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兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』

第五話:1985年8月、広島。一度引退したがステージに上がった、25歳の川西幸一を観た (前編)

月2回連載

第9回

illustration:ハロルド作石

地元広島で、1985年、高校1年生=16歳の時、ユニコーンの前のバンド、READYで歌っていた、19歳の奥田民生を観た。

という話を、前回は書いたので、まさにその時期にあった、自分のドラマー観を決定づけた出来事のことも、続けて書いておこうと思う。

あ、ドラマー観というのは、音楽リスナーとして「自分はこういうドラマーが好き」という意味でのドラマー観でもあるし、ドラマーとして「こういうプレイヤーが目標」という意味での、ドラマー観でもあります。

って、自分はもう、とっくにドラマーじゃないけど。ドラマーだったのは、中学3年から大学卒業までの8年間のみだけど、その当時は、という話です。

READYを初めて観て、彼らのほぼすべてのライブを追いかけるようになって以降、それらの中で観た1本のことである。

高2の夏休み、1985年の8月の前半、8月5日とかのあたりだった、と、記憶している。 READYは、メンバー4人とも、バイクに乗っているバンドだったのだが……いや、バイクだけじゃない、クルマにも乗ってたな。というか、スタジオレンタルスズヤ界隈の男はみんな、バイクやクルマが大好きだった。

で、中には後にバイクのレーサーになった先輩までいて、僕が中型二輪の免許を取ることにしたのも、その人の後ろに乗っけてもらって、「世の中にはこんなに気持ちいいものがあるのか!」とショックを受けたのがきっかけだった。

それで、大学に入って京都で免許を取って、夏休みに帰省した時に、READYのベースだったMさんから、当時既に古すぎてめずらしい存在だった、ヤマハRZ350の、ボロッボロで車検切れのやつを、30,000円で売ってもらって……。

って、すっかり話がそれてますね。ちなみに当時、OT(奥田民生)が乗っていたのは、バイクはCBX400F、クルマはアクティのバン、どちらもホンダだった。

なので、後年、ソロデビュー・アルバム『29』に収録された「ルート2」の「“HONDA”がおいらの相棒」という歌い出しを聴いて、これ、CBXのことかな、それともアクティのことかな、と思ったものです。この「ルート2」、OTが国道2号線を走っていた、広島在住の頃のことを歌った曲なので。

でも、「頼むぜ俺の相棒 銀色のボディを ひっさげて」というラインがあるので、アクティの方かもしれない。OTのCBXは赤だったし。

いや、でも、アクティバン、銀色だったっけ。違う気もする。赤だったような……待てよ、ほんとにアクティバンだったっけ、車種。そこも怪しくなってきた……。

あ、でも、やっぱりクルマの方だ、これは。「土曜の夜だぜ ひたすら 左廻り 物好きな女を誘って バイパスを抜けて 西へ行け」というラインがあるので。今はどうか知らないが、当時の広島の若者たちの間では、八丁堀あたりをクルマでグルグル回りながら女の子をナンパする、という行為が「八丁左廻り」と呼ばれていたのです。という時に、バイクでナンパするとは、あんまり思えないし。

って、よけい脱線しているが、なぜバイクとかのことを書き始めたのかというと、その高2の8月のREADYのライブの直前に、ドラマーのIさんがバイクでコケて、腕を骨折したのだ。

そこで、READYが助けを求めたのが、当時26歳になる寸前の、川西幸一だったのである。

ファンにはよく知られているが、川西さんとテッシー(手島いさむ)は、もともと、The Stripperというバンドで活動していた。当時の広島の街中や楽器店なんかに、よくチラシが貼られていたので、僕もその存在は知っていた。

ええと、誰に喩えればいいかな。グラム・ロックっぽい衣装で、でもオリジナル・パンクっぽいシャープさもあって……そうね、The Street Slidersを、もうちょっといかつくして、BPMを速くした感じ、とでもいいましょうか。

ボーカル&ギターのKさんは、広島ローカルのバンドマンとは思えないくらい、どえらくかっこいい人で、地元のカリスマ的な存在であることを、この2年後くらいにご本人に会って、知ることになる。

で、フラワーフェスティバル(という広島のお祭り。5月3・4・5日に平和大通りで行われる)のステージに、The Stripperが出演した時のライブ録音が、地元のRCCラジオで(広島FMはまだギリ開局前だった気がする)3曲放送された。

もちろんテープに録った。その3曲=「Night Swinger」「One Night Boogie Show」「Jumping Under Town」は、どれもとてもかっこよくて、何度も何度も聴いた。歌詞を全部憶えるくらい。歌詞を全部憶えるまで聴きがちですね、昭和の高校生は。

