池上彰の 映画で世界がわかる!
『キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱』―女性差別と戦いながらも、ノーベル賞を2回受賞した初の女性科学者
毎月連載
第53回
なぜ「キュリー夫人」なのか。ノーベル賞を二度も受賞しながら、呼ばれるときは「キュリー夫人」。夫の姓で呼ばれ続けなければならないのか。
こんな疑問が出るようになったのも、女性というだけで差別を受け、「女は夫に従うもの」という常識がおかしいことに、最近ようやく気づく人が増えてきたからのことなのです。そんな女性差別の中で、マリ・キュリーは研究を続け、学界の不条理とも戦ってきました。そんな彼女の良き理解者がピエール・キュリーでした。
ピエールとマリのキュリー夫妻は、夫婦で放射能についての研究に没頭。創設されたばかりのノーベル物理学賞を夫婦で受賞します(1903年)。
夫の死後、今度はマリ・キュリーが単独でノーベル化学賞を受賞します(1911年)。
彼女はノーベル賞を受賞した初の女性物理学者であり、ノーベル賞を2回受賞した初の科学者です。その後、やはり2回受賞する人も出てきますが、全員男性。女性科学者で二度の受賞を果たしたのは、いまのところ彼女だけです。
科学の世界も男社会ですから、夫婦で最初のノーベル物理学賞を受賞したとき、マリ・キュリーは夫の助手のような役目を果たしたのだろうと思われていました。しかし、実は彼女が主導的な立場だったというようなことがのちに明らかになります。この映画は、その様子を見事に描いています。
マリ・キュリーのラジウム発見を受け、医学研究者達の研究で、がんの治療が始まります。いわゆる「放射線治療」です。腫瘍部分にラジウムを当てて、がん細胞を死滅させる、あるいは弱らせる。ラジウムの発見は、放射線による治療法を切り拓き、確立させました。ただし、いまは放射線治療にラジウムは使われていません。コバルトです。
レントゲンが発見したX線が体の中を透過する仕組みを利用すると、画像診断など医療に役に立てることができる。第一次大戦の負傷兵たちのために、その装置を大量につくって普及させたのも、またキュリーでした。
放射線についての危険性がわかっていなかった時代です。当時、ラジウムはある種の「夢の物質」で、なにかとてもいいクスリであるかのように思われていました。その結果、放射線はいろんなものを使うようになり、たくさんの健康被害が出ました。
キュリー夫妻は、ラジウムあるいはポロニウムなどの放射線を長年扱っていたことで、健康を蝕まれます。夫妻の後を継いだ人たちも、次々に放射線障害で死んでいきました。大変な負の面があったのです。
さらに放射能や放射線は、やがて広島や長崎に落とされる原爆で、一段と危険なものであることがわかります。
原子力の平和利用として開発された原子炉は「チョルノーブリ(チェルノブイリ)原子力発電所事故」を引き起こします。
マリ・キュリーは、帝政ロシアに占領されていたポーランドで生まれています。いまでこそポーランドという国はありますが、当時のポーランドは周辺の大国に占領されたり、勝手に分割されたりしてきました。マリはフランスに出てきても差別されるのです。
それでも能力は評価され、夫が亡くなった後に空席となった名門ソルボンヌ大学の教授に就任します。もちろん初めての女性教授でした。
しかし、研究でも私生活でも一緒だった夫キュリーが亡くなった寂しさからでしょうか、マリは研究仲間の後輩男性と恋に落ちます。ところが彼には妻子がいたため、大変なスキャンダルに発展します。「偉大な女性科学者」が一転、「ポーランドの性悪女がフランス人の家庭を壊した」と非難されるのです。いつの時代もマスコミとは非情なものです。
とはいえ、二度目のノーベル賞受賞によって、彼女の評価は再び高まり、科学史に名前を残す存在になるのです。
日本では、いまも女性の科学者が、女性であるがゆえに正当な評価を受けられにくいという現実があります。マリ・キュリーの生き方は、私たちにさまざまなことを教えてくれます。
掲載写真:『キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱』
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『キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱』
10月14日(金)より kino cinéma横浜みなとみらい他 全国順次公開
監督:マルジャン・サトラピ
出演:ロザムンド・パイク、サム・ライリー、アナイリン・バーナード、アニャ・テイラー=ジョイ
プロフィール
池上 彰(いけがみ・あきら)
1950年長野県生まれ。ジャーナリスト、名城大学教授。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK入局。記者やキャスターをへて、2005年に退職。以後、フリーランスのジャーナリストとして各種メディアで活躍するほか、東京工業大学などの大学教授を歴任。著書は『伝える力』『世界を変えた10冊の本』など多数。