兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』
第九話: 有頂天と筋肉少女帯と人生を、リアルタイムで観れてよかった(後編)
月2回連載
第18回

illustration:ハロルド作石
一緒にバンドを組んだが、ライブ一回でやめることに(僕が)してしまった、その彼女と一緒に有頂天のライブを観てから、3カ月も経たないうちに、だったと思う。
彼女が、次に組んだバンドがきっかけで、メジャーデビューすることになったのだ。
解散してしばらくした頃、その新しいバンドで歌う彼女を観たことがあった。ヤマハの最上階のホールで観た記憶と、観に行ったんじゃなくて偶然だった記憶があるので、高校生バンドのコンテストか何かで、僕も別のバンドで出ていて、それで観たんだと思う。
同じ高校の仲間とかで組んだらしい、全員女の子のバンドで、レベッカのコピーをやっていた。おそらくそのバンドで、別のコンテストに応募したのがきっかけで、審査員だかレコード会社だかの目に止まって、ソロでデビューすることになったらしい。
びっくりした。でも、その時は不思議に思わなかったが、今考えると、レベッカのコピーバンドがきっかけでデビューが決まるって、なかなか謎である。僕が知らないだけで、実はオリジナル曲もやっていて、それでコンテストに応募したのかもしれない。
しまった。あのままバンドを組んでいれば、俺も一緒にデビューできたのに。
という気持ちには、なぜか、ならなかった。むしろ「よし!」と思った。なんで。その頃はもう、奥田民生が加入したユニコーンのデビューは決まっていた。で、それに続いて、彼女もすぐにデビューが決定。俺が目をつけたふたりが立て続けに。俺は見る目があることが、これで立証された。だからまた「この人!」ってボーカリストを見つければいい。そうすれば俺も、そのバンドでプロになれる。
なんでそこでそう思えるの? 百歩譲って、仮にきみに本当に見る目があったとしても、彼女は、バンドじゃなくてソロでデビューするのよね? 他のメンバーは「はい、さよなら」なわけよね? まず間違いなく自分もそうなることに、なんで気がつかないのかな? 惚れ惚れするほどの頭の悪さである。
彼女は高校を卒業後、進学で東京に行くタイミングで、レコード会社とマネージメントに所属する、ということだった。僕は高校を卒業後、立命館大学に進学して、京都に引っ越した。
その直後、確か一回生の夏休み前だったと思うので、1987年の6月とか7月くらいかな。デビュー前の彼女が、ライブで関西に来たのだ。場所は神戸チキンジョージ。ツアーだったか単発だったか忘れたが、1stアルバムが出るよりも全然前なので、デビューに向けて修行中、みたいな時期だったのだと思う。
なんで彼女が来ることを知ったんだっけ。連絡があったのかな。でも、お互いの連絡先、知ってたっけ? もちろん携帯が普及する前の時代だし、俺のアパートの部屋に電話なかったし(廊下の共同電話しかありませんでした)。
じゃああれかな、ライブハウスのスケジュールで知ったのかな。当時の僕は、ぴあ関西版とエルマガジン(関西ローカルの情報誌)の、関西一帯のライブハウスのスケジュール欄を、毎号すべて、それこそ舐めるようにチェックしていたので。京都でバンドやりたいけどなかなかメンバーが見つけられないもどかしさに身を焼きながら、そんなことをしていたのだった。それで神戸チキンジョージのスケジュールで見つけて「あっ!」てなったのかもしれない。
とにかく、京都から神戸まで、阪急を梅田で乗り換えて、観に行った。神戸チキンジョージに行ったのは、その時が初めて。今のチキンジョージじゃなくて、阪神・淡路大震災で倒壊する前のチキンジョージでもなくて、そのもうひとつ前の、キャバレーの上にあった頃です。
何バンドか出る中のトップで、お客はあんまり埋まっていなかった。そりゃあそうよね、まだデビューもしてないんだから。
ただ、プロのバック・バンドの演奏も、それに全然食われない彼女のパフォーマンスも、ちょっと唖然とするレベルだった。ライブ一回だけとは言え、自分と一緒にやったことがある人とは思えない。まあ彼女自身も、自分にそこまでのポテンシャルがあるとは思っていなかったから、俺とやってみる気になったんだろうけど。
ただただ圧倒されているうちに、彼女の出番が終わった。そのあとロビーに出てみたら、彼女が何人かに囲まれていた。僕と同じように関西に進学した友達が観に来たらしい。一応僕も挨拶したが、何を話したか憶えていない。でも、高校時代の友達らしい女の子が、泣かんばかりに興奮しながら、彼女にくり返し「成長したね、成長したね!」と言っていたのは憶えている。
いや、成長て。ほんの数カ月前まで一緒に机を並べてたでしょうに。と思ったが、今考えると、そう言いたくなるのもわかります。
そして、その数カ月後。彼女は、京都BIG BANGに来た。しかも、彼女のバックは有頂天で、筋肉少女帯・人生との3バンドでのツアーである。
チキンジョージの時よりもびっくりした。どゆこと? 一緒に有頂天を観てから1年半しか経ってないよね? いったいなんのつながりで?
