川本三郎の『映画のメリーゴーラウンド』
『かくも長き不在』のジュークボックスの話から…山田洋次監督の『虹をつかむ男』と『遥かなる山の呼び声』、ともに『かくも長き不在』につながる作品です。
隔週連載
第44回
ジュークボックスが印象的に使われた映画にマルグリット・デュラ脚本、アンリ・コルピ監督の『かくも長き不在』(1960年)がある。日本公開は1964年の夏。東京オリンピックのあった年で、このころから日本でもジュークボックスが普及している。
アリダ・ヴァリ演じる主人公のテレーズ・ラングロワはパリの西郊ビュトーで小さなカフェを営んでいる。カフェにはジュークボックスが置かれている。レコードの入れ替えの場面があるからレンタルのものだろう。
ヴァカンスで人が少なくなった夏のある日、テレーズは、町を歩く中年の浮浪者(ジョルジュ・ウィルソン)に気付き、胸騒ぎがする。戦時中にナチスに連れ去られ収容所に入れられ、そのまま戦争が終わっても帰ってこない夫のアルベールによく似ている。しかし、確証はない。
浮浪者に話しかけてみて、記憶喪失であることを知る。戦争後遺症か。当然、テレーズが誰か分からない。
十年以上、夫の帰りを待っているテレーズはこの浮浪者のことが気になって仕方がない。戦争によって引き裂かれた夫ではないのか。
テレーズはある試みを思いつく。
一日、ジュークボックスに、かつて夫が好んで聴いていたオペラのレコードを何枚か入れる。そして浮浪者をカフェに招き入れ、レコードをかける。
流れてくるのはロッシーニ『セビリアの理髪師』のアリア『蔭口はそよ風のように』。浮浪者は一瞬、懐しそうに聴き入るが、それ以上の反応は示さない。
夫ではないのか。別の日、テレーズは今度は浮浪者を食事に誘う。店は休業にし、二人だけになる。ジュークボックスから今度は、やはり夫の好きな曲だったのだろう、『セビリアの理髪師』のアリア『アルマヴィーヴァの歌』が流れてくる。
二人は椅子に並んでジュークボックスから流れてくる愛の歌を聴く。その姿をうしろからカメラでとらえる。まるでジュークボックスが劇場で、二人はそこで上演されているオペラを鑑賞しているようでこのシーンは美しく胸を締めつけられる。
次にテレーズはシャンソンのレコードをかける。その曲に合わせ、テレーズは浮浪者の手を取って踊り始める。
流れる曲は、この映画のために作られた『三つの小さな楽譜』。作曲はジョルジュ・ドルリュ。作詞は、この映画が1964年にアートシアターで公開された時のプログラムにある音楽評論家、蘆原英了の文章によれば、監督のアンリ・コルピ自身だという。歌っている歌手はコラ・ヴォケールで、ジャン・ルノワール監督の『フレンチ・カンカン』(1954年)で主題歌の『モンマルトルの丘』を歌ったので知られる。
テレーズは踊りながらふと手を浮浪者の頭のうしろにやる。頭に大きな傷跡があり驚く。この人は収容所でひどい目にあったらしい。
曲が終わったあと、浮浪者はなぜか逃げるように去ってゆく。