兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』
第十五話:初めてサザンのライブを観たのは1985年1月(後編)
月2回連載
第30回

illustration:ハロルド作石
前回の続き。
1984年のアルバム『人気者で行こう』のリリース・ツアー『大衆音楽取締法違反“やっぱりアイツはクロだった!”実刑判決2月まで』の広島公演、1985年1月9・10日広島郵便貯金会館。そのどちらかの日に行って(どちらだったかは憶えていない)、このツアーで初めて人前で演奏された「ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)」を生で聴いた。という話です。
まず、自分が初めて生で観たサザンオールスターズのライブは、それはもう最高だった。で、それ、今思うと、「初めて生の、生きて目の前で動いているサザンを! 桑田を観ている!」という喜びも大きかったが、もうひとつ、思い当たることがある。
新しいものを、今、自分は観ている。新しい音楽を、今自分は生で聴いている。いう興奮が、とてもあったのだ。
なんで。そもそも『人気者で行こう』が、そういうアルバムだったからだ。新しいものや、まだ手を伸ばしていないものを、取り入れている音楽作品だったからである。
このアルバムに限らず、サザンには常にそういう、新しい音楽に対して貪欲なところがあるが、このアルバムは特に、それが顕著に出た作品だったように思う。そういう曲が目の前で演奏され続け、歌われ続けるんだから、そりゃあこっちは「うわ、新しい!」ってなりますよね。
あのアルバムの感じ、具体的には、なんて言えばいいかしら。と思いながら、Apple musicの『人気者で行こう』のページの解説を読んだら、「80年代中盤という時代性を感じさせるデジタルファンク色を前面に押し出した本作は──」と書いてあって、「そう、それ!」となった。
デジタルファンク。そうか、そういう言葉があったのか。当時あったっけ、なかったっけ。
それは憶えていないが、このアルバムがリリースされた1984年というのは、ロック・バンド界隈にデジタル化の波が押し寄せ始めた頃だったことと、それが『人気者に行こう』にも反映されていることは、憶えている。これは「今思えば」じゃなくて、当時もそう思いながら聴いていた。
「デジタル化」と言っても、いわゆる打ち込みのバック・トラックを使ってライブをやることが普通になる、その前の段階の「デジタル化」である。演奏は生なんだけど、その生で弾く楽器の音がデジタル化していく時代、という。
当時の洋楽で言うと、そうね、たとえば、デュラン・デュランのアンディ・テイラーとジョン・テイラーが、シックのトニー・トンプソンと、ロバート・パーマーと作ったバンド=パワー・ステーションの音の感じが、わかりやすいその例です。と、言えると思う。
シモンズが発売したエレクトリック・ドラム(C-C-Bのドラム&ボーカルの笠浩二が叩いていたあれです)が大ヒットして、他のメーカーも次々とエレドラを発売した。
それから、ヤマハのDX-7というシンセサイザーが売れまくった。確か、当時で20万円以上という、高校生が買うにはハードルが高い値段だったので、DX-7があるレンタルスタジオを探して行く、という現象が起きた。日本中で起きていたかどうかは知らないが、少なくとも僕がいた広島ではそうでした。
あと、自分がサンプラーというものを知ったのも、この頃だった。確か、サザンを観た翌年、爆風スランプが広島東区民文化センターに来た時のことだ。
ファンキー末吉が、シモンズのキック・スネア・タムの各パッドの音を動物の鳴き声に設定して(それぞれに犬や猫の絵が貼ってあった)、それでドラムソロを叩きまくる、「ワン!」「ニャー!」「モー!」の乱れ打ちで、客席大爆笑&大拍手。というさまを目撃して、たいそうびっくりして、次にヤマハのドラムスクールに行った時に、先生にその話をしたら「ああ、サンプラーにつないだんじゃね」と言われて、初めてサンプラーというものの存在を知ったのだった。
話を戻して、ほかの楽器で言うと、スタインバーガーという長方形のベースが登場したのもこの頃だ。それまでのベースやギターの形や素材の常識を打ち破った存在で、これもすごく「未来!」という感じがした。関口和之も、当時これを弾いていたような記憶がある。
あ、ベースと言えば、シンセベース(鍵盤で弾く、いかにもシンセな音のベース)が一般的になったのも、この時代だったのでは、と思う。
で。そんなアルバム『人気者で行こう』の中においても、特に「ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)」は、まさにその結晶みたいな楽曲だったのである。
