池上彰の 映画で世界がわかる!
『パニック・イン・ミュージアム モスクワ劇場占拠テロ事件』―背景にあるロシアとチェチェンの長い因縁関係
毎月連載
第34回
2002年に実際にモスクワの劇場で発生したイスラム過激派による占拠事件をベースにしたサスペンスですが、実際に起きた事件とは全く異なるストーリーになっていますから、注意が必要です。
実際に起きた事件は、イスラム過激派のチェチェン人武装勢力がモスクワ中心部の劇場を占拠し、観客900人以上を人質に取って立てこもったものです。彼らは、チェチェンに進駐したロシア連邦軍の撤退を要求しました。
武装勢力は自爆用の爆弾を身に着け、劇場の各所に爆弾を仕掛けて長期戦に備えます。占拠が起きたのは10月23日ですが、特殊部隊が突入して事件が解決したのは26日のことでした。この映画より、実際には長期の攻防があったのです。
映画とは異なり、実際の事件では、特殊部隊が“非致死性”のガスを使い、武装勢力の意識を失わせて劇場に突入。武装勢力全員を射殺し、人質を解放しました。
ところが、この際に人質118人が死亡するという大惨事になりました。しかし、人質は武装勢力の犠牲になったのではありません。特殊部隊が使用した“非致死性”のはずのガスで117人が死亡していたのです。
これが、どのようなガスであったのかなど詳しいことは発表されず、本当に“非致死性”なのか疑問が残ります。
また、観客と同じようにガスで意識を失い、無抵抗になっていた武装勢力のメンバーについて、特殊部隊がひとりずつ全員を射殺していたことが、後になってわかります。なんともやりきれない結末になりました。
この事件の背景には、ロシアとチェチェンの長い因縁があります。
チェチェンは、ロシア連邦南西のカフカス地方にあります。ロシア人とは人種の異なるチェチェン人は、その多くがイスラム教徒です。19世紀に当時の帝政ロシアによって併合されますが、併合に抵抗するチェチェン人との間で激しい戦争になり、これ以降、チェチェン人は反ロシア感情を抱くようになります。
ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)時代はソ連の一部でしたが、第二次世界大戦が始まると、当時の独裁者スターリンは、反ロシア感情を持つチェチェン人がドイツ軍の味方をするのではないかと疑います。なんとチェチェン人全員を内陸のカザフ共和国(現在のカザフスタン)に強制移住させるという強硬手段に出たのです。このとき故郷に留まろうとしたチェチェン人が多数殺害されています。
スターリンの死後、チェチェン人は故郷に戻ることを許されますが、ソ連政府への憎しみを抱き、独立志向を強めます。
1991年、ソ連が崩壊すると、これを好機と見たチェチェンは独立を宣言しますが、ソ連を引き継いだロシア連邦は、これを認めず、ロシア軍を進駐させて弾圧します。
とりわけ2000年に大統領になったプーチン大統領は、軍による大規模な攻撃でチェチェン人の抵抗を抑え込みました。
しかし、それ以後もチェチェンでは断続的に紛争が続いています。この問題を精力的に取材し、プーチン大統領の方針を批判する記事を書いていた女性の新聞記者が2006年に暗殺されるという事件も起きています。とりあえず“犯人”とされる人物が捕まっていますが、実際にはプーチン批判を嫌った黒幕の指示があったのではないかという疑惑が残っています。
ここで現実の事件から離れて、映画それ自体に関しては、チェチェン人武装勢力のメンバーと、人質になったキリスト教徒の歴史教師の論争がひとつの見せ場になっています。
この論争では、十字軍に抵抗したイスラム教徒のサラディンを英雄として描くなど、イスラム=悪という構図にならないような工夫もあり、キリスト教の三位一体の神学理論について太陽を例に説明するなど、歴史好きや宗教に関心のある人には興味深いものになっています。が、そうした論争を離れても、スリルあふれる作品となっています。あくまでフィクションとして楽しんでください。
掲載写真:『パニック・イン・ミュージアム モスクワ劇場占拠テロ事件』
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『パニック・イン・ミュージアム モスクワ劇場占拠テロ事件』
3/26(金)〜4/1(木)「未体験ゾーンの映画たち2021」 ヒューマントラストシネマ渋谷にて上映
4/24(土)、4/26(月)、4/28(水) 「未体験ゾーンの映画たち2021」シネ・リーブル梅田にて上映
配給:「パニック・イン・ミュージアム」上映委員会
監督・製作・脚本:アレクセイ・ペトルヒン
製作:ペトル・チェレンコフ、ベスラン・テレクバエフ
脚本:ドミトリ・チルコフ
出演:イリナ・クパチェンコ/イリナ・アルフェロヴァ/アンドレイ・メルズリキン/ミクハイル・エブラノフ/アナ・チュリナ/エレナ・ザクハラワ/イワン・ココリン/オレグ・タクタロフ/イゴール・ジジキン
プロフィール
池上 彰(いけがみ・あきら)
1950年長野県生まれ。ジャーナリスト、名城大学教授。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK入局。記者やキャスターをへて、2005年に退職。以後、フリーランスのジャーナリストとして各種メディアで活躍するほか、東京工業大学などの大学教授を歴任。著書は『伝える力』『世界を変えた10冊の本』など多数。