兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』
第十話:2024年10月に日本武道館で観たサンボマスターと、その14年前に小さなライブハウスで観たサンボマスター(後編)
月2回連載
第20回

illustration:ハロルド作石
前回の続き。今から14年半前の2010年7月20日、中野のライブハウスMOONSTEPで観た、サンボマスターのライブについてです。
前回書いたように、2010年の「きみのためにつよくなりたいツアー」が終わった3日後、そのツアーの番外編で、ファンクラブ会員限定ライブとして、行われたものである。
当時の自分のブログによると、そのツアー・ファイナルの7月17日のZEPP TOKYOが、先に決まっていた別のライブとぶつかって行けなかったので、代わりにこれを観に行った、という事情だったようだ。
小さなハコのファンクラブ限定のライブって、普通、関係者とかは呼ばないものだが、サンボのライブ制作担当の、VINTAGE ROCK迫田さんに頼み込んで、入れてもらった記憶がある。
なお、迫田さんは、現在もサンボのライブ制作をやっている。前回も書いたように、サンボは事務所もレコード会社も一度移籍していて、そのタイミングでマネージャーやディレクター等はガラッと入れ替わっているし、僕の知る限りではローディー等も替わっているので、現在のサンボともっとも長く仕事しているのは彼、ということになるのではないか、と思います。
あと、中野MOONSTEPって、ご存知ですか?行ったことあります? 僕は知らなくて、この時、初めて行きました。雰囲気とかはとてもいいハコだったけど、たとえば新宿ロフトとか下北沢のシャングリラとか新代田FEVERとかみたいな、いわゆるプロも頻繁に出るようなライブハウスではない。
そこをサンボが選んだのは、結成直後の頃の彼らを応援してくれたライブハウスである初台WALLと同じ経営だから、みたいなことを、この日のMCでしていたのを憶えています。
で。その日のライブのことを書く前に、当時のサンボの特殊さについて、説明しておきます。
特殊って何が。ファンが、です。
前編のテキストで、2024年10月25日の日本武道館で、普通の街の風景を、そのまま武道館の客席にトレースしてきたみたいな、サンボのファンの幅広さに驚いた、「あたりまえにみんないた」「普通だった」その感じに、「ああ、サンボって、本当に世の中に受け入れられたんだなあ」ということがよくわかった、ということを書いた。しかし。デビュー当時は、その真逆だったのだ。
8割が男。そして、その8割がおっさん。
という、デビューしたばかりの、20代半ばの男3人の、ハードコア・パンクやスラッシュメタルでは決してない音楽性のバンドとしては、異常な客層だったのである。
eastern youth? bloodthirsty butchers? BRAHMANも男ばっかりだけど、それでもサンボよりはまだ若いよ? とか、言いたくなるような。
という事実を、最初にライブを観に行った時に知って、びっくりしたのだった(確か渋谷O-WESTのイベントだったと思う。深夜だったような気がする)。
その後、人気の上昇と共に動員が増えて行く過程で、その「男ばっかり」で「おっさんばかり」の濃度はちょっと薄まったが、それでも他の同期の人気バンドたちと比べると、あきらかに異質だった。ちゃんと男が増えるし、おっさんが増える、という。
ツアーで某地方に行って、ライブを終え、片付けが終わって外に出ると、何人かいた出待ちのファンの中に、どう見ても自分たちより年上の、スーツ姿の男性がいて、名刺をくれた。肩書が「部長」だった。というのは、当時、山口隆本人から訊いた話であるが、特に驚かなかった記憶がある。
当時のサンボが、なぜそういう客層だったのかは、知らない。というか、わからない。まあ、かく言う自分も彼らより全然年上のおっさんだし、そういう客層にいちばん刺さる音楽性であり、ライブ・パフォーマンスなんだろうな。などと、当時は漠然と思っていたが、ここまで書いてきたように、現在のサンボのファンの幅広さは、そういう、一部の人種だけに支持されるバンドではなかったことを、示しているし。
さて。そんな時期のサンボのライブの中で、なぜ2010年7月20日中野MOONSTEPのライブのことを、強く憶えているのかというと、そんな男ファン、おっさんファンたちの濃さが、大爆発したライブだったからだ。
当時のサンボマスターのライブは、とにかく、MCが長かった。MCというか、語りというか、曲に入る前に山口隆が熱く、かつ延々と、言葉を発し続けるあれね。
