兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』
第十三話:新宿パワステのフラカン、日比谷野音のフラカン(前編)
月2回連載
第25回

illustration:ハロルド作石
フラワーカンパニーズ2025年9月20日土曜日・10年ぶり二度目の日本武道館を応援したく、個人的強化月間、みたいなことで、第十一話・第十二話それぞれの前後編=4回にわたって、大昔からつい最近までのフラカンのライブについて、書き続けてきた。
まだまだ書き足りないが、さすがにこの第十三話の前編後編で、いったん終わりにすべきであろうと思い、じゃあどのライブについて書こうかしら、といろいろ考えたが、しぼれなくて困っているうちに、ふと思いついた。
会場で書く、というのはどうかしら?
フラカンにとって重要なライブ会場、何度もステージに立った会場、活動の歴史に刻まれている会場、そういう場所に特化して何か書いてみるというのは、ありなのでは? ということだ。 フラカンくらい活動歴が長いと、かつ、ずっとライブハウスで活動し続けていると、そういうハコ、各地にいっぱいある。
出身バコである名古屋ELL。毎年12月に2デイズを行うのが恒例になっている京都磔磔。社長がフラカンのPAを務める鹿児島のWALK INN STUDIO。第十一話でも書いた下北沢SHELTER。同じく今でも時々ワンマンを行う下北沢CLUB Que、などなど。現在のフラカンのホーム的なハコである新代田FEVER(そういえば社長の西村さんは元下北沢SHELTER店長だ)も、もちろんそうだ。
という中で、自分が何度もライブを観たことがあることも含めて、選んだ場所がこれです。
今回=前編は、新宿にあった日清パワーステーション。次回=後編は、日比谷野外大音楽堂。
まず日清パワーステーション、通称パワステは、フラカンがメジャーデビューからの数年間、本当に頻繁に出ていた、とてもお世話になったハコである。
って、まずパワステとは何か、という説明が必要ですね。
1988年にオープンし、1998年に閉店した、新宿の日清食品本社ビルにあったライブハウスです。そう、ネーミングライツで「日清」なのではなく、場所も持ち主も「日清」だったのだ。なお、もちろん、当時はネーミングライツなんて言葉、知りませんでした。
キャパは700人。1階はスタンディングで2階は座席と立ち見。2階は階段状のテーブル席になっていて、そこのチケットを買えば座って食事をしながらライブを観れる、という、なかなか謎な仕様になっていた。そのテーブル席の最上階がちょっとしたフロアとバーカウンターになっていて、そこが立ち見のスペース。
で、関係者はだいたいその立ち見スペースなんだけど、バンドと関係が深かったり、こっちの「ロッキング・オン・ジャパン編集部」という肩書を、先方が「ご威光」みたいに捉えていたりすると、そのテーブル席に案内されることもあった。
何も言わなくても出てくる食事を前に、テーブルに向かいつつライブを観るのが、いかにも「私、接待受けてます」という具合で、気まずかった記憶があります。渋谷陽一とかは、そこに座らされても落ち着き払っていたけど、こっちは20代の若僧だし。
で、クラブクアトロやリキッドルームなんかと同じく、アマチュアも出られるブッキングがあるような、いわゆる街のライブハウスではなく、プロがハコ貸しでライブをやるところである。
特に1990年代のロック・バンド界隈においては、デビューしたらまずここでワンマンができるようになるのが目標、ここを埋められたらホールへ進出して行く、という、ひとつの目安にもなっていた。 パワステとぴあによる「SATURDAY NIGHT R&R SHOW」という人気シリーズ・イベントも行われていたりして、事務所&レコード会社とパワステが組んで、新人バンドを売り出していこうというムーブのあるハコだと、当時の僕は感じていた。
その「SATURDAY NIGHT R&R SHOW」、たとえば、THE COLLECTORS・Fishmans・スピッツなんていう、今思うと夢のような組み合わせで、開催されていたりした。
フラカンが最初にパワステに出たのも、その「SATURDAY NIGHT R&R SHOW」だ。フラカンと、ウルフルズと、BO GUMBOSが解散してソロになって間もなかったどんと、という3組だったよな、確か。今、フラカンの公式サイトの年表で調べたら、1995年8月29日でした。
この日は対バンに恵まれた上に、フラカンのライブの出来がとても良くて、本人たち的には「今日が俺たちのターニングポイントになるんじゃないか」ってくらい手応えがあったそうだが、ウルフルズがこの3カ月後にリリースしたシングル「ガッツだぜ!!」で大ブレイク。「俺たちのターニングポイントかと思ったら、ウルフルズのターニングポイントだった」と、のちにおっしゃっていました、グレートさん。
フラカンのファースト・アルバムとセカンド・アルバムのツアーの東京公演は渋谷ON AIR WESTだったが、サード・アルバム『俺たちハタチ族』のツアーは、パワステから始まった(1996年11月15日)。
それからパワステは、毎年夏には、1組のバンドが4週連続でライブを行う、という企画も行っていた。THE YELLOW MONKEYや、復活した(それまで数年間休止していたのだ)THE STREET SLIDERSを、その企画で観た記憶があります。