ちなみに「Night Swinger」の主軸になっているリフは、後にユニコーンがセカンドアルバムに収録した「ペケペケ」のそれと、ほぼ一緒である。「ペケペケ」は同じコードでそのリフを繰り返すのに対し、「Night Swinger」は3コードで変わっていく、という違いはあるが。まあいずれにせよ、ロックンロールの定型のひとつ的なリフなので、パクったとかパクられたとかいうような話ではないが。

そんなThe Stripper、ライブを観たいなあ、でもひとりでライブハウスに行くのは怖いなあ、とか思っているうちに、解散し、観れずじまいになってしまったのだった。

そして、川西さんは、たぶん年齢のこともあって、ちゃんと就職してサラリーマンになり、バンド活動からは、きっぱりと足を洗った。だから、スズヤとかにも来なくなっていて、ゆえに僕も、それまで会ったことがなかった。

しかし、そのIさんの骨折で困ったREADYが、ヘルプを頼み込み、川西さんは引き受けて、一回だけ、叩くことになったのだった──という経緯も、あとからきいたことで、当時は知りませんでした。就職したとかも知らなかったし。

その頃の僕は、前回にも書いたように、中学の同級生たちとEARTHSHAKERのコピー・バンドをやっていて、その後、高校の同級生たちと、当時デビューしたばかりだった爆風スランプをコピーするバンドも始めていた。高校の先輩たちのサンハウスのコピー・バンドも手伝っていたが、話がブレるのでそれは棚に上げます。

あと、Motley Crueのトミー・リーが大好きだったのもあって、とにかくドラムというのは、ツーバスでドコドコドコドコ踏むのが最高だ、と、頑なに信じ込んでいた。レンタルスタジオのドラムって、タムが2つしかなくて物足りない、3つか4つ置いてほしい、とも思っていた。

その一方で、ウッディストリートの隣にあった(というか、今も同じ場所にある)ヤマハのドラムレッスンに通ってもいた。世の常として、そういうところの先生は、フュージョン系のプレイヤーであり、村上“ポンタ”秀一命の人だった。

なので、その先生のような「難しいプレイができてちゃんとうまい」ドラムか、メタル系のツーバスドコドコのドラム、その二択しか、自分の眼中にはなかったのだった。

余談だが……というか、この文章自体がすっかり余談の塊だが……そのヤマハの教室の、ギターとベースとドラムとキーボードの先生たちは、女性ボーカルを入れて、NUT’Sというバンドを結成した。

初ライブにも行ったし、広島県民文化センターでワンマンをやった時は、先生付きの素人ローディーみたいな按配で、朝9時の搬入から終演後のバラシまで、手伝ったこともある。本番中は、ドラムの横のアンプの裏、客席からは見えない位置に、ずっとしゃがみ込んでいた、トラブルが起きた時のために。

そのNUT’Sは、幾度かのコンテストを経て、別の男性ボーカルが加入し、FLEXという名前に変わって、1990年にメジャーデビューした。

確かアルバム2枚ぐらいで終わってしまったが、そのNUT’S→FLEXの音楽的中枢だったギタリストが、後に「青いイナズマ」「SHAKE」「夜空ノムコウ」等々のSMAPの楽曲をはじめ、次々とヒット曲を世に送り出した、超大物アレンジャー/プロデューサーの、CHOKKAKUこと島田直である。

大きく言えば、同じ業界にいるわけだし、いつかどこかで会うことがあったら、「僕、NUT’Sのローディーやったことがあるんです」と言おう、と思い続けて32年が経つが、いまだに出くわす機会がない。真心ブラザーズが「ENDLESS SUMMER NUDE」のアレンジを依頼した時とか、ニアミスするかも、と思ったんだけどなあ。

とにかく。何が「とにかく」だ、って話だが、そんな趣味嗜好の高校生素人ドラマーが、広島ウッディストリートの最前部で、川西幸一がドラムを叩く、READYのライブを観ることになったのだった。

今「最前列」ではなくて「最前部」と書いたのは、当時の広島のような地方のライブハウスは、オールスタンディングではなかったのだ。

今で言うと、横浜のTHUMBS UPや京都の拾得、仙台のretro BACK PAGEのように、フロアにテーブルとイスがある仕様になっていた。で、それらの店と同じように、マストであるワンドリンクの他に、フードも注文できた。

つまり、ライブハウスというもの自体が、今よりもかなり「飲食店」に近かったわけです。これもユニコーンファンなら知っているエピソードだが、そんな広島ウッディストリートではテッシーがアルバイトしていて、彼が作るドライカレーは美味しかったそうだが、僕は食べたことがない。すんごいカネがない高校生であるがゆえに、ワンドリンクの義務を果たすのが精一杯だったので、いつも。

そんなわけで、ステージ真正面のテーブルの、いちばん前の席で、READY+川西幸一を観たのだった。

次回に続く。

プロフィール

兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『昔話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(月一回)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二〜三回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。