兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』
第二十六話:1996年の曽我部恵一と1997年の永積崇(前編)
月2回連載
第51回
illustration:ハロルド作石
才能ってなんだろう。
と、考えることが、昔も今も多いのは、自分が音楽ライターという仕事をしているから、ではなくて、音楽に限らずなんらかのエンタメを好きな人なら、みなさんそうなのでは、と思う。
自分が誰かのことを「才能ある」と思う時、何に対してそう思うのか。その人の作品の、どういうところにそう感じるのか。逆に、才能がないというのはどういうことなのか。
前回に書いた、ウルフルズのファースト・アルバム『爆発オンパレード』の1曲目「ハッスル」という曲には、〈やれること たかが知れている 才能よ ないならないで 大笑い〉というラインがあって、トータスがそこを歌うと「しょーがない!」という誰かによるシャウトが入っているのだが(誰の声なのかいまだに知らない。この曲、ガヤみたいな声がいっぱい入っているのだ)、このアルバムがすんごい強く心に響いた理由のひとつが、そこだったりもする。
働き始めて1年くらい経った時で、仕事としてプロの音楽に接するようになっていたこと。あと、その1年の間に、己の仕事のできなさ、特に文章を書く能力の低さを、日々思い知らされていたこと。そのふたつによって、「才能とは」とか「能力とは」とか「向き不向きとは」みたいな命題を突きつけられることが多かった時期だったのだろう。
そんな時に、ロック・ミュージシャンという、才能のあるなしがもっとも重要であるはずの職業の人たちが「ないならないで大笑い」「しょーがない!」と豪快に歌っていることに、とてもショックを受けたんだろうな、俺は。と、思う。
ただ、はっきり言えるのは、運動神経が鈍い奴がどんなに努力しても、何も努力していない生まれつき運動神経のいい奴にはかなわないように(小中学校で思い知りました)、音楽の才能も、かなりの部分は、生まれ持ったもの、先天的なもので決まるんだろうなあ、ということだ。楽器演奏もそうだけど、特に、作曲をする能力と、歌を歌う能力は。
たとえば。前にこの連載でも書いた(第十一話)、1993年9月21日に下北沢SHELTERで、初めてフラワーカンパニーズを観た時。まだアマチュアだった鈴木圭介は、すでに、あの鼓膜をつんざくような、それでいて一言一句がはっきり脳に飛び込んでくるような、とんでもない声で歌っていた。
もうひとつたとえば、これも前にこの連載で書いたが(第四話)、ユニコーンの前のバンド=それまでギターだったのが初めてボーカルをやった、READYを始めて間もない頃だった奥田民生19歳は、歌い始めてさして経っていないにもかかわらず、その段階でもう、あの奥田民生の声と節回しと抑揚で歌っていた。
つまり、両者とも、練習したりライブで経験を積んだりする前の段階で、言わば「ナチュラル・ボーン・ボーカリスト」な歌を、あたりまえに歌える状態だったわけです。
書いていてもうひとつ思い出した、奥田民生に関して。当時、彼はスタジオスズヤの早番(朝から夕方まで)のアルバイトをしていて、僕はそこに意味なくたむろする高校生だった、そんなある日。
僕は、新しくバンドを作ったばかりで……これも、この連載に書いたな。第九話=有頂天と筋肉少女帯と人生の回に出てくる、一緒に有頂天を観に行った子と組んだけど、ライブ一回でやめたバンドです。この連載、書けることはもうとことん書き尽くしているんだなあ、と自覚しました、今。
話を戻す。僕はそのバンドを新しく作ったばかりで、店番中のOT氏に、「READYの『PLEASE』コピーしていいですか?」と許諾を求めたり、「他に誰の曲やろうかなあ、このメンバーで演奏しやすいのどれかなあ」「せっかく英語しゃべれるんだから洋楽のコピーがいいかもなあ」などと、ぶつぶつ言っていたら、「曲作りゃあええじゃんか」と言われたのだった。
「え?」「おまえが作りゃあええじゃん」「いやいや、できませんよ」「誰でも作れるって、適当にコード弾いて歌えば。おまえ鍵盤も弾けるんじゃろ?」とOT氏、傍らにあった店長のギターを手に取ると、ジャカジャカ弾きながら、適当に鼻歌で歌い始めた。
それだけでもう、ちゃんと、あの当時の奥田民生の曲になっていたのだ。当時なので、ユニコーンのファースト・アルバムに入っているような感じの曲である。