THE STREET SLIDERSは、毎週ゲストを招いて対バンを行う、という内容で、イベントが終わったあとのロッキング・オン・ジャパンのインタビューで(私ではありません)、それぞれの対バンの感想を訊かれたHARRYが、TOKYO No.1 SOUL SETについて、「音がでかすぎる」と答えていたのが、印象に残っている。
これ、特に洋楽の場合に顕著なんだけど、大物バンドだったり、立場が強いバンドだったりすると、自分たちの前に出るフロントアクトの音量を、制限したりすることがあるのですね。でも「でかすぎる」って言うってことは、THE STREET SLIDERSは一切そういうことをしないんだなあ、と思ったので、記憶に残っているのでした。
あとイエモンは、4週のうちの1週、最後の週かな、そこで吉井和哉がヤキソバンの衣装を着たんだけど、その日に限って観に行けなくて、あとで知って「しまった! 観たかった!」と後悔した。
そんな8月の4週連続ライブに、フラカンも挑んだのだった。1997年のことである。もちろん4週とも行った。演奏も音量もステージ・アクションも、一週ごとに激しくなりラウドになり過激になる一方で、4週目が終わったら燃え尽きてもいい、くらいの勢いだった。
ちょっと前からフラカンのことが気になっていた、というので観に来たスピッツの草野マサムネが、一撃で気に入って、翌週も観に来たのが、とてもうれしかった。
当時のフラカン、どちらかというと「過激おもしろB級バンド」みたいなイメージで、同業者や業界からのリスペクトが全然なくて、それをいつも歯がゆく感じていたもんで、僕は。というわけで、現在も続くスピッツとの交流は、このパワステから始まったことになる。
あ、思い出した。その4週のどこかで、曽我部恵一がゲストで出たんだった。ということは、サニーデイ・サービスとフラカン、この時はもう知り合っていたってことか。
なお、フラカンは、「SATURDAY NIGHT R&R SHOW」で、自分たちの翌年にデビューしたTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTとも共演している(1996年8月17日)。
現在も交流が続く、というかグレートマエカワ&竹安堅一は一緒にバンドをやっているし(うつみようこ&YOKOLOCO BAND)、鈴木圭介の弟、純也のバンド(OHIO101)のドラムでもあるので、ほぼ身内みたいなもんですね。そんなキュウちゃんことクハラカズユキと初めて共演したのが、この日だったことになる。
なお、「SATURDAY NIGHT R&R SHOW」、パワステだけでなく、他の会場で、規模を大きくして行われることもあった。これは、ぴあのNさんと共にこのイベントを作っていたパワステのプロデューサーのTさんが、ライブ制作の方だったからだ、と思う。そういえばフラワーカンパニーズ・エレファントラブ・THE SIDE ONEの3バンドのツアー(1997年)、Tさんが制作だったし。
フラカンが初めて日比谷野音のステージを踏んだのも、「SATURDAY NIGHT R&R SHOW」のイベントだった。1996年6月9日。出演はSOUL FLOWER UNION、シアターブルック、THE 99 1/2で、フラカンはオープニングアクト。
そして、初めての日比谷野音でのワンマンも、『SATURDAY NIGHT R&R SHOW 100回記念スペシャル「フラカンの日比谷野音ワンマンショウ」』として、開催された。
というわけで、後編=日比谷野音編に続く。
あ、「続く」じゃないや。まだ書いておきたいことがあった。
1998年にパワステがクローズした後、T氏は2000年にオープンしたSHIBUYA-AXのプロデューサーとして、フラカンと再会した。
で、パワステがなくなった後も、ペースは下がりつつも不定期に行われていた『SATURDAY NIGHT R&R SHOW』のスペシャル版が、2010年2月28日にSHIBUYA-AXで開催され、フラカンはそのトリで出演したのだった。
他はTRICERATOPS、OKAMOTO’S、黒猫チェルシー、THE PRIVATES、チャットモンチー、というラインナップでした。 それから、『SATURDAY NIGHT R&R SHOW』のもうひとりのスタッフ、ぴあのNさんは、その2010年の段階で、ソニー・ミュージック・グループ内のライブ制作会社に転職していた。で、10年前の、フラカンの初の日本武道館ワンマン(2015年12月19日)にも、今回の2025年9月20日の二度目の日本武道館においても、重要な役割で関わっている。
フラカンと付き合い長いのは自分だけじゃない、ということが、よくわかりますね。そもそも、このぴあ音楽の中尾編集長もそうだし。全国のライブハウスの多くも、そういう感じだろうし。先に名前を挙げた以外の各地のハコも、どこに行ってもフラカンのホーム感、すごいので。
というわけで、改めて、後編=日比谷野音編に続く。
プロフィール
兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(月一回)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二〜三回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。