兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』

第十四話:2025年と2001年、ふたつの時代のRIP SLYME(後編)

月2回連載

第28回

illustration:ハロルド作石

メジャーデビュー25周年の記念日である2026年3月22日(日)までの約1年間、PESとSUが戻って5人で活動すること、それが終わったら活動休止に入ることを発表したRIP SLYMEが、春夏秋に出演する多数のフェスの一発目=2025年5月5日(月・祝)、4日間開催の最終日である、JAPAN JAM @ 千葉市蘇我スポーツ公園でのライブのことを、前編では書いた。

そして、この後編では、今から24年前、2001年8月5日日曜日。ROCK IN JAPAN FESTIVALに初出演した時のRIP SLYMEについて書きます。次回に続く。と締めたのだが、その前に、ひとつ書きたいことが。

前回の原稿を書いた直後、RIP SLYMEが春夏秋に出演する、多数のフェスの2本目=東京都・海の森公園で行われた、5月10日(土)METROCK 2025の1日目でのステージも、観に行ったのだ。

前編で、5月5日(月・祝)のJAPAN JAMでのステージのことを、「『RIP SLYMEのライブ、こんな感じだったっけ?』『こう動いてこうラップするんだっけ?』『こういう気持ちでやるんだっけ?』と、探りながらステージに立っているように、僕は感じた」とか、「8年ぶりのステージだった今回は、さすがに最高点のステージにはならなかったが、これ以降、何本かフェス出演を重ねていくうちに、エンジンがかかってくる、という側面もあるんだろうな、という予測もできる」とか書いたもんで、ならばその次の二回目・5日後はどうなっているか、確かめたくなったのだった。

RIP SLYMEの出番は、4つあるステージのうちのRED SUNSHINEのトップ、朝10:25スタート。セットリストは、持ち時間の関係だろうが、JAPAN JAMの時から「SLY」と「黄昏サラウンド」を削った8曲だった。 で。二回目でもう? いきなり? と言いたくなるくらい、良くなっていたのだ、ライブ・パフォーマンスが。「8年ぶり」と「5日ぶり」ではこんなに違うものか! と驚いたが、そりゃまあそうよね、違って当然ですよね。

3曲目の「JOINT」を終えたタイミングでの最初のMCで、DJのFUMIYAが最初に挨拶し、「SAY HO!」コールを一度だけ呼びかける、そしてRYO-Zがすぐ引き取る──というのがJAPAN JAMの時の流れだったが、今日はFUMIYAのあと、PES→SUさん→ILMARI→RYO-Zという順番で、そのまま「ひとこと言ってSAY-HO!」を続けた。

同時刻の真裏のアクトが、新しい学校のリーダーズだったのを受けて、SUさんは、「こんにちは、古い学校のリーダーズです」と挨拶。メンバーが口々に「確かに」とか言っているのが可笑しかった。よく知られているように、新しい学校のリーダーズの名前の元ネタは、バスタ・ライムス等が在籍したLeaders of the New Schoolだし、「Old School」ってヒップホップ用語なので(というよりダンス・ミュージック用語か)、RIP SLYMEが自分たちのことをそう呼んでも、おかしくないし。

とにかく、今後がどんどん楽しみになる充実っぷりを早くも見せる、現在のRIP SLYMEなのだった。雨の中早起きして行ったかいがあった。しかもRIP SLYMEの途中に、雨、止んだし。

あ、あと、衣装。JAPAN JAMの時は、メジャーデビュー当時と同じオレンジのツナギ姿だったが、この日はアースカラーのセットアップ。全員同じ色だが、丈が長い人も短い人もいれば、前がボタンの人もジッパーの人もいる、という、ひとりずつ形が違うやつでした。

ちなみに、その次のフェス出演=5月17日(土)『MEET THE WORLD BEAT 2025』@大阪・万博記念公園もみじ川芝生広場は、僕は行ってはいないが、写真を見ると、全員紺色のセットアップだった。毎回変えるのかな。

