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兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』

第十二話:30年ちょっと前のフラワーカンパニーズ (後編)

月2回連載

第24回

illustration:ハロルド作石

前回の続き。というのは、何の続きなのか、というとですね。

事務所と仮契約が決まり、1994年2月4日に名古屋から上京したフラワーカンパニーズだが、あてにしていたキューン・ソニーとの契約が、なかなか決まらない。最終的に、同じソニー・グループ内に新しくできた、アンティノス・レコードにディレクターが異動になり、フラカンもそこからメジャー・デビューすることになった──という話の続きです。

ただ、「事務所と仮契約って何? 『仮』ってなんなの?」と思う人がいるかもしれない。と、今、気がついたので、説明します。

CDの売上から入る印税を、まだあんまり期待できない、当時の新人バンドの事務所というのは、基本的に、レコード会社から入る契約金と、同じくレコード会社から「月いくら」とか「年いくら」で支払われる「活動助成金」みたいなカネ(どういう名目かは会社によって違う)によって、経営が成り立っていた。

そのカネから、毎月メンバーに払う給料が捻出される。だから、レコード会社に契約を切られるとメンバーの給料が止まる、そしてバンドは事務所をやめる、という。

というわけで、デビュー前の時期も、メジャーのレコード会社と契約を締結しないと、事務所はバンドに給料を払えない=契約することができない。だからフラカンも、この段階では「仮」の契約だったわけです。

と、書いてみて、つくづく思う。すんごい隔世の感がありますね、と。みんなライブのチケットの売上げとグッズの売上げで食っている、現在のバンド業界と比べると、えらい違いである。

当時は、ライブとかツアーというのは、あくまでもCDを宣伝するために行うものであって、それ自体の売上げを期待できるものではない、赤字であたりまえ、みたいな認識だった。大人気バンドは別だが、新人から中堅ぐらいのバンドは、みんなそうでした、1990年代中盤当時までは。

今のように「年間100本あたりまえ」ではなく、アルバムのリリースのタイミングでツアーを年1〜2回、あとイベント出演なんかを足しても、ライブはせいぜい年に30本とかそれくらい、という時代の話である。

言うまでもなく、フジロックが始まるよりも全然前で、国内には「大きなイベント」がちょっとある程度で、「ロックフェス」はまだ存在しなかった頃だ。

もう一度言う。すんごい隔世の感ですね。

あと、グッズに関しても、みんなが「商売にできる」と気がついたのは、このちょっと後に、AIR JAM勢等のパンク系と渋谷系が、Tシャツなどを売りまくってから、である。

いや、気がついたあとも、「でも、それが商売になるのはパンク系と渋谷系だけ、他のジャンルのファンは、Tシャツとかあんまり買ってくれない」という時代が、けっこう長く続いた。

フラカンの話から、だいぶ遠ざかってしまった。まあ、つまり、そんな時代にフラワーカンパニーズは上京し、アマチュアからプロになったわけです。

アンティノスレコードとの契約が決まって、給料も出るようになり、ライブ活動を続けていくフラカン。前編でも書いたように、最初は人が少なかったし、その少ないお客さんたちも、激しすぎるし独特すぎるステージ・パフォーマンスに、ただただ固まるのみ。動員がちょっとずつ増え始めてからも、しばらくの間はその「ただただ固まるのみ」の状態が続いた。

が、ある時から、踊ったり拳を突き上げたりして、みんな盛り上がるようになった。「そうか、踊っていいんだ、楽しいんでいいんだ」ということに、気がついたのかもしれない。

これ、僕は「なんかいつの間にかそうなった」みたいな認識だったのだが、グレートマエカワはちゃんと憶えていた。

2015年に出たフラカンの単行本『消えぞこない』での、グレートの話によると──「よると」って、話をきいて文字にしたのは僕なんだけど──メジャーデビューの1カ月前=1995年の4月、下北沢GARAGEでライブを行った時。お客さんが100人ぐらい入って、みんな踊り始めたのが、そうなった最初の日だという。

グレート曰く、それまでは、どんなにお客が引こうがおかまいなしで大暴れ、むしろそれがおもしろいんだ、くらいに思っていたが、「お客さんが踊ると楽しい!」という気持ちに変わった、そのきっかけになったライブだそうだ。

同書で鈴木圭介も「初めて(お客から)返ってくる感じがあった。それまでは投げつけるだけっていうか、一方通行のライブしかやってなかったから」と言っている。

なるほど。とても重要なライブだったんですね。だったら憶えてろよ、俺。なんでそんな大事な日のことが、記憶にないのよ。下北沢GARAGEも、フラカンを追ったことで初めて行ったライブハウスであることは憶えているので、間違いなく観ているんだけどなあ。

メジャーデビュー・アルバム『フラカンのフェイクでいこう』は、1995年5月20日にリリースされた。収録されているのは、「むきだしの赤い俺」「今池の女」「父さん、ケッタを貸してくれん?」「アイ・アム・バーニング」「プラスチックにしてくれ」「フェイクでいこう」「ライトを消して走れ」「さよならバイバイ」の8曲である。