モロにシモンズなエレクトリック・ドラムの音だし、ルート弾きのシンセ・ベースだし、原由子の弾くイントロのあのフレーズも、DX-7ではないと思うが、当時のシンセのキラキラした音色だし、サビのギターにかかっているエフェクトも、まさにこの当時の感じだ。
そして、歌詞。そのような、時代の最先端な音にのせて桑田佳祐が歌うのは、1980年代中盤の日本を生きる人に対する、「こんな時代に乗っかってていいの?」という違和感だ。というか、時代そのものに対する違和感でもある。
これも、「今になってみると」ではなく、当時初めて聴いた時にも、そう感じた。田舎の高校1年生が聴いてもわかるくらい、はっきりと、強く、そう歌われているので。
「ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)」というタイトルで、女性に歌いかけているスタイルを取っているが、もちろん女性に対してだけ言っているわけではない。
いわゆる「バブル」と呼ばれた好景気は、正確にはこの2年くらい後からだが、この頃からすでに、日本の世の中はそういう方向に走っていた。景気が上向きになっていくと同時に、どんどん物質主義で消費主義主義になり、何かが流行れば右に倣えで、世の中でいいとされる新しいものを信じてカネで手に入れて、それが素敵な生き方であることを疑わないような。
それでいいの? 大丈夫なの? なんかおかしくない? このまま行くとえらいことにならない? ということを、かなりシニカルに、アイロニカルに歌ったのが、この曲だったのだ。
つまり。「みんなのうた」や「希望の轍」のような、ライブでみんなでサザンと一緒に大合唱するのがしっくりくる、それはもう大変盛り上がる、みたいなカラーの歌ではないのである。
1984年に、その時代の最先端の技術とセンスを結集して作られた音と、その時代の日本に最先端にいた人々を描いた歌詞からなる楽曲が、そうでありながら、いつまで経っても輝きを失わない普遍性を持つように作られている、と思う?
そんなわけないでしょ。桑田佳祐本人も、そんなこと、考えていなかったと思う。今の新しい音が刺激的で興味があるから、自分もやってみたかったんだろう。で、今の時代を描くことが、(現在でもそうであるように)桑田にとって、自然なことだったんだろう。
そんな、言うたら、時代の仇花みたいな存在だった曲がですよ。リリースから41年が経つ今も、ライブ後半のピークのタイミングで演奏されて、数万人のオーディエンスがそれに合わせて叫ぶように歌う、そんなことになるなんて、僕は想像できなかった。
1985年1月の広島郵便貯金会館の時も、この曲でそんなシンガロング、起きていなかったと思う。時代的に、今と比べて「ライブでみんな一緒に歌う」のが一般化していなかったことや、出たばかりの新しい曲だったのでまだおなじみになっていなかった、ということもあるだろうが、「そもそもみんなで大合唱するような歌詞じゃない」という感覚も、オーディエンスの中にあったのではないか。
だから今、ライブの現場で、自分もこの曲を歌いながら、ちょっと不思議な気持ちになるわけです。軽い違和感を抱くわけです。ただそれ、イヤな違和感ではないけど。逆になんか痛快というか、おもしろいというか、この曲をこの人数みんなが歌っている感じが、楽しくなるんだけど。
現在、この曲が、ユニクロのコマーシャルで使われているのも同様で、聴くと愉快な気持ちになる、何か。歌詞の内容が、ユニクロに限らず、何かを宣伝し、売るための、コマーシャルというもの自体に、まったく合っていないので。
いくらサザンとは言え、出演もしているとは言え、よく通ったな。もっと、コマーシャルでかけても違和感がないような歌詞のヒット曲、サザンには何曲もあるでしょうに。
サザン側が「今、この曲を使ってください」とアピールするとは思えないので(そんな理由ないし)、クライアント側が、この曲を使いたかったんだと思う。
なぜ使いたかったのかは知らないけど、ただ、ユニクロのような巨大企業が、そのような、「歌詞がCMにふさわしくない? いいじゃんそんなの」みたいな判断をしたこと自体には、何か、好ましいものを感じます。
って私、この曲の起用がどんなふうにして決まったのかとかの、裏の事情は何も知らずに書いていますが、書いていて、ひとつ思い出した。
この曲がヒットした1980年代の半ば、僕が住んでいた広島には、ユニクロ、もうあったのよね。山口県の企業で、広島から近かったからだと思うけど。
当時は、ユニクロという省略形ではなくて、ユニーククロージングウェアハウスという店名でした。テレビでばんばんCM流れてました、ローカルの深夜帯だけど。