なお、RIP SLYMEは、7月16日(水)にベストアルバム『GREATEST 5』をリリースすることを発表。5月19日(月)には、RYO-Z、ILMARI、PESの3人で、TOKYO-FMの『Skyrocket Company』(マンボウやしろの番組)に出演。「どON」に続く新曲「Wacha Wacha」を、5月28日(水)の配信リリースに先駆け、オンエア解禁した。

というわけで、本題に入ります。2001年8月5日日曜日14時45分、RIP SLYMEがROCK IN JAPAN FESTIVALに初出演した日のことである。

この時、ROCK IN JAPAN FESTIVALは、開催2年目。1年目は1ステージ・土日の2日間で行ったが、2日目に台風が直撃。強風でステージの屋根が剥がれ、7アクト中の5アクト目までで、途中終了になった。

2年目は、2ステージ・3日間開催、と規模を拡大し、かつ、一回目の大トリで人生初のライブを行うはずだったが、叶わなかった中村一義(デビューから数年間は「ライブはやりません」と公言しているアーティストだったのだ)を、3日目の大トリに据え、1年目のリベンジを果たす構えだった。で、実際、無事リベンジを果たせたのだが。

当初、RIP SLYMEは、ブッキングされていなかった。彼らのメジャーデビュー・シングル「STEPPER'S DELIGHT」が出たのが2001年3月22日で、メジャー・ファーストアルバム『FIVE』は2001年7月25日、フェスの11日前である。

推測だが、このフェスのブッキングをしていた時期においては、まだ候補に上がる存在ではなかったのだと思う。その年の、他の出演者の顔ぶれを見ても、「デビューしたばっかりです、僕たち」って人、いないし。

しかし。開催直前になって、3日目に出演するはずだったsugar soulがキャンセルになり、ピンチヒッターとして、急遽RIP SLYMEの出演が決まったのだった。

「STEPPER'S DELIGHT」と次の「雑念エンタテインメント」、シングルを2枚リリースした段階で、RIP SLYMEの人気は、すごい勢いで上がっていた。こんなに早いとは。こんなことになるんなら、RIP SLYMEをブッキングしておいてもよかったのに。 と、僕ですら思っていたぐらいなので、推測だが、「空いてしまった……そうだ、RIP SLYMEだ!」ということに、なったのではないか。

って、さっきからなぜ何度も「推測だが」と書いているのかというと、当時、自分は、ROCK IN JAPAN FESTIVALの会社の社員ではあったけど、ブッキングとかには無関係な立場だったので、事情を何も知らないからです。

じゃあ何をしてたんだっけ、現場で。思い出した。DJブースのブッキングと、そのDJさんたちのお世話だ。ウィキにも載ってないけど、2001年にもあったのです、100人くらいでいっぱいになる、ちっこいテントのDJブースが。

その前後の時期、僕はBUZZという雑誌のクラブイベント「BUZZ NIGHT」というのをやっていたせいで、そこに出てもらっているDJや、自分が夜中の渋谷や下北沢や三宿で知り合ったDJたちをブッキングして、当日は彼らのレコードを台車で運んだりしていたのだった。

確か、そのDJたちの中に、サニーデイ・サービス解散後・ソロデビュー前だった曽我部恵一や、ロック・バンドElectric Glass Balloonのボーカル&ギターからDJのSUGIRUMNになって2〜3年経った頃だった、杉浦英治もいたと思う。

話がそれた。戻します。

とにかくそんなわけで「RIP SLYME、ブッキングしときゃよかったのに」とか無責任に思っていたもんで、急遽決まった時は、「やった!」と喜んだのだった。RIP SLYMEサイドにとっても、こんなの、出ない手はないと思う。しかも、ふたつあるステージのうちのでかい方だし。

ただ、今考えると、けっこう怖いですよね、これ。デビューしたばっかり、ファーストアルバムが出た翌週に、ウン万人単位のでかいステージ。チケット、完売してはいなかったので、RIP SLYMEの出演を知ってチケットを買ったファンがゼロだったとは言えないが、いかんせん直前だったし、最初から自分たち目当てでフェスに来たファンは、ほぼいない感じだったのでは、と思う。

RIP SLYME、最近ラジオとかでよく曲を聴くな(インターネットはあったが、サブスクはもちろんYouTubeすらまだない時代だ)、ちょっと観てみようか、みたいな人たちがほとんどだったのではないか、と思う。現に、始まる前の段階で、GRASS STAGEの前に集まっている人数は、決して多くなかった。

そこへRIP SLYMEが登場して、どうなったか。

ガッサーッッッ!!!