8曲入りという、フル・アルバムとミニ・アルバムの間くらいの、不思議なサイズである理由は、当時、わからなかったし、今も知らないなあ……と思いながら、CD棚から探して、ケースを開けてみた。

ジャケットをパッと広げた裏側の左ページが、鈴木けいすけ(メジャーデビューにあたって、下の名前を平仮名表記に変えたのだった。後年、漢字に戻した)本人による全曲解説。で、右側が、なんと、僕が書いた解説だった。収録曲の解説ではなく、そもそもどんなバンドであるかを紹介する、的な内容のやつ。

完全に忘れていた、書いたこと自体。で、チラッと目をやって、後悔した。

読むに堪えない。だいぶひどい。内容もだが、それ以前に、メンバーのことを「こいつら」とか「お前は」とか書いている時点で、もうダメ。生まれ直し。受精からやり直し。である。

今の僕は、自分の35歳下くらいの若手バンドマンにインタビューする時も「さん」付けだし、年下だろうが身内だろうが親しかろうが、誰かのことを「こいつ」とか「お前」とか呼ぶことなど、ありえない人間なので。

ああもう。しもうた。うっかり見てしまった。あ、でも、歌詞カードが、すべて鈴木圭介の手書きで、落書きチックなイラストも随所に入っている、というのは、今見ても、とてもいいな、正解だな、と、思います。

さて。そんな(どんなだ)メジャーデビュー・アルバムを引っ提げて、フラワーカンパニーズは、初の全国ツアーに出た。それまでは確か、名古屋と東京以外は、大阪と京都くらいしか、行ったことがなかったんじゃないかと思う。

そのツアー、横浜のCLUB24(ここもフラカンのおかげで初めて行った。2007年に閉店)と、渋谷のON AIR WEST(今のSpotify O-WEST)を、観た記憶がある。そもそも、何本くらい回ったんだっけ……。

調べてみた。説がふたつあった。フラカンのオフィシャルサイトの「年表」には、「5本」と書いてある。が、非公式の記録だが、「6本」となっているサイトもあるのだ。

タイトルは『フラカンの情熱ズンドコロックンロールツアー』。その非公式の方によると、5月22日名古屋ELL、5月29日横浜CLUB24、6月2日福岡ビブレホール、6月9日仙台バードランド、6月12日大阪バナナホール、6月15日渋谷ON AIR WEST、だそうです。

横浜の方は、心配になるくらい入っていなかったことしか、記憶にない。が、渋谷ON AIR WESTは、まあまあ入っていたけどソールドアウトはしてなかった、ということのほかに、もうひとつ、強烈に憶えていることがある。ライブの良し悪しに関してではなく、ごく個人的なことだが。

このライブを、僕は、1階フロアの最後方で、壁に背中を付けて観ていた。なんで2階じゃなかったのかは、憶えていない(基本的に関係者は2階のハコなのです)。フロアのお客さんたちがどんな雰囲気かを、1️階で確認したかったのかもしれない。

で、「最後方」で「壁に背を付けて」なのは、この頃から現在まで、変わらない習慣です。

自分でチケットを買っている時は、あんまり気にしないが、関係者招待で入っている時は、なんせ背がでかいもんで、タダの奴がカネを払っているお客さんの視界を妨げるのは申し訳ない、という気持ちが働いて、可能な限り、壁際に立つようにしている。

というところまでは、よかったのだが。

ライブが始まった。メジャーデビュー・アルバムを引っ提げて行った、初の全国ツアーのファイナル公演で、おそらくこの時点で過去最大キャパでのワンマン。よって4人とも、すごい気合いが入っている。

鈴木圭介とグレートマエカワ、1曲目からもう、短距離走みたいな勢いで、飛び、跳ね、転がり、叫びまくるし、竹安堅一とグレートマエカワも、鬼気迫る演奏である。

で。頭3曲(だったと思う)を終えて、一回目のMCをはさむ前。その3曲目を終えるや否や、スクッと立ち上がったミスター小西が、フロアにスティックを投げた。

あっ、と思った次の瞬間。

そのスティックが、僕の顔面に命中した。

額から眉間&目〜鼻あたりにかけての位置に、カツーン! と音がする勢いで、まっすぐ飛んで来たスティックが、激突したのである。

「目に火花が散る」って本当なんだな、と、その瞬間、身を以て知った。当時はコンタクトで、今みたいにメガネではないのが、不幸中の幸いだった。メガネだったら、確実に破損していたと思う。

終演後の楽屋挨拶での、僕の第一声は、「小西い! スティックはフワッと投げい!」だった。

以上のテキストを書くにあたって、本人に確認したところ、「あれ以来、スティックはフワッと山なりに投げるようにしました。今でもそうです」とのことでした。

あと、「キュウちゃん(クハラカズユキ)も、必ず下手投げだもんね、スティック」とも言っていた。言われてみれば、確かにそうですね。

フラカンの過去のライブの話、まだ書きたいやつがあるので、次回に続く。

プロフィール

兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(月一回)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二〜三回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。