人生で初めて、天才を目の当たりにしたのがその時だった、と言ってもいい。度肝を抜かれた。で、「うわあ、こういうのを天才って言うのか。無理、俺には」と思った。
当時のOT氏は、まだ、ユニコーンに入ったか入っていないかくらいで、プロでもなんでもなかったが、そんなこと関係なく、本当にそう思ったのを、よく憶えている。言うまでもないが、ご本人は、絶対に憶えていないと思う。
とにかく、そのことがあって、世の中には曲を書ける人と書けない人がいる、歌を歌える人と歌えない人がいる、それはもう先天的に決まっている、と思うように、自分はなった。それまでに、曲を書こうとトライしたことは何度かあったが、非常に苦労した末に、「うん、あんまり良くない」と自分でもわかるような曲しか、書けなかったし。
ただし。当分の間はそう思っていたが、のちに、歌を歌えなかった人、もしくは曲を書けなかった人が、歌えるように、書けるようになることも、場合によってはあるのではないか──というふうに、だんだん考えるようになっていった。
で、それは、一所懸命努力したことや、ライブ経験を重ねたことによって、というのもあるだろうが、それ以上に、「意識が変わった」とか「何かに気づいた」とか「考え方が新しくなった」というような、脳内の変化によって、そうなることの方が、多いのではないか。
たとえば、楽器が弾けないので、どうやって曲を書けばいいのかわからなかった人が、パソコン上で曲を作れるソフトが普及したことで、曲を作れるようになった、というようなケースも、そこに入るのかもしれない。
そう考えるようになったのは、1990年代に、具体的なそういう例を、ふたり、目の当たりにしたからだ。
ひとりは、曽我部恵一である。僕がステージ上の彼を観たのは、最近だと、宮城の『ARABAKI ROCK FEST.』の2日目=4月26日のトリ、『MICHINOKU PEACE SESSION GTR祭’26』。
ホスト・バンドはPaleduskとThe Birthday+高野勲+うつみようこ+竹安堅一(フラワーカンパニーズ)で、前者が3割ぐらい、後者が7割ぐらい、バックを務め、ゲスト・ボーカリストとゲスト・ギタリストが1〜2曲ずつ、入れ替わり立ち替わり出て来る。
布袋寅泰、DURAN、松尾レミ(GLIM SPANKY)、菅原卓郎(9mm Parabellum Bullet)、TAKUMA(10-FEET)、ホリエアツシ(ストレイテナー)、山田将司&菅波栄純(THE BACK HORN)、TOSHI-LOW&KOHKI(OAU/BRAHMAN)、再び松尾レミ、宮崎朝子(SHISHAMO)、と来て、本編の最後に曽我部恵一が登場。サニーデイ・サービスの「ここで逢いましょう」を歌った。ものすごい声の通り方の、すさまじい歌いっぷりだった。
なお、アンコールのほぼ全員セッション「ドカドカうるさいR&Rバンド」(RCサクセション)にも、曽我部は参加したが、その、すべてを突き抜けてどこまでも声が飛んで行く感じは、これだけすごいボーカリストたちが集まった中にあっても、群を抜いていた。つくづく、とんでもないボーカリストだと思う。
ああ、やっぱりこの人、ライブは不向きなんだな。苦手なんだな。まあ、だったら無理にやらなくてもいいか。音源だけで勝負していく、というのも、バンドの闘い方としては、ありよね。
自分が初めてサニーデイ・サービスのライブを観た時、そう思ったことが、信じられない。
1996年4月24日。セカンド・アルバム『東京』のリリース後に、渋谷と大阪のクアトロで行った、リリース・ワンマンの東京編である。
次回に続く。
プロフィール
兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMINOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(季刊)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二回)。6年ぶりの著書「ウルフルズ『バンザイ』ザ・インサイド・ストーリー」、リットーミュージックより発売中。全320ページ、2,500円+税です。みなさまぜひ。
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