兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』
第十三話:新宿パワステのフラカン、日比谷野音のフラカン(後編)
月2回連載
第26回

illustration:ハロルド作石
フラワーカンパニーズが何度もステージに立ってきた、活動の歴史に刻まれている重要なライブ会場は、全国にいくつもあるが、その中でも特に、自分が何か書いておきたいのは、新宿にあった日清パワーステーションと、日比谷野外大音楽堂です。というわけで、前回は、パワステとフラカンのことを書きました。後編の今回は、日比谷野音とフラカンについてです。
キャロルやRCサクセション等々、多くのアーティストの歴史的なライブが行われてきたロックの聖地、日比谷野外大音楽堂。自分も、日比谷野音が、いろんなバンドのライブ映像で映っているさまや、1980年代後半のマンガ『TO-Y』で描かれているさまを見て育ったもんで、1991年に上京して、初めて足を踏み入れた時は、それはもう興奮したものです。「うわ、同じだ!」と。あたりまえだ。
その日比谷野音は、2010年代後半あたりから、「いったんクローズして建て替えになる」ということが発表されており、フラカンも含む数々のバンドが、「今の日比谷野音で行う最後のワンマン」と謳って、ステージに立ってきた。
が、その後、何度もクローズが延期になり、これを書いている2025年4月の時点では、閉鎖は「2025年9月末以降」ということになっている。今、日比谷野音の公式サイトを見たら、8月いっぱいまで、毎週土日のライブの予定が発表されていた。
そう、日比谷野音、貸し出し自体は平日も行われているけど、大きな音が出せるのは土日だけなのです。そういえば昔、東京ダイナマイト主催のお笑いイベントが平日に行われて、「そうか、なるほど、漫才なら平日でもできるよね」と、感心しながら足を運んだことがあった。
今調べたら、東京ダイナマイトが野音でやったの、一回ではなかったようです。2006年8月25日と2009年8月14日、二回の記録が出てきたので。どっちだろう、僕が行ったのは。たぶん2006年の方だと思う。
話を東京ダイナマイトからフラカンに戻す。
そんな日比谷野音に、初めてフラカンが立ったのは、前回も書いたが、1996年6月9日。新宿日清パワーステーションとぴあが組んで行っていたイベント『SATURDAY NIGHT R&R SHOW』の拡大版で、SOUL FLOWER UNION、シアターブルック、THE 99 1/2(THE STREET SLIDERSの土屋公平がやっていたプロジェクト。この時はレゲエ・シンガーのPJがボーカルだった)というラインナップで、フラカンはオープニング・アクトだった。
初の日比谷野音でのワンマンも、これも前回も書いたが、『SATURDAY NIGHT R&R SHOW』の100回記念スペシャル、として行われたもの。1997年10月12日である。
スペースシャワーTVの生中継が入っていて、本編とアンコールの間にメンバーを追ってカメラが楽屋に入ると、そこにサニーデイ・サービスの曽我部恵一&田中貴がいて、自分たちのCDを手に持って宣伝していた、ような記憶がある。
あと、フラカンはスペースシャワーTVのイベント『SWEET LOVE SHOWER』でも、日比谷野音のステージに立っている。そう、現在、山中湖交流プラザきららで、フェスとして行われている『SWEET LOVE SHOWER』、そうなったのは2007年からで、1996年から2005年までは、日比谷野音だったのです。
フラカンが出たのはこのイベントの2年目で、自分たちが野音で初めてワンマンをやる5カ月前、1997年5月5日。Cocco、サニーデイ・サービス、ホフディラン+カジヒデキ、thee michelle gun elephent、山崎まさよし、と、共演している。
それから、二回目に日比谷野音でワンマンをやった、1998年10月18日の時は、バンドを取り巻く状況も、バンドの内側の状況も、よくない時期のピークにさしかかっていた。メンタル的に限界に達していた鈴木圭介は、この日でバンドをやめようと思い、「元気ですか」の途中で、「今までありがとうございました」と言い放つ。「あ、こいつ、言いよったな」と思ったグレートマエカワは、ライブ終了後、打ち上げの前に、急遽、メンバー4人だけで話し合う場を作って、事態を収めたという。
なお、そのあたりの話は、2015年に出たフラカンの単行本『消えぞこない』の中で、メンバーがしています。圭介「今までありがとうございました」グレート「あ、こいつ、言いよったな」の瞬間は、2020年に出た2枚組のBlu-ray『フラカン、二十代の記録-Flower Companyz Twenties Refords-』に収められています。未読・未見の方、ぜひ。
それ以降もフラカンは、何度も日比谷野音のステージに上がっている。
2011年4月16日の時は、その1カ月前に東日本大震災が起きてしまい、多くのバンドが、というか、多くの大手マネージメントが、ライブを控える中で、フラカンも一時は検討したようだが、決行することを選んだ。この時は、ゲスト・キーボードで奥野真哉が参加している。
この時期の東京で気温が6℃なのは48年ぶり、という大寒波の中で行われた2013年4月21日は、「エンドロール」をプロデュースしたスキマスイッチの常田真太郎が、同曲でピアノを弾いた。
2015年4月18日、同年の12月19日に初の日本武道館ワンマンを控えている状態で行った時は、雨や大寒波に見舞われることが多かったフラカンにしてはめずらしく、快晴になった。