彼女の所属レーベルが有頂天と同じだったこと、彼女のバンドのバンマスが有頂天のコウで、後に出る1stアルバムでギターを弾いているし、ベースのクボブリュも参加していること……あ、じゃあチキンジョージの時もギターはコウだったのかな。それも憶えていないが、まあとにかく、そんなような事情だったことを、あとで知ることになる。
ただ、その時は、ひたすら驚いた。しかも対バンが筋肉少女帯と人生。どちらもロッキング・オン・ジャパン誌や、洋楽ロッキング・オン誌のインディーズ・コーナー(というのがあったのです)に載っていたのを読んで、興味を惹かれていた。
というのもあって、一も二もなくチケットを買った。会場は、当時、ライブハウスとしては京都でいちばん大きかったBIG BANG(※京都MUSEができるちょっと前だったのです)。インディーズ・ブームも、バンド・ブームも、もう到来していた、というのもあって、会場は満員だった。
トップは彼女と有頂天、二番目は人生、トリは筋肉少女帯。筋少は、メジャーデビュー直後の頃のメンバー。もう「大槻ケンヂ」になっていたっけ、それともまだ「大槻モヨコ」と名乗っていた頃だったっけ。ベース内田雄一郎、ギター関口博史、ドラムみのすけ(美濃介という表記だったかも)、キーボード三柴江戸蔵の5人である。
橘高文彦加入前で、まだメタル色は薄く、パンクとプログレッシブ・ロックとクラシックを力ずくで合体させたみたいなサウンドで、それにもびっくりしたし、そんな音に乗っかって、ヒビ割れメイクで大暴れしながら、ヒアリングしにくい歌を歌っているボーカリストにもびっくりしたし、見た目完全ヤクザですさまじいテクでピアノを奏でる鍵盤奏者にもびっくりした。
トップに出た彼女と有頂天のステージにも、また違う意味でびっくりした。ケラが歌う本来の有頂天の時よりも、ポップでストレートなバンドの演奏を、あたりまえのように乗りこなしがら歌う彼女。数カ月前にチキンジョージで観た時よりも、さらに堂に入っていて、「このバンドと一緒に歌っているのが当然」みたいなパフォーマンスだった。
有頂天と筋少と人生、というナゴムの人気バンド3つが揃うツアーで、有頂天はケラじゃなくて彼女がボーカル、つまりBIG BANGにつめかけたナゴムギャルからしたら、誰も知らない曲を誰も知らない若い女が歌っている。
というのは、今考えたら、もんのすごいアウェイですよね。「何よあの女」って反感を買ってもおかしくないレベルですよね。でもステージの上の彼女は全然のびのびやっていたし、フロアを埋めたオーディエンスからも、そんな雰囲気は感じなかった。僕が感じなかっただけかもしれないが。
そして、そんな彼女以上に、それから筋少以上に、驚かされたのが、人生だった。
どういうバンドなのかは、ロッキング・オン社の二誌や宝島などを読んで、知ってはいた。卓球という、ピエロをかわいくしたみたいなメイクのボーカルと、シンセを操作してバック・トラック(という言葉自体、当時はなかったが)を出す女性メンバー、グリソン・キムのふたり以外に、4人とか5人とか6人とか(その日によって人数が変わる)メンバーがいること。彼らは演奏においても歌においても、何の役割も担っていないこと。ただ、「かっこいい」「美しい」「素敵」方向とは真逆のベクトルの、異様なメイクや衣装で身を飾り、奇声を発しながら踊ったり、ステージ上をうろうろしたりしていること。メンバーそれぞれに「おばば(ex.分度器)」とか「畳三郎(コミックパブ『チャップリン』勤務)」とか「王選手」とか「若王子耳夫」などという名前が付いていること。
という知識はあったが、ライブでそのさまを目のあたりにすると、もう愕然とした。本当にそのとおりだったので。卓球とグリソン・キム以外の数人は、ただただ奇声を発しながら踊り回っている。いや、「踊り」でも「ダンス」でもなく、奇妙に身体を動かしながら騒いでいる、といった方が、より正確かもしれない。
何これ!? バンドなの? カラオケを出している人と歌っている人と、そのまわりで騒いでいる人たちの集団なのに?
