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兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』

第五話:1985年8月、広島。一度引退したがステージに上がった、25歳の川西幸一を観た (後編)

月2回連載

第10回

illustration:ハロルド作石

前回の続きです。

川西幸一がドラムを叩くREADYを観るべく、フロアの最前部に陣取った僕は、演奏が始まる前、ステージを見た段階で、すでにがっかりした。

いつもはPearlの赤いツーバスがどどーんと並んでいる位置にあるのは、TAMAの黄色いドラムセット。むやみにでっかいバスドラが一個だけ、つまりツーバスじゃない上に、スネアとフロアタムが一個ずつなのはいいが、なんと、タムも一個しかない。タイコの総量、Iさんのセットの半分以下である。

現在、人間椅子のドラマーであるナカジマノブは、GENというバンドでデビューし、脱退して、ドミンゴスというバンドで再デビューを果たしたが、その時は「バスドラ一個にスネアとフロアタムだけ、タムなし」という、極端にシンプルなセットで叩いていた。が、その後、人間椅子に加入し、バンドの音楽性に合わせて、ツーバスにツータムに銅鑼まである、という、「ドミンゴスの倍以上」なセットに変わった。あれの逆だったわけです、READYのIさんのセットから川西さんのセットへの変化、というのは。

以上の喩え、まったく必要なかったですね。ただ俺が書きたくて書いただけです。

話を戻す。そんな、READYのIさんのセットの半分以下のドラムセットを見て、「はあ?」と思ったわけです、まず僕は。何これ? こんなんでREADYの曲を叩けるの?タムを上から下までドコダコドコダコと流していくフィルインが入るとこや、ツーバスをドコドコ踏むところはどうするの? ないわあ。簡素にもほどがあるわあ。というですね。

と思っているうちに、メンバーが登場し、1曲目の演奏が始まった時のショックは、あれから39年が経つ今も、忘れない。

なんじゃこりゃあ! めちゃめちゃかっこいじゃないか!

フュージョン系でもメタル系でもないのに! ヤマハのY先生のように、ルーディメンツをみっちり練習した人しかできないような、難しいスティックさばきとか、やらないのに!
何これ!? なんでこんなにかっこいいの!? っていうか、そもそも、ドラムってこんな楽器だったの!?

まず8ビートを叩いている時のキックとスネア、そのグルーヴ感が異常に気持ちいい。ものすごいシャープな切れ味だが、軽くない、しっかりと重さもある。時速200キロで走る戦車みたいな。フィルインの入れ方も、雪崩みたいな勢いで、やや前のめり気味だけど、ハシッたり逆にモタったりはせず、曲の勢いを増していく。

というふうに、今なら言葉にできるが、その時はただただ圧倒されて「うわあ……」となっているだけだった。で、そんなふうに愕然としている間に、ライブは終わってしまった。

ただ、衝撃すぎて、ずーっとドラムだけを観ていたがゆえに、何度か目が合っていたらしく、ステージを下りて来た川西さんに、肩をポンと叩かれて、「すごい一所懸命観よったねえ」と言われた。面識ないのに。向こうは憶えてないだろうな、当然。

その日から、僕の目標とするドラマーは、ヤマハのY先生でも、Y先生が崇拝する村上“ポンタ”秀一でも、EARTHSHAKERの工藤義弘でも、爆風スランプのファンキー末吉でも、Motley Crueのトミー・リーでもなく、川西幸一になった。

当時のレンタルスタジオはどこも、バスドラムは22インチで、タムはふたつが標準だったが(今はバスドラは20インチの店が多いです)、まず、練習のたびにタムを外して一個にすることから始めた。

その数年後、大学進学で京都に行ってから、バンドを組んで京都や大阪のライブハウスに出るようになり、自前のドラムセットがほしくなった。

堀川仏光寺にあったGATEWAYというドラムショップ(今は東京にある)で、アルバイトの給料が入るたびに、シンバル1枚ずつ、スタンド1本ずつ買って行って、1年がかりで揃えたセットは、バスドラ24インチ、タムは一個で14インチ、フロアタムも1個で16インチ、あとスネアとハイハットとシンバル5枚という、「とにかく川西さんを真似したい!」というものだった。

なお、川西さんのバスドラは26インチだったが、バスドラって口径が大きければ大きいほど、力いっぱい踏まないといい音で鳴らないのですね。「26インチは俺には無理、でも普通の22インチはイヤ」という、せめてもの抵抗で、24インチにしたのだった。

当然、新品で買えるはずもなく、GATEWAYの店長に「でかいバスドラの中古が入ったら教えてください」とお願いした上で、入るまで待って買ったので、川西さんと同じ黄色のTAMAではなく、白のPearlでした。