と、全部持って行ったのだ。1曲進むごとにステージ前の人数増える増える、拍手も歓声も黄色い悲鳴もどんどん大きくなっていく。まさに熱狂が渦になっていくあの感じ、今思い出しても、「それ以降、他の誰かのライブで、観たことある?」と問われると、「……いや、思い当たらないです」としか言えない。

どんどん増える人たちが、おもしろいようにRIP SLYMEに呑まれていく。いや、「人たちが」じゃなくて、自分もだ。

曲いい、ラップ素敵、キャラかわいいしかっこいい、そして楽しそう、でも不敵、そして何を考えているのかわからない怖さもある。そんなひとりひとりのラップが、動きが、トラックが、いちいちこっちの耳を目を、ぐっとつかまえていく感じ。

うわあ。なんかすごいことが起きてる、今、目の前で。歴史的な瞬間にいるんじゃないか、俺は。と、むやみに興奮したのを憶えている。

あと、今になって気づいたんだけど、ファーストアルバムが出た直後だった、ということは、「One」も「FUNKASTIC」も「JOINT」も、「熱帯夜」も「楽園ベイベー」も「SLY」も、まだないということよね。あたりまえだけど。

出たばかりのファースト・アルバムの曲と、インディーズ時代の曲だけで、あの「ガッサーッッッ!!!」っぷり。すごい、としか言いようがない。

簡単に言ってしまうと、勢いがあったんだと思う。前編にも書いた、自分たちが狙って出せるもんではない、とんでもない最高点のステージが、出まくるようになっている時期だったんだと思う。だから、あの時期から数年間のRIP SLYMEは、あんなに破竹の勢いで勝ち進んで行ったんだと思う。

その日のセットリスト、ネットで探したら、あった。間違いなく事実です、という裏付けはないが、一応書いておきますね。

1 STEPPER’S DELIGHT
2 FRESH
3 BLOSSOM
4 運命共同体
5 (I Cluld Have)Danced All Night
6 白日
7 ジャッジメント
8 雑念エンタテインメント
9 OUTRO

「白日」はインディーズ時代の曲で、それ以外は『FIVE』からの曲だったのか。とは言え、このステージに立ったのは、何度も言うが、『FIVE』が出てから11日後。これも何度も言うが、RIP SLYME目当てでこのフェスに来た人は、ゼロとは言わないが、限りなく少なかったはずだ。

それであの「ガッサーッッッ!!!」。しつこく何度も言うが、すごい。としか、言いようがない。

ベストアルバムかなんかのタイミングだったっけ、この時から何年も経ってから、RIP SLYMEの5人に、活動の歴史をふり返る的なインタビューをした時、この2001年のROCK IN JAPAN FESTIVALの話も、振ってみた。

あれ、もうほとんど神がかってましたよね。アウェイの状態からあんなことになるなんてねえ。すんごい手応えあったでしょ──みたいなことを言ったら、「いやいや」とか謙遜していたが、でも「確かにあの時は手応えあった」と、RYO-ZもPESも言っていたのを憶えている。

フェスで3回ライブをやってみて、だいぶいい感じにあったまってきた。全部思い出した、もう追いついたから次の段階に行こうかと。だから、3本目で、もう曲順とか変え始めた──。

先に書いた、5月19日(月)に出演したTOKYO-FM『Skyrocket Company』で、3人はそんなことを言っていた。

次に観るのがもう大変に楽しみである。今後RIP SLYMEが出る春夏秋のフェスのスケジュールを見ると、「これ、例年なら俺行けるやつだな」というのが、何本かあるし。10月になってツアーに入る頃には、きっと、もうえらいことになっているだろうな、と思う。

プロフィール

兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(季刊)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。
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