しくも今お話ししているこの場所(日比谷)のすぐ近所ですよ。

──留学から帰ると、印象的な舞台の主役をなさったそうですね。

留学の後で安部公房ゼミに入ったんですが、そこで清水邦夫さんが初演で、しかも当て書きしてくださった『いとしいとしのぶーたれ乞食』に主演しました。それを観ていた紀伊国屋の田辺茂一さんが「君は学生だけど素晴らしいので表彰する」と言って黒いお財布から二十万をくれたんですよ(笑)。この後、ブレヒトの『ハッピー・エンド』でも主演しましたが、『ぶーたれ乞食』の時は、田中邦衛さんも千田先生の隣で観てくださっていて。終わった後で千田先生が邦衛さんに「中丸はおまえの若い時に似てるな」って言ってたらしいです。

「劇団四季」のメンバーに

日本テレビ『愛しい女』(1980)欧州ロケ

──本連載(第70回)でもまさにそのことを記したのですが、田中邦衛さんももともとは新将さんのようにホームドラマというよりがヌーヴォー・ロマンが似合いそうな低温の雰囲気だったんですよね。

そうなんですよ。邦衛さんにもかわいがっていただいて、アパートを借りる時の保証人にもなってもらいました(笑)。そんな邦衛さんや井川比佐志さんたちが集まって1973年に演劇集団「安部公房スタジオ」を発足させた時は、安部先生から直々にお誘いの電話をいただきました。とても光栄だったのですが、ちょうどこれが「劇団四季」に入るというタイミングだったんですよね。

──「劇団四季」に参加するきっかけというのは?

それまで「四季」に入るという展望は全くなかったのですが、1973年に中野サンプラザで初演の『イエス・キリスト=スーパースター(後のジーザス・クライスト・スーパースター)』のオーディションをやるというので、桐朋の同期五人で受けたら僕だけ受かっちゃったんです。ちょうどその年に大和田伸也さん、荻島真一さん、矢崎滋さんといった俳優さんたちが「四季」を退団した頃だったので、『イエス・キリスト=スーパースター』に合格した市村正親さんと僕が浅利慶太さんに誘われて入ったんです。

──ああ、市村さんとご一緒のタイミングだったんですね。当時の「四季」の空気はどんな感じだったのでしょう。

越路吹雪さんのミュージカル『日曜はダメよ』の時などは「四季」の創設メンバーの日下武史さんが相手をしてくださって、浅利さんとえんえん居残り稽古ですよ。これは本番三日前くらいにようやくかたちになったけど、本当に辛かったなあ。でも、浅利さんは商業主義だとか政治家だとかいろいろな悪口を言う人もいたけれども、あれほどの舞台の演出家はいないと思いますよ。演技の細かな善し悪しをどうこう言わずに、とことんこちらに考えさせるんです。

──しかし「四季」でずっとやって行こうとはならなかったのですね。

どうしてもミュージカルのほうが圧倒的にお客が入るので、「四季」はそっち専門になって行きましたから、浅利さんにストレート・プレイやりましょうよってお願いしていたんです。それで「もうちょっと待ってくれたら信がやりがいのあるストレート・プレイもやるからさ。でも、信はミュージカルもとってもいいんだけどな」と言ってくださっていたんですが、1974年の加賀まりこさん主演の『お気に召すまま』が「四季」最後の舞台になりましたね。

日本テレビ『愛しい女』(1980)欧州ロケ

(後篇につづく)

データ

インターミッション
2013年2月23日公開
配給:オブスキュラ
監督・脚本:樋口尚文
脚本:港岳彦
出演:秋吉久美子/染谷将太/香川京//小山明子/水野久美/竹中直人/ひし美ゆり子/中丸シオン/中丸新将

スパイを愛した女たち リヒャルト・ゾルゲ
2023年2月公開予定
配給:平成プロジェクト
製作・総監督:セルゲイ・ギンズブルグ
監督:ロマン・サフィン
出演:アレクサンドル・ドモガロフ/中丸シオン/山本修夢/アンドレイ・ルデンスキー/中丸新将

プロフィール

樋口 尚文(ひぐち・なおふみ)

1962年生まれ。映画評論家/映画監督。著書に『大島渚のすべて』『黒澤明の映画術』『実相寺昭雄 才気の伽藍』『グッドモーニング、ゴジラ 監督本多猪四郎と撮影所の時代』『「砂の器」と「日本沈没」70年代日本の超大作映画』『ロマンポルノと実録やくざ映画』『「昭和」の子役 もうひとつの日本映画史』『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』『映画のキャッチコピー学』ほか。監督作に『インターミッション』『葬式の名人』。新著は『秋吉久美子 調書』。『大島渚 全映画秘蔵資料集成』(編著)。

『大島渚 全映画秘蔵資料集成』監修:大島渚プロダクション 編著:樋口尚文 国書刊行会刊

【ひとこと】

2013年に他界された大島渚監督が、自宅やプロダクションの保管庫などに遺した大な資料、写真、書簡、日記などをすみずみまで精査し、詳細な解説を加える作業を重ねてきましたが、濃厚な内容と圧倒的な厚みの本書に結実しました。日本映画史に刺激的に屹立する作家の「創造の渦」をぜひ体感してください。(樋口尚文)

『葬式の名人』

『葬式の名人』
2019年9月20日公開 配給:ティ・ジョイ
監督:樋口尚文 原作:川端康成
脚本:大野裕之
出演:前田敦子/高良健吾/白洲迅/尾上寛之/中西美帆/奥野瑛太/佐藤都輝子/樋井明日香/中江有里/大島葉子/佐伯日菜子/阿比留照太/桂雀々/堀内正美/和泉ちぬ/福本清三/中島貞夫/栗塚旭/有馬稲子