そう、快晴の方がめずらしいのです、フラカンの日比谷野音。この次に行った2017年4月22日も雨だったし。鈴木圭介が、ステージの床が濡れているのを利用して「ダーッと走ってからヘッドスライディング」を、二回ぐらいやったのを憶えている。
最初にも書いたように、2022年9月23日は、日比谷野音がクローズになるのを受けて、ここでの最後のワンマンとして「フラワーカンパニーズワンマンライブ『ゾロ目だよ全員集合!』〜フラカン33年、野音99年」というタイトルで、開催した。
まだコロナ禍で、お客さんは声出しNGだった。で、この日も雨だった。鈴木圭介、本編で一回・アンコールで三回、この日もヘッドスライディングを決めた。
このぴあ音楽に、レポを書きました。
こちらです。
この時点では、日比谷野音は、2023年が終わったから改修工事に入る、と発表されていた。が、その後、それが覆った上に、フラカンのところに「野音取れたんですけど、やりません?」という話が舞い込む。「やりたいけど、最後の野音、もうやっちゃったし……そうだ、ワンマンじゃなければいいんだ」というグレートマエカワの閃きによって、ピーズとフラワーカンパニーズのツーマンイベント『帰ってきたぞぉぉ、っちゅうか死ぬまでヨサホイ〜YOSAHOI IN HIBIYA〜』として、2023年9月2日に行われることになった。
これも、ぴあ音楽にレポを書きました。
こちら。
という数々のフラカンの日比谷野音の中で、いちばん強く印象に残っているのは、僕の場合、2009年10月17日、結成20周年ライブとして、11年ぶりに行った時である。ちなみに、この日も雨だった。途中で止んだけど。
前年の2008年に、12作目のアルバム『たましいによろしく』でメジャー復帰を果たしたばかりだった、というタイミングの良さもあってか、とても賑やかで華々しい野音になった。
20周年ということで、ライブのタイトルは『20周年だヨ! 全員集合』。スタッフは全員、『8時だヨ! 全員集合』でドリフターズが着ていたのを模したハッピ姿である。
全国のファンはもちろん、仲間のミュージシャンたちや、一度目のメジャー所属レーベルだったアンティノス・レコードのスタッフたちなど、かつてフラカンに関わった人たち、今も関わっている人たち、みんなが集まった。
アンコールの「真冬の盆踊り」では、ミュージシャンや芸人が約30人登場。YO-KING、クハラカズユキ、堂島孝平、小宮山雄飛、森信行、LOST IN TIME海北大輔、アナログフィッシュ佐々木健太郎、ダイノジ、東京ダイナマイトのハチミツ二郎、などなど。この1カ月半前に活動休止したばかりだったウルフルズの、サンコンJr.とウルフルケイスケもいた。
というような、とても楽しいライブだったのだが、強く印象に残っているポイントは、実はそこではない。
二度目のアンコールの最後、23曲目に「サヨナラBABY」を歌う前に、鈴木圭介はこう言ったのだ。
「今日ここに来てくれたみんな。来れなかったみんな。それから、天国に行っちゃった人。届くといいなと思って、歌います」
「天国に行っちゃった人」というのは、この5カ月前に亡くなった、坂西伊作のことである。
1980年代から、日本のミュージック・ビデオの礎を築いた映像ディレクターで、エレファントカシマシ、矢野顕子、THE STREET SLIDERS、岡村靖幸、渡辺美里などの、数々の作品を手掛けた人物。その後、1994年から2002年まで存在した、アンティノス・レコードのボスだった人でもある。アンティノス時代のフラカンの面倒を、最後まで見た人であると同時に、最終的にフラカンの契約を切った責任者でもある、ということだ。
アンティノスを離れたあとは、フラカンのライブ、伊作さんは一回ぐらいしか観ていなかったと思う。僕もあえて誘わなかった。でも、今年の野音は絶対に観に来てもらうつもりだった。自分たちの力で建て直したフラカンを、あなたに絶対に観てほしかった。間に合わなかったな──。
彼が亡くなった時、そのような追悼文を、圭介はバンドの公式ブログにアップした。が、当日のステージでは、そのような詳細には触れず、簡潔に「それから、天国に行っちゃった人」と、ひとこと足しただけに留めた。それが大正解というか、すばらしいと思ったのだった。
その5年半後、『消えぞこない』のためのインタビューで、そのことを訊いたところ、グレートマエカワ曰く、「鈴木とは違って、俺は伊作さんに『ライブ来てよ』って言っとったの」。
アンティノスを離れたあとも、年に一回ぐらいは偶然会うことがあって、その度にそう言ったが、「まだ行かねえよ。おまえらが野音あったら行くよ」と言われていたそうである。
その2009年以降、フラワーカンパニーズの重要なライブの時は、楽屋に坂西伊作の写真が置かれるようになった。何度も行っている日比谷野音の時もそうだし、一度目の日本武道館の時もそうだ。2025年9月20日土曜日に行われる、10年ぶり・二度目の日本武道館のワンマンの楽屋にも、置かれるのだと思う。
なお、その2009年10月17日の日比谷野音のレポも、探したら、私、書いていました。
こちらです。
プロフィール
兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(月一回)、ウェブサイトDI:GA
ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二〜三回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。