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大槻ケンヂ「今のことしか書かないで」

しゅとうっとがると〜白昼夢

隔週連載

第13回

illustration:せきやよい

江戸川乱歩に「白昼夢」と言う掌編小説がある。晩春の日にふと街へ出た主人公が、夢ともうつつともわからない奇妙な風景を見る。と言う幻想談だ。先日、秋の弾き語りの旅先で僕が見た風景も、夢ともうつつとも知れぬものであった。だからこれは乱歩の「白昼夢」のような、一種の幻想談と思って読んでもらえたらと思う。

弾き語りは柏や横浜へ出かけた。前者はMIMIZUQというバンドのイベントで。出かけて見れば柏は案外に遠い。リハーサルの終わった後に疲れて僕は2階の客席のソファーで少し眠ってしまった。眠ったといっても半覚醒状態のウトウトで、ステージ上の演奏はよく聞こえた。ファンタジックなMIMIZUQの音楽を浅い眠りの中で夢見心地で聞いた。白昼夢の中にいるかのようだった。

横浜はウッディーな作りの店でひとりで弾き語った。柏も横浜もコロナ禍を越えて今や人で溢れかえっている。街の一角にはピアノが出されていた。そこで見事な指さばきでクラシックを奏でている少女を見た。10歳か11歳位だろうか。おさげの黒髪だ。その年の女の子がよく着ているようなパステルカラーのミニスカートを履いて、流麗に、ダイナミックに弾きまくっていた。通り過ぎる人が何人も足を止め「ほうっ」と感心した声を上げた。

「天才ピアノ少女ね」と、僕の横で立ち止まった女の人が声を発した。

……昔、天才ピアノ少女と僕は友達だった。といっても彼女の場合はもしかしたら「自称天才ピアノ少女」なのだったけれど。

もう、何十年も昔のことだ。僕も彼女もとても若かった。若さの印と言うわけではないが、彼女の手の甲にはいつもメモ書きがしてあった。例えばバイトのシフトとか、あるいはドイツの覚えにくい街の名前とか、そんなちょっとしたことを、その頃の若い娘はよく手の甲にペンで自分でぐりぐりと書いていたものだ。

「ん? しゅ…しゅとぅっとがると…何を書いているの?」

「ドイツの覚えにくい街の名前。いつか行ってみたいんだけど、いつも間違えて言っちゃうから、手に書いてたまに見て覚えるようにしてるんだよ。え〜っと、しゅとうっとがると」

トボケたところのあるかわいい女性だった。

僕たちは若かったので、たまにケンカをした。ケンカをして、しばらくしてほとぼりの冷めた頃、彼女に会うと、彼女の手の甲にはまた何か文字が書いてあった。

「ごめん 今回は私が悪かった」

メモと、記憶用と、メッセージ用に彼女は自分の手の甲を使用していたのだ。

僕は「こっちもすまんかった」と自分の手の甲にペンで書いた。でも恥ずかしいので彼女には見せずその日はポッケに手を突っ込んで1日過ごした。ペンは油性でしばらく「すまんかった」は消えなかった。

……ある朝、彼女から電話がかかってきた。

「あたしガンになっちゃった。どうしよう」

と小さな声で言った。はぁ? ガン? どこの??と尋ねると「わからない。急に大きなほくろみたいなのができたんでお医者さんに行ったら病気が広まったものだって、どこのガンかはわからないって」と言う。「は? そんなのあるわけないじゃん」

原発不明癌と言う、どこの部位から起こったかがわからないガンがあるなどとその頃の僕は知らなかったし、そもそも僕らは若かった。命の危険のあるかもわからない大病に自分たちが侵されることのあるなどと、白昼夢にも見る事はなかった。

