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兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』

第四話:1985年1月、広島。16歳の時、19歳の奥田民生を観た (前編)

月2回連載

第7回

illustration:ハロルド作石

高校1年生の時の1月、なので今から40年前。中学時代の同級生たちと、EARTHSHAKERのコピー・バンドをやっていた。最初は僕の家に集まって練習していたが(新興住宅地で、周囲がほぼ空き地で音を出しやすかったのです)、街の練習スタジオに行ってみたくなった。

深夜に流れている広島ローカルのCM(静止画でナレーションが流れるやつ)で、「スタジオレンタルスズヤ」という店が、広島駅の近くにあることを知っていたので、そこに行ってみよう、ということになった。緊張しながら電話をして予約し、緊張しながら初めてスタジオというものに入って、緊張しながら練習をし、出て来て、緊張しながらスタジオ代を払ったところ。

長髪で、痩せていて、もう見るからにバンドマン、といった風情の店長が話しかけてきた。「EARTHSHAKER、コピーしとるん?」。音が外に漏れるのでわかるのですね。「あ、は、はい」と緊張しながら答えたら、「わしらもやっとるんよ。ライブあるけえ観に来ん?」。

「は、はい」と、言われるままにチケットを買った。メンバーも一緒に買ったか、ひとりで買ったのか憶えてないが、場所は、当時、田中町の平和大通り沿いから紙屋町近くの電車通り沿いに移転したばかりだった、ウッディストリート。当時としては広島で唯一の、プロのバンドも来るライブハウスである。田中町の方には一度行ったことがあったが、移転してからは、この時が初めてだったと思う。

店長がギタリストのそのバンドは、READYという名前だった。EARTHSHAKERのコピーと、子供ばんどのコピーと、数曲のオリジナルをやっていた。2バスのドラマーとカラフルな衣装のベーシストは、店長と同じく長髪だったが、赤いフライングVを弾きながら歌っているボーカルは、長髪ではなかった。その代わりに、かどうかは知らないが、サングラスをかけ、ヘアカラースプレーで髪をカラフルにしていた。当時で言うとC-C-Bみたいなやつね。

で。そのボーカルの歌に、僕は度肝を抜かれた。そっくりだったのだ、EARTHSHAKERのマーシー(西田昌史)に。

ただ、これ、今思い返すと、本当にそんなに似ていたのか、けっこう疑問である。単に「高い声が出る」「でかい声が出る」「声が通る」「ピッチが正確」等の諸条件を満たしている歌いっぷりを「すごい! プロみたい!」と感じた、その驚きを脳内で「マーシーそっくり」に置き換えたのではないか、という気もする。

するがまあとにかく、その時の僕はそう感じてショックを受けたし、それはもう興奮した。どれくらい。READYのライブがある度に、ウッディストリートに通うようになるくらい。

その赤いフライングV&ヘアーカラースプレーのボーカリストが、奥田民生である。当時19歳、広島電子専門学校の1年生。

奥田民生19歳の歌と共に、READYというバンド自体も大好きになった。というか、EARTHSHAKERという共通項があったから観に行ったわけだが、そもそもなんで僕はEARTHSHAKERを好きだったのか。

当時のジャパニーズ・ヘヴィ・メタル・バンドは、圧倒的なトップがLOUDNESSで、その次にEARTHSHAKERと44MAGNUM、それからMARINO、ANTHEM、ACTION!、X-RAY、MAKE-UP、BLIZARD、RAJAS、PRESENCE等々がいた。

それらの中で、自分がEARTHSHAKERをもっとも好きだったのには、明確な理由があった。いちばん「普通」だったからだ。

当時自分が感じていた、ヘヴィ・メタルを好きだけどかっこいいと思えないポイントが、EARTHSHAKERにはなかったのである。たとえば、トゲトゲの鋲付きのレザーを着ているとか、ベルボトムのジーンズにロンドンブーツとか、歌詞に「悪魔」とか「神」とかが出てくるとか、あるいはコテコテに「セックス&ドラッグ&ロックンロール」の歌ばかりとか……そういうのがもっとも「なかった」のが、EARTHSHAKERだったのだ。

