兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』
第十二話:30年ちょっと前のフラワーカンパニーズ (前編)
月2回連載
第23回

illustration:ハロルド作石
前回=第十一話、前編も後編もフラワーカンパニーズについて書きましたが、今回もフラカンです。2025年9月20日土曜日・10年ぶり二度目の日本武道館ワンマンがあるので、この連載を「個人的フラカン強化シーズン」みたいな按配にしたいからです。
というわけで、前回の続き。1993年9月21日、下北沢SHELTERで、初めてフラワーカンパニーズのライブを観て大ショックを受け、「そこから、都内のフラカンのほぼすべてのライブを、追いかけ回す生活が始まった」日々について、です。
フラカンのライブに行き、フライヤーをもらい、次のライブの日程を確認し、またそこにまた足を運ぶ。ということをくり返す日々が、1993年9月21日以降、始まった。言うまでもないが、携帯電話もインターネットももちろんない、パソコンというものはあったが世間一般には普及しておらず、それまで原稿用紙に手書きしていた原稿を、ワープロというもので打つようになった頃なので、そのような最新のライブ情報は、フライヤーかぴあ等の情報誌に頼るしかないのだった。
最初は名古屋から来ていたフラカンが、事務所との仮契約が決まって、1994年2月4日に東京に出て来て以降、ライブの本数が増えていく。月に3本とか4本とかやっていたんじゃないかと思う。なお、このように、フラカンが上京した日を、何も調べずにパッと書けるのは、彼らが毎年「上京記念日ライブ」をやっているからです。
下北沢SHELTER、下北沢GARAGE、四谷FOURVALLEY、吉祥寺曼荼羅、などなど。後年グレートマエカワにきいたところ、チケットノルマがない、もしくは安いハコにしぼってブッキングしてもらっていたという。
どこも3バンドとか4バンドとか出る日で、どこもお客さんは少なくて、持ち時間は25分とか30分とか。最初は当日券を買いながら追いかけていたが、途中から関係者招待で入れてもらえるようになった気がする。
どこに行ってもお客は少なかった。で、どこに行っても、その少ないお客、フラカンのステージに引いていた。いや、「引いていた」は言いすぎか。「固まっていた」とか「絶句していた」という方が適切かもしれない。
前回の後編にも書いたように、街のライブハウスの狭いステージを、飛び回り、転げ回り、口の両端から血を流しながら、「歌」と「叫び」と足しっぱなしにしたような、もんのすごいボリュームともんのすごい声で歌うボーカリスト。
それと同じくらい、いや、時にはそれ以上に、片時も止まらず大暴れしながら弾きまくるベーシスト。「同じバンド?」って問いたくなるほど、両の腕以外は微動だにしない、20万円で殺しを引き受ける東南アジアの底辺スナイパーのような目つきのギタリスト。小デブ→ぽっちゃり→大柄、と、観る度に肥満が補正されていくドラマー。メジャーデビューの頃には全然デブではなくなっていたので、上京してから身体が締まったんだと思う。実家を離れたせいか?
ボーカルの鈴木圭介は、暴れすぎるがあまり、ギターの竹安堅一のエフェクターを踏んじゃったり、シールドがこんがらがっちゃったりすることもしばしばだった。同じく暴れ回るグレートマエカワのベースのヘッドが、圭介の頭を直撃するんじゃないかと、ヒヤヒヤしながら観ていた記憶がある。
そうだ、これは僕は観れていないのだが、原宿のホコ天でやった時、圭介がモニターに頭をぶつけて大流血したこともあったようだ。その頃よりはずいぶん落ち着いたパフォーマンスになった2004年の8月にも、川崎クラブチッタで行われた『SET YOU FREE』のイベントで、モニターに頭をぶつけて流血、顔面を真っ赤に染めながら「生きててよかった」と「深夜高速」を歌う、という事件もあった。モニターに頭をぶつけがちな男。
「さあさ皆さん お疲れさま 長い旅は終わりました/私が車掌の鈴木です 名乗り遅れてすいません/ここにいるのは今の毎日 夢も希望もない方々/どうぞまわりをご覧なれ 魚目のバカヅラだ」(夢の列車)
「ダイヤモンドは 俺一人だけ 残りはみんな ただの石ころさ」(ダイヤモンド)
「長い長い列から 外れて 一人、一人、一人、とり残されてる/おいてかないでおくれ、一緒に連れてってくれ」(あんな風になってしまうのに)
「もう誰の注意も もう誰の警告も 聞いてやるものか 夜風に身を包みながら/孤高の丘に立って 心に決めたぜ 孤高の丘に立って 心に決めたぜ/季節の風をいつも 肌に感じながら 月夜に立ちつくす 孤高の英雄(ヒーロー) 寂しきカリスマ がんばれ圭介 孤高の英雄」(孤高の英雄)