それから彼女とは何度も会って食事に行ったりしていたけれど、一度だけ「あの病気の話、治し方を自分なりに見つけたから大丈夫」と言ったきり、その話はしなくなった。

なんでも、民間療法だか遺伝子的療法だったか、快癒方法を自分なりに考えつき、高名な医師に直電をかけて、彼にお墨付きをもらったという。「だから大丈夫」なのだそうだ。もとより彼女の大病話を真に受けていなかった若き日のぼんやりな僕は「ふ〜ん」とだけ応えた。

それより彼女が「実は私は昔天才ピアノ少女だった」とその夜のごはんの席で言い出したことの方が異常な言動に思えた。

彼女には生まれつき絶対音感があり、どんな曲でも即座にピアノで弾くことができて、一時は有名な天才ピアノ少女だったのだそうだ。

そんな話は彼女から今まで一度も聞いたことがなかった。

「はあ? 何言ってんの? うそでしょう」

「うそじゃないって、私は子供の頃天才ピアノ少女だったの」

ムキになって返してくる。その夜は「うそでしょう」「うそじゃないって」のやり取りで終わってしまった。まったくもって彼女の急な告白の真意を計りかねた。

それからしばらく彼女と会う機会がなかった。ある時「メシに行こうよ」とメールを打つと「もう遊んでいる暇はない」と返信があった。僕はその言葉にムッとして以来彼女に連絡しなくなった。そして気がつけば疎遠になっていた。

それから何十年も経つ中で、僕は原発不明癌の存在を知り「もう遊んでいる暇がない」の言葉の意味を「もう残された時間が私にはない」と解釈するべきだったのかもしれないと気がついた。反省した。とても。

あぁっ申し訳ない。どうしてあの朝、それ以降も、もっと親身になって彼女の病気の話を聞いてあげなかったのだろう。相談に乗ってあげなかったのだろうと悔やむようになった。

もう連絡先もわからない。ネットで検索しても名前も出てこない。この件は、有料のウェブサイトで男性にキャラを変えてエッセイに書いたり、素材のひとつにして小説を書いてみたりしたこともあったが、反応は無い。

それこそ彼女と高名な医師との相談によって開発された治療法でもって今も元気にしていてくれていたら幸いなのだけれど、わからない。

「うそじゃないって、私は子供の頃天才ピアノ少女だったの」

もしかしたら、そうやってそんな華々しい過去を語ることで、彼女は自分の生きてきた今までに意味を持たせて、自分自身を納得させようと試みていたのかもわからない。だとしたらそこは「うそでしょう」ではなく「そうなんだねすごいね」と、ただうなずいてあげるべきではなかったのか。

そんなことを思い出しながら街角の天才ピアノ少女を僕はじっと見ていた。

曲は「G線上のアリア」から「エリーゼのために」に変わった。昼下がりの街は天才ピアノ少女を見ようと人だかりができていた。少女が「エリーゼのために」を弾き終わるとワッと拍手があたりから起こった。少女は立ち上がりぴょこんとお下げ髪の一礼をして、僕の横をすり抜けて去って人波に消えた。

通り過ぎるときに少女の手が見えた。手の、甲の部分が見えた。そこにはペンで書いたような文字が書かれてあった。

これは幻想談だと思ってほしい。だけど、確かに、天才ピアノ少女の甲にはこう書かれてあったのだ。

「ね うそじゃないでしょ」

そしてもう1行書かれてあった。そちらのほうは一見意味不明のワードであったが、僕にはわかった。きっとこう書かれてあったのだ。

しゅとうっとがると。

※この連載はエッセイと小説の入り混じったものであり、場合によってはほとんど作者の妄想です

プロフィール

大槻ケンヂ(おおつき けんぢ)
1966年2月6日生まれ。1982年、ロックバンド「筋肉少年少女隊」結成。その後「筋肉少女帯」に改名。インディーズで活動した後、1988年6月21日「筋肉少女帯」でメジャーデビュー。バンド活動と共に、エッセイ、小説、作詞、テレビ、ラジオ、映画等多方面で活躍中。「特撮」、「大槻ケンヂと絶望少女達」、「オケミス」他、多数のユニットや引き語りでもLIVE活動を行っている。

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