田中泰の「クラシック新発見」
グールドはワンちゃんがお好き
隔週連載
第120回

9月25日(木)は、カナダ出身の“ピアノの鬼才”グレン・グールド(1932-82)の誕生日だ。彼がこの世を去って40年以上経過したにも関わらず、その人気は今も全く衰えず、多くのファンに愛され続けているのだから素晴らしい。もちろん筆者もそのひとりだ。
唯一無二の圧倒的に個性的かつ説得力のある演奏もさることながら、さまざまな逸話や奇癖の数々が、その存在を際立たせていることも興味深い。演奏中の鼻歌を筆頭に、4本の足の長さが調節可能な父親手作りのピアノ椅子を必ず使用するほか、夏でもコートと手袋を手放さず、演奏前には洗面器の湯で手を温めることなどなど。中でも、人気の絶頂にあった32歳のときにコンサートをドロップアウトし、以後亡くなるまで、レコーディングとラジオ&テレビなどの放送媒体のみを音楽活動の場としたことは、奇人揃いのクラシック界においても前代未聞だ。その存在感は、マリア・カラスやエディット・ピアフにマイルス・デイビス同様、ひとつのジャンルと言っていいほどの存在感を放っている。
筆者が個人的に最も親しみを感じる逸話はといえば、1957年5月に北米のピアニストとして戦後初めてソ連に招かれたグールドが、カナダの自宅で帰りを待つ愛犬バンクォーに宛てた手紙だ。
バンクォ−殿
きっとソ連の犬について知りたいんじゃないかな。本当にほとんどいない。大半は戦争中に殺されてしまったそうなんだ。その時以来ペットを買うのはとてもブルジュワなことだと考えられているらしい。それでもいちばんよく見かけるのは毛を刈り込んでいないプードル。雑種はいくらかいるけれど、コリーとおぼしき犬は一匹もいない。君がここにいたら我物顔で街を闊歩できるよ。今朝僕の部屋の外で猫が喧嘩をしていたけれど、こいつを邪魔してほしかったな。お皿をきれいにしていい子でいるんだよ。GG
(『グレン・グールド書簡集』みすず書房刊より)
今もクラシック界に語り継がれる“伝説のコンサート”の合間に、このような愛情とユーモアに溢れた手紙を書いているあたりがいかにもグールドらしい。
一人っ子だったグールドが、幼い頃から常に犬と一緒だったことは遺された写真の数々から伺い知れる。特に面白いのが、少年時代の愛犬イングリッシュ・セッターのニック(正式名称はサー・ニコルソン・オヴ・ゲアロッキード)との逸話だ。
14歳にしてすでにオーケストラとの共演を果たしていたグールドのある日のステージ衣装には、抜け毛の時期にあったニックの白い毛がびっしり付着していたという。「コンサートの前にはニックから離れているように父親から言われていたけれど、ニックは愛情豊かで思いやりがあるので、大切な任務遂行に当たる友人に対して成功を祈る気持ちを表明せずに見送るような動物ではなかったのです」などと語っているグールドが可笑しい。しかもオーケストラとの共演中にすきを見て犬の毛を取っていたというのだからますます可笑しい。演奏中の鼻歌ともあいまって、この日の聴衆はもちろん指揮者やオーケストラのメンバーもさぞや面食らったに違いない。
さて、来る10月12日(日)には、霞町音楽堂(西麻布)において、人気企画「愛犬と一緒に音楽を楽しむ〜わんちゃんコンサートVol.14」が開催される。犬と人間が一緒に楽しめるコンサートの存在を犬好きのグールドが知ったらどうだろう。コンサートのドロップアウトを中断して弾きに行ったや否や。想像するだけでも楽しい限り。
筆者がナビゲーターを務める「JWAVEモーニングクラシック」では、9月25日(木)のグールドの誕生日にちなんで、9月22日(月)から25日(木)までの4日間にわたってグレン・グールドを特集予定。20世紀を代表するピアニズムをご堪能あれ。
「J-waveモーニングクラシック」
https://www.j-wave.co.jp/original/tmr/classic/
田中泰
1957年生まれ。1988年ぴあ入社以来、一貫してクラシックジャンルを担当し、2008年スプートニクを設立して独立。J-WAVE『モーニングクラシック』『JAL機内クラシックチャンネル』などの構成を通じてクラシックの普及に努める毎日を送っている。スプートニク代表取締役プロデューサー。