ライドシンバルも、普通20インチを選ぶもんだけど、敢えて22インチを買った。「♪チンチンチン」という鳴りで、サスティンが全然伸びないやつ。あと、トミー・リーへの憧れで、バスドラのまんなかの上に、カウベルも付けてたな。ドラムやシンバルやスタンド類などのケース類も、一式揃えた。

それらを全部積んで置ける部屋に住んでいたんだから、ぜいたくな大学生だったんだなあと思う。西大路御池を東に入ったところで、9畳で、家賃は45,000円でした。つい最近、アナログフィッシュの磔磔を観に京都まで足を伸ばした時、ふと思い立って寄ってみたら、そのワンルームマンションの建物、まだ残っていて、びっくりした。

あと、東京でロッキング・オンに入って仕事を始めてしばらくしてから、東京のバンドのドラマーは、プロになってもそこそこ売れない限り、自分のドラムセットなど持たないものだと、ということを知り、それにもびっくりした。

マキシマム ザ ホルモンがだいぶ売れた後、ナヲちゃんに「私、遂にドラムセット買ったんですよ!」と言われて、「ええっ、持ってなかったの!?」と驚いたのを憶えている。ナヲちゃんが特殊なんじゃなくて、みんな、そんなもんでした。で、確かに今になると、「いらんかったわ、俺も。自前のやつは、スネアとキックペダルとカウベルだけでよかったわ」と、思う。

さて。そうやって僕がドラムセットを揃えた頃には、ユニコーンはデビューして大人気バンドになっていて、川西さんにTAMAがサポートで付いて、セットは黄色から薄紫に変わっていた。

で、その頃の川西さんは、指なしの黒い手袋を両手にはめて、ドラムを叩いていた。もちろんそれも真似した。あと、当時彼がよくやっていた、二拍四拍のスネアの四拍目を、たまに8分音符1個分後ろにずらしてアクセントを作る、というのも、やたらと真似したものです。

そんな京都での生活を送っている時に、『服部』のツアーでユニコーンが京都会館第一ホールに来たので、チケットを買って足を運んだ。そして、自分の目標であるドラマーは、広島のトップではなく、日本のトップであるという事実を、改めて認識した。

その後、自分のバンドは、メンバー全員が大学4年に上がるタイミングで、(年齢はバラバラで、バンドのために大学を休学している奴もいた)「世の中バンドブームだというのに、これだけやっても動員は増えないし、どこからも声がかからない、ということは、我々はプロになるのは無理である」という、実に正しい結論を、リーダーでありすべての曲を書いていたギタリストが出して、解散した。

で、僕以外の3人は就職活動を始めたが、僕はそんな気などなかったので、アルバイトをしつつ、友人知人のツテや紹介などで、次のバンドを探していた。

でも、なかなか「これ!」という人たちに巡り会えずにいるうちに、毎月買っていたロッキング・オンに求人が載って、「渋谷陽一や山崎洋一郎に会えるかも」「あとマスコミなのに東京までの交通費出るのか!」(当時は出ないのが普通だった)という雑な動機で応募したところ、受かってしまい、現在に至る。

で、受かってから、そうか、東京にドラムセットを持って行くという選択肢は、どう考えてもないわ、ということに気が付き、セット一式、GATEWAYに買い取ってもらった。

1年かけて、総額20万円ちょっとで揃えたドラム・セット、8万円で売れました。

当時、僕は17歳になる寸前で、川西さんは26歳になる寸前。今、僕は56歳になる寸前で、川西さんは65歳になる寸前。

前回のOTの時にも書いたが、今も、ステージでドラムを叩く川西さんを観れているのって、かなり、奇跡的なことだと思う。

しかも「いちばん好きなドラマーは?」と訊かれたら、「川西幸一」と即答する習慣、あれから39年が経つ今も、一度も変わったことがないし。

……待てよ。最初に川西さんを観た時の、バスドラが26インチの黄色いドラム、TAMAじゃなくてPearlだったんじゃないか、という気もしてきた。TAMAを使うようになったのは、デビューしてTAMAのモニターになってから、だったかもしれない。

でも、えーと、そうね、これはもう、ご本人に訊く以外に、確かめようがありませんね。今度お会いする機会があったら、訊いておきます。

なんのために?

なお、これも、ユニコーンのインタビューや単行本を読み込んでいるファンならご存知だろうが、川西さんは、このREADYでのライブ一回が、自分としてもあまりに良くて、「ダメだ、やっぱりバンドやめられない」と、自分の中で引退を撤回した。

そして、「ただし、次にやるのはもう『プロになりたい』じゃなくて『プロになれる』バンドだ!」と決めて、大学時代の後輩であり、The Stripperで活動を共にしていた、そして当時ウッディストリートで働いていて地元のバンドマン事情に詳しかったテッシーとふたりで、メンバーを探し始める。

それで結成されたのが、ユニコーンである。

プロフィール

兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『昔話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(月一回)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二〜三回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。