もっと普通のロックバンドに近い……って書くと「普通」ってなんだよ、という話になるが、そこは棚に上げますね。自分が好きな、メタル以外のジャンルのロック・バンドと地続きな歌詞とキャラクター性を持っていて、それでいて音はちゃんとハードだったのが、EARTHSHAKERだったのである。あと、メロディが良かった、歌を中心に楽曲が作られていた、というのも大きい。

で。READYも、まさにそういうバンドだったのだ。EARTHSHAKERと同じアプローチではないが、ハードな音だけどメタルファン以外も聴ける音楽を目指しているような。 当時、READYが作っていたステッカーには、バンドロゴと、メンバーの名前と、「HARD DRIVING POP!」というコピーが記されていた。自分たちは、ハードロックでもヘヴィメタルでもありません、ということを主張したかったんだと思う。

そりゃあ夢中になるわ、当時の俺だったら。と、今ここまで書いてみても思う。しかも東京や大阪のプロのバンドじゃなくて、地元広島で活動していて、観たきゃ毎月でも観れるんだったら、よけい好きになるわ。

READYのギタリストであるスタジオスズヤの店長は、地元のバンドマンたちのアニキみたいな人で(面倒見がいいからそうなっているだけで、先輩風を吹かせたりするのとは真逆のキャラクターだったが)、スズヤには毎日、練習もないのにたむろしているバンドマンが大勢いた。いや、バンドマンだけじゃない。バンドやってないけど、アルバイトの帰りにスズヤに顔を出す、みたいな人もけっこういた。

なので、READYを追っかけつつ、自分もそうやってスズヤにたむろするようになる。高校が終わるとダッシュで家まで帰って、自転車で店に行く。2年生に上がった頃から、いくつかバンドを掛け持ちするようになったので、それらの練習があればもちろん行くし、なくても行く。

そこで僕は、高校を出ても就職とか進学とかせずにバンドをやったりバイトをしたりしている人たちがこんなにいるし、学生だけど全然学校に通っていない人もいるのだ、ということを、初めて知った。

その影響が、それ以降の自分の人生を、確実に変えたと思う。

なんだ。大人になっても、ちゃんとしなくていいんだ。だってみんな、楽しそうじゃん。

と、思ってしまったのだ、当時の僕は。スズヤに通っていなくても、もともとそういう奴ではあったが、通うことによってそれに拍車がかかった、というのはあると思う。

結果、大学へはなんとか進学したが、最短期間の受験勉強しかしなかったし、大学を出る時もまともに就職する気などなかった。で、偶然としか思えない成り行きでロッキング・オンという会社に就職して音楽業界に入ったが、46歳で会社をやめて以降、フリーライターと言えばきこえがいいが、実質フリーターである生活を、この歳で送っているのも、高1の1月にREADYに出会って、スズヤに通うようになったことが……人のせいにしすぎ、どう考えても。

ただ、僕は、いまだに定期的に会うことがある同級生は、高校の時の3人だけなのだが、3人ともスズヤで練習していた奴である。

あと、THE STREET BEATS→GEENA→POTSHOT→ROCK’N ROLL GYPSIES等、数々のバンドでベースを弾いてきて、現在はJUN SKY WALKER(S)のサポートをしている、あと下北沢でアーティストのグッズを作る会社をやっている、市川勝也という同じ歳の男と、最初に知り合った場所も、スズヤである。

あと、スズヤの店長は、一度店を閉めたが、その数年後に広島大学の前にスタジオ5150をオープンし、現在も経営している。青と白の内装とか、スズヤの頃のままです。

次回に続く。

プロフィール

兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『昔話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(月一回)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二〜三回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。