今も長いじゃん。と言われそうだが、あれでも短くなった方なのだ。昔は、ワンマンの時はもちろん長いし、フェスに出演した時も、ほぼ1曲ごとにあれがはさまるぐらいの按配だった。
フェスは持ち時間短いんだから、あの語り、一回か、せめて二回にした方がいいのではないか。そうすればあきらかに、あと一曲は多くやれる。その方がよくない? という話を、当時、インタビューかなんかの時に、山口隆本人にしたことがあるほどです。
あと、そのような熱くシリアスな語り以外の、ゆるいテンションのMCも、ワンマンだと、けっこう長かったりする。山口隆がふと思いついたことをしゃべり始めたり、近藤洋一がそれにツッコミを入れたり、合いの手をはさんだりして。
しかし。それでなくても濃いおっさんが多い上に、全員ファンクラブの会員ということで、その濃さがさらに上がったこの日のお客さんたちは、それを許さなかったのだ、サンボに。
山口隆の曲に入る前の語りの時に、聴かずに騒ぐようなことは、さすがになかったが、ゆるいMCが長く続くと、歓声を飛ばす、あるいは「オイ! オイ!」コールを起こすことで、それを妨げたりするのである。早く曲をやってほしいので。で、3人がそれに従って、すぐ曲に入ると、もう死ぬほど盛り上がる、という。
「ライブの主役は、ステージの上の演者ではなくて、オーディエンスである」とか、「ライブの出来を決めるのは、オーディエンスが受け身ではなく、どれだけ主体的になるのかで決まる」とか、「曲はミュージシャンのものではなく、客のものだ」とか、よく言われるじゃないですか。「ライブ」を「フェス」に置き換えたバージョンも、それこそ日本にロック・フェスが根付き始めた頃に、よく言われていた。
で、自分は、それなりに長い間、ライブの現場、フェスの現場を体験していく中で、そのへんの言い方に対して、「うーん、そうかなあ?」と思ったり、「そう言いたいのはわかるけど、でも現実はそうはならないよね」と思ったり、時には「あ、ほんとにそうなのかも」と思ったり、とにかくいろいろ思ったり、考えたりしてきたのだが。
この日=2010年7月20日、中野のライブハウスMOONSTEPでのサンボマスターのライブが、自分の人生の中でもっとも「ほんとだ!」と思えた瞬間だったのだ。
オーディエンス、みんなすごい主体的。だから、オーディエンスがライブを作っているし、ライブの実権を握っている。みんな、ここで演奏される曲を、サンボのものではなく、自分のものだとあたりまえに思っている。だから、なかなか演奏されないと怒る。いつまでもしゃべってねえで、さっさとやれよ、俺のすばらしい曲を! という、そういうテンションだったのだ、どのお客さんも。
理想だ、これは。と、思った。理想すぎて現実に起きることはほぼないだろうと認識していたけど、現実になることもあるんだ、と。本当に、涙が出るくらい、美しい光景だった、あれから14年半が経つ今も忘れられないくらい。
「この新世代のギグにおいては、ステージ上の僕らよりも、オーディエンスの方がより重要な位置を占めるようになってきてるんだ。90年代の主役は彼らなんだよ」──THE STONE ROSESがデビューした頃の、ジョン・スクワイアの発言。「90年代の主役はオーディエンスだ」というふうに要約されて広く知られた言葉である。
いいDJをできている時って、曲を選んでいるのは自分じゃない、客に選ばされている──石野卓球は昔、そんなような発言をしていた。
というふたつの言葉が表していることを、まさに体験したのが、僕にとって、この日のライブだったのだ。
ただし。つい先日、迫田さんと酒席を共にする機会があったので、「憶えてます?」と訊いてみたが、「えー、いや、そんなライブでしたっけ?」みたいな感じで、ピンとこないご様子だった。
なので、単に僕がそんなふうに感じただけ、そんなふうに受け取っただけ、そんなふうに解釈しただけ、という可能性も、大いにある。というか、たぶん、そうなんだろうな。
でも、サンボに対しても、ファンに対しても、いいなあ、理想だなあ、と強く感じた、だから今でも忘れない、得難い出来事だったので、まあいいじゃないですか、それでも。
とも、思います。
プロフィール
兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(月一回)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二〜三回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。