というような、当時あきらかに異彩を放っていた……というか今見てもなかなかに異彩を放っている、全方位的に「言いすぎ」な歌詞が、パンクとサイケデリックとブルースを連結したような、激しくてドロドロしたバンド・サウンドに乗る。
というふうに、思い出しながら書いてみると、よくわかる。要は、どこをとっても、自分の好みのどまんなかだったのだ。ルックスがパッとしないところまで含めて。あと、ときおり圭介が、当時隆盛を極めていた渋谷系を揶揄するような、毒づき系のMCをしたりするところまで含めて、かもしれない。
デビュー前の新人バンドをここまで追いかけるような経験、自分にとって、初めてだった。で、そうやって追いかけることによって、それまで行ったことがなかった都内のライブハウスに初めて行く、ということが増えたのだった。
何それ。邦楽ロック雑誌の人間なのに? いや、そうなのです、意外と。邦楽ロック雑誌の人間である、ということは、普段観に行くバンドも「デビューしているバンド」か「もうすぐデビューするバンド」ばかりで、そうすると足を運ぶライブハウスも、渋谷クラブクアトロや新宿日清パワーステーションといった大きなハコか、新宿ロフトや渋谷ラ・ママや渋谷エッグマンのような、プロも出るようなハコに限られるものなのです。
ということに、フラカンを追っかけるようになって、気がついたのだった。インディー系の雑誌ならまた別だろうけど、主にメジャーのレコード会社を相手に仕事していると、そういうことになるのだな、と。
インディ・リリースしたファースト・アルバム『聞コエマスカ』の後に、フラカンが自分たちで作って、ライブ会場で手売りしていたテープをもらって、何度も何度も聴いた。
『フラカンの赤い夕暮れ』『フラカンの暗い週末』『フラカンの幸せ降ってこい』『フラカンの孤高の戦士(ソルジャー)』と名付けられた、それらのテープに収録されていた曲──「父さん、ケッタを貸してくれん?」や「アイ・アム・バーニング」や「フェイクでいこう」や、「ライトを消して走れ」や「雨よ降れ」や「ブラン・ニュー・エアコン」や、「復活の日」や「あったかいコーヒー」や「くるったバナナ」は、メジャーデビュー以降の作品に収められることになる。
書いていて思い出した。メジャーからのシングルとしては2枚目で、1996年にリリースされた「恋をしましょう」のサビは「愛してるよ 愛してるよ 愛してるよ 白眼をむいて」という歌詞だが、デビュー前の時期は、「オールニードイズラブ オールニードイズラブ オールニードイズラブ 白眼をむいて」と、カタカナ英語で歌われていた。
メジャーでレコーディングするにあたって歌詞を書き直す、というのは、フラカンに限らず、よくあることですね。ユニコーンの「SUGAR BOY」もそうで、男性を好きな男性にばかりモテてしまう男の歌だけど、デビュー前は、男女間の恋がうまくいかない男の歌だったし。
話を戻す。そんなふうに、事務所と仮契約しつつ、東京に住んでアルバイトで生計を立てつつ……あれ? 圭介だけはバイトしていなかったような記憶もあるな。どうやって食っていたんだろう。グレートさんは、確かガソリンスタンドじゃなかったっけ。
まあとにかく、そんなふうに暮らしながらライブ活動に精を出すフラカンだったが、すんなりとはメジャーデビューできなかった。
キューン・ソニーのディレクター氏がフラカンを気に入って、それが回り回って「たぶんうちでやるから観に来ない?」という僕へのお誘いになったわけだが、その後もキューンとの契約が決まらない。
このあたり、2015年にリットー・ミュージックから出たフラカンの単行本『消えぞこない』で本人たちが話しているが、ディレクターの上司のひとりが、フラカンとの契約をOKしなかったのだ。
その時、もうひとついいバンドがいて、同じ時期に新人バンドふたつはいらない、どっちかにしたい、という状況で、その上司はもうひとつの方のバンドを選んだのだという。
それがラルク アン シエルである。
大正解、と言わざるを得ない。単行本の中で竹安さんもグレートさんも「大正解」とおっしゃっています。
ただしその後、ディレクターが同じソニー・グループの中に新しくできたアンティノス・レコードに異動になり、フラワーカンパニーズはそこからメジャーデビューできることになったのだった。
次回に続く。
プロフィール
兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(月一回)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二〜三回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。