どの服も衝撃的に安かったので、カネのない高校生としては重宝したが、この「ミス・ブランニュー・デイ」の主人公のような女性は、間違っても行かないお店だった。当時はDCブランドブームの全盛期だったので、そういう素敵でお高いお召し物を買い漁っていたんだと思う、「ミス・ブランニュー・デイ」さんのような方は。
そうか、そういう意味でも、今ユニクロのコマーシャルの曲になっているのは、痛快なことなのかもしれないですね。
書いていて、もうひとつ思い出した。
このアルバム、このツアーの当時、桑田佳祐はニッポン放送『オールナイトニッポン』の火曜一部を担当していた。25:00から27:00まで。
もちろん毎週聴いていて、関口和之が登場する「ムクちゃんの『おまえを殺す』コーナー」が特に好きで、そこに投稿して二度読まれたこともある。
その『桑田佳祐のオールナイトニッポン』に、ある日、「『ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)』は、アントニオ猪木の入場テーマ曲『炎のファイター』のパクリでは?」というハガキが送られて来た。あの「♪猪木、ボンバイエ」の曲ね。
「えー? 何これ? そんなことないよお」などと言いながら、「じゃあ、試しに聴いてみる?」と、その2曲を続けてかけて、聴き終わった時の、桑田の第一声。
「ほんとだ! 似てる!」
「炎のファイター」の主旋律の「♪ターターター、ターターターター」とホーンで奏でられるところと、「ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)」のサビの「yes I know, she’s right on time」のところである。
まあ確かに言われてみれば「yes I know,she’s right」までは同じだが、「on time」のところから異なるメロディになる。
重なっているところ、ほんのちょっとよね、この小節数でパクリとか似ているとか言うのは無理があるよね。
と、ラジオを聴いているこっちは思ったが、桑田は「ヤバいなあ、似てるよお、普段から(プロレス中継を観て)すごい聴いてるから、無意識に出ちゃったのかなあ?」と、慌てていた。
で。そんなハガキを選んで読んで、わざわざ両方の曲を並べてかける、ということをするこの番組の姿勢に、改めて好感を持ったのだった。
余談ですが、この曲、もともとはモハメド・アリの伝記映画『アリ/ザ・グレーテスト』の挿入歌である「Ali Bombaye」を改作したもので、1976年にアントニオ猪木がモハメド・アリと行った異種格闘技戦で交流が生まれ、友情の証としてアリが猪木にプレゼントした──という定説は、プロレスファンの間で、よく知られている。
で、「炎のファイター INOKI BOM-BA-YE」のシングル盤が出た時に、この曲になかにし礼が詞を付けて、「いつも一緒に」というタイトルにして、倍賞美津子が歌っている歌ありバージョンがB面に入っていたことも、一部のプロレスファンの間では知られている。僕も知っていた。聴いたことがある。「♪いつも一緒なの 愛があるから」という歌い出しのやつ。
今、インターネットの海で探したらあっさり見つかって、聴き直して、「おお、これこれ」となったが、初めて聴いた当時は、もちろんネットなど存在していない。どこかの誰かが放送でかけたのを聴いた、その可能性しかない。
どこで聴いたのか、誰がかけたのか。全然憶えていないが、自分が当時よく聴いていた番組を考えると……当時は『オールナイトニッポン』の一部は月曜から土曜まで全部聴いていたが、ビートたけしや中島みゆきや山口良一がかけるとは思えない。
NHK-FMの渋谷陽一の番組もよく聴いていたが、そこでかかるわけがない。西田篤史の番組をよく聴いていた、地元広島のRCCラジオでかかる可能性も、まあ、ないだろう。
というふうに、消去法で考えていくと、『桑田佳祐のオールナイトニッポン』でかかったのではないか。という気が、どんどんしてきた。
かけました? 桑田さん。憶えてねえよ、そんな40年以上前の話。
なお、このレコード、僕はいまだに入手できていないが、それの元になった「Ali Bombaye」が入っている『アリ/ザ・グレーテスト』のサントラ盤は、20年ぐらい前に中古盤屋で掘り出して、今でも持っている。DJをやる時にかけて、大いにスベったりしました、何度か。
プロフィール
兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(季刊)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。
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