演奏の代わりにバック・トラックを使ってライブをやることも、音楽的な役割がゼロなメンバーがいることも、今ならすんなり受け入れられるが、当時の自分にとっては、それはもう衝撃だったわけです。
いや、「今ならすんなり受け入れられる」と書いたが、すんなり受け入れられるようになった最初の洗礼が、この日の人生のライブだった、ということか、つまりは。
要は、奇妙奇天烈なだけじゃなくて、その奇妙奇天烈なキャラクターも音楽も、すさまじくおもしろかった、とてもすばらしく感じた、だから衝撃だったのだ。
ありなんだ? バンドって何やってもいいんだ? 音楽って何やってもいいんだ? ということを、僕は人生によって知ったのだった。
だからといって、真似はしなかったけど。真似しようという発想自体、まったく湧かなかった。
たとえば、石野卓球やまりん(砂原良徳)になりたかったら、打ち込みで曲を作ることから始めればいいし、憧れているギタリストやドラマーがいたら、その楽器を始めればいい。でも、ピエール瀧になりたくても、真似しようがなくない? 何から始めればいいのよ、という話じゃない? ということを、当時の自分は、無意識に感じていたんじゃないか、と思う。
というこの話、ずいぶん時が経ってから、電気グルーヴのインタビューの時、ピエール瀧本人にしたことがある。「俺だって、こうなろうと思ってなったわけじゃない」という、すばらしいお答えをいただきました。
なお、この後、人生は、各メンバーが楽器を持ってロック・バンド編成になったりした末に解散、その中の「音楽をやる人」ひとり(卓球→石野卓球)と「何もしない人」ふたり(畳三郎→ピエール瀧と若王子耳夫)、あとひとり(高橋ノブオ)で、電気グルーヴを結成する。
そして彼女は、1989年にメジャーデビューするが、アルバム2作・シングル2作で契約が終わる。
という頃に、僕は大学を卒業し、ロッキング・オンに入社するため、上京した。で、その半年後くらいだっけ、どうやって連絡を取り合ったんだか忘れたが、お互い東京にいるなら飲もう、ということになって、久々に会い、近況を訊いた。
メジャー契約が終わった後も、自力で音楽活動は続けていて、ライブハウスに出ていることと、職業としては少女小説の作家になっていて、本を何冊か出していることを、そこで知った。
その時彼女は、「同じ広島出身で親しいから」と、少女小説家の仲間だという、我々よりちょっと歳上の男性を連れて来た。東京に来たばかりの何も知らない僕を全然小僧扱いしない、物腰やわらかな、優しい人だった。
それっきりお会いしていないし、2022年に亡くなってしまったが、津原泰水である。その時は「津原やすみ」というペンネームだった。数年後に彼が少女小説からミステリやSFに進出して、名を知られるようになった時、「津原泰水? ……ああっ、あの時の!」と、驚いたものです。
というか、それっきりお会いしていないのは、彼女も同様なのだった。連絡先も知らないし、本人のSNSとかを探しても、リアルタイムで動いていそうなものはないし。なので、そもそもこの文章自体に、名前を出していいもんかどうかも判断できないまま、ここまで書いてしまった。
かつて、ミュージシャン/作家として、顔と名前を公表していた人だし、彼女がメジャーからリリースした音源、apple musicにもSpotifyにも普通にアップされているし、自分の普段の判断基準で言うと「名前出してOK」なんだけど、本人がどう思うかわからないしなあ、という。
万が一、これを読んで、「べつに名前出されてもいいよ」みたいなことだったら、ご連絡ください。ここまで長々と書いたように、自分の音楽人生、いや、職業に関わっているから人生そのものにおいてだな、重要な出会いをさせてくれたことを、今でも感謝しておりますので。
あと、ここまでの文章、僕の貧しい記憶頼りで書いているので、あちこちに事実誤認がある可能性も高いです。なので、その場合はご指摘いただければ幸いです。
なお、僕の方は、彼女の現在の消息、なんとなくは知っている。何年か前に、大槻ケンヂにインタビューした時、「あのツアー憶えてます?」と聞いたら、憶えておられました。で、彼女の近況も、把握しておられました。
プロフィール
兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(月一回)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二〜三回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。