田中泰の「クラシック新発見」
肉屋の資格を持つ鉄オタ、ドヴォルザーク
隔週連載
第119回

来る9月8日は、チェコの作曲家アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)の誕生日だ。交響曲第9番『新世界より』の第2楽章が、『家路』のメロディとして多くの小学校の下校時間のテーマソングとして使用されてきたことから、日本においては特に有名な作曲家のひとりに違いない。“肉屋の資格を持つ唯一の作曲家”であることや、“生粋の鉄道オタク”だったことなど、逸話の多いドヴォルザークとは一体どのような人物だったのだろう。
チェコの首都プラハ近郊の村にある宿屋兼肉屋に生まれたドヴォルザークは、店の跡取り息子として肉屋の修行に出され、13歳のときに職人資格に合格している。このまま父親の跡を継いで肉屋のおやじになるはずだったところが、ドヴォルザークには煌めくような音楽の才能があったのだ。彼の才能を見出したのが、肉屋修行のために親に送り込まれた職業専門学校の校長だったというのだから人生は面白い。教会のオルガニストや、楽団の指揮者も努めていたこの人物が、ドヴォルザークにヴァイオリンやオルガン演奏の手ほどきをした他、音楽理論の基礎までも教え込んだのだ。
それでも肉屋にしたがる両親の反対を押し切って音楽の道を志したドヴォルザーク。その類稀なる才能に注目したもうひとりの人物が、ドイツン・ロマン派の大作曲家ブラームス(1833-97)だ。
音楽活動を続けるために、オーストリア国家奨学金に応募・獲得したドヴォルザークに、審査員を務めていたブラームスが注目。懇意にしていた出版社ジムロックを紹介したのだ。それを受けたジムロックがドヴォルザークに依頼した作品こそが、彼の名を世に広めるきっかけとなった『スラブ舞曲集』だったのだ。
ブラームスはその後も事あるごとにドヴォルザークを支援。音楽史にその名を残すふたりの友情は、終生変わらずに続いたというのだから素敵だ。
「ドヴォルザークのゴミ箱を漁れば、交響曲の1曲ぐらい直ぐにできるだろう」というブラームスの言葉からは、美しいメロディが泉のように湧き出るドヴォルザークの優れた音楽性と、それを高く評価するブラームスの思いが垣間見える。
そのドヴォルザークは、作曲家としての栄華を極めた50歳の年に、「ニューヨーク・ナショナル音楽院」院長就任の要請を受け、1892年9月に、新大陸アメリカへと旅立ったのだ。
新天地で約2年半を過ごしたドヴォルザークは、望郷の念にかられつつも、弦楽四重奏曲『アメリカ』や「チェロ協奏曲」などの名作を次々と作曲。中でも、交響曲第9番『新世界より』は、アメリカ滞在中に接した黒人霊歌やネイティヴ・アメリカンのメロディの影響を色濃く感じさせる名曲中の名曲だ。哀愁に満ちた第2楽章もさることながら、第4楽章冒頭に込められたドヴォルザークの“オタク心”も要チェックだ。高校野球の応援シーンなどでも頻繁に耳にするあの重厚なメロディは、新大陸を走る機関車の発車シーンを描いたものだと言われているのだ。
さらには、機関車の外観や型式を覚えるのも大好きで、列車の運行ダイヤもチェックしていたというのだから、大変な“鉄ちゃん”ぶりだ。なにしろ、ニューヨーク滞在中には毎日のようにグランド・セントラル・ステーションへ通い、シカゴ特急の車体番号を記録していたのだから物凄い。しかも、自分が行けないときには、弟子にチェックさせていたというのだから徹底している。
さて、筆者がナビゲーターを務める「JWAVEモーニングクラシック」では、9月8日ドヴォルザークの誕生日にちなんで、9月8日(月)から11日(木)までの4日間にわたり、チェコ国民楽派を代表する作曲家ドヴォルザークを特集予定。“スラブのシューベルト”と称えられた稀代のメロディメーカー、ドヴォルザークが遺した美しいメロディの数々をご堪能あれ。
「J-waveモーニングクラシック」
https://www.j-wave.co.jp/original/tmr/classic/
田中泰
1957年生まれ。1988年ぴあ入社以来、一貫してクラシックジャンルを担当し、2008年スプートニクを設立して独立。J-WAVE『モーニングクラシック』『JAL機内クラシックチャンネル』などの構成を通じてクラシックの普及に努める毎日を送っている。スプートニク代表取締役プロデューサー。