田中泰の「クラシック新発見」

ディアギレフのバレエ・リュス

隔週連載

第143回

セルゲイ・ディアギレフ

来る8月19日は、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の創設者にして稀代のプロデューサー、セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)の命日だ。

ロシア北西部のノヴゴロド近郊に生まれ、ペルミの芸術的な環境で育ったディアギレフは、ペテルブルク大学の法科に入学したものの、出席せずに芸術家を志し、声楽、作曲を学びつつ、マリインスキー劇場などで行われる演奏会へ頻繁に通ったと伝えられる。

ところが、作曲の師であったリムスキー=コルサコフから、作曲能力の欠如を指摘されて芸術家への道を断念。大学卒業後に、義母の莫大な遺産を元手に西欧各地を旅行して絵画を買い漁り、1897年以降6回にわたって展覧会を開催する。このあたりからすでにインプレサリオとしての才能の開花が垣間見られる。

1906年には、パリのプチ・パレにおいて、ロシア人画家の大規模な展覧会を開催。この成功によって、フランス文化界や社交界と交流するきっかけをつかんだディアギレフは、翌年、作曲家のリムスキー=コルサコフ、ラフマニノフ、グラズノフ、歌手のシャリアピン、フェリア・リトヴィンヌなどのロシア人アーティストとのコンサートを開催する。この成功が、「バレエ・リュス」の創設へと繋がってゆくのだ。

「ディアギレフは身も心も芸術に捧げた。彼の辞書には中庸という言葉はなかった。全力でかかわらなくては、芸術はありえないし、実際、人生そのものが不完全なものになってしまう。ひたすら全身全霊を捧げて、夢を追わなくてはならない。(中略)喧嘩、伝説的な魅力、独裁者的資質、天才を発掘する並外れた能力、狡猾さと欺瞞、自信、先を見る眼などを通り抜けると、その向こう側に見えてくるのは、最も気高い創造性の神秘を解き明かしたいという、自分でもどうしようもない欲求に駆り立てられたひとりの男の姿だ(『ディアギレフ〜芸術に捧げた生涯/シェング・スヘイエン著』)」という言葉が、ディアギレフの本質を最も的確に表現しているように感じられる。

1909年にディアギレフによってパリのシャトレ座で旗揚げされた「バレエ・リュス」は、専用の劇場も持たず、国家の援助も受けずに、ヨーロッパやアメリカの名だたる劇場で公演を行い、四半世紀近くにわたって世界のバレエ界の頂点に君臨した奇跡のような存在だ。当然ながら、ディアギレフは常に資金不足に悩まされていたのだが、劇場との軋轢を含む、様々な人間関係から自由でいられたことによって、次々と衝撃的な作品を生み出すことができたのだ。それが、“クラシック史上最大のスキャンダル”と言われるストラヴィンスキーの『春の祭典』や、ニジンスキーの大胆な振り付けが物議を醸した、ドビュッシーの『牧神の午後』の初演へと繋がってゆく。

レオン・バクストによる《牧神の午後》

モダンバレエの基礎を築き、「総合芸術としてのバレエ」という芸術スタイルを確立させた「バレエ・リュス」は、20世紀前半の舞踊・音楽・美術を“総合芸術“として結びつける原動力となったのだ。

伝説のダンサーにして振付家のフォーキン、ニジンスキー、マシーンを筆頭に、優れたダンサーやバレリーナが顔を揃え、ピカソ、ローランサンが美術を担当。コクトーが台本を書き、シャネルが衣装を制作。そして、ストラヴィンスキー、ドビュッシー、ラヴェル、サティ、プーランク、ファリャなど、錚々たる作曲家たちが新曲を描き下ろした「バレエ・リュス」の20年間(1909-1929)は、まさに夢のような時代に感じられる。ディアギレフの慧眼によって集められた優秀なダンサー、振付家、デザイナー、作曲家たちは、圧倒的な創造性と、聴衆を活気づける魅力とを合わせ持っていたのだ。

さて、筆者がナビゲーターを務める「JWAVEモーニングクラシック」では、8月17日(月)から20日(木)までの4日間にわたって、ディアギレフが創設したバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を特集予定。“天才を見つける天才”と謳われた稀代の名プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフが20世紀初頭に描きだした圧倒的な“夢”の断片を是非ご堪能あれ。

「J-waveモーニングクラシック」
https://www.j-wave.co.jp/original/tmr/classic/

プロフィール

田中泰

1957年生まれ。1988年ぴあ入社以来、一貫してクラシックジャンルを担当し、2008年スプートニクを設立して独立。J-WAVE『モーニングクラシック』『JAL機内クラシックチャンネル』などの構成を通じてクラシックの普及に努める毎日を送っている。スプートニク代表取締役プロデューサー。