池上彰の 映画で世界がわかる!
『戦地で生まれた奇跡のレバノンワイン』―まるで人間の人生のような奥深いワインをめぐる物語
毎月連載
第54回

ワインとは、これほどまでに奥深い飲み物だったのか。人間よりも歴史が古く、人間と神を繋ぐ存在。まるで人間の人生のような顔を見せる。この映画は、そんなワインをめぐる物語です。
舞台は中東のレバノン。日産自動車のカルロス・ゴーン被告が逃げ込んだ国と言えば、思い出す人もいることでしょう。2020年にはベイルート港で保管されていた化学物質が大爆発を起こし、数百人が死亡する惨事に見舞われました。

この事故もあり、現在のレバノンは燃料不足に食料不足が重なって、悲惨な状態が続いています。
シリアの西、イスラエルの北に位置するこの国は、かつてフェニキア人たちが交易によって栄えました。このときフェニキア人たちは、自生していたレバノン杉を伐採して船を大量に製造した結果、現在ではレバノン杉はすっかり少なくなってしまいましたが、レバノンの国旗に描かれるなどレバノンの人たちの誇りとなっています。

このフェニキア人たちが世界に芳醇なワインを送り届けました。その伝統を受け継ぐ現代のレバノン人たちは、さまざまな戦火に見舞われながらもワインづくりに命をかけてきました。
レバノンの首都ベイルートは、1960年代には「中東のパリ」と呼ばれる美しい都でした。1943年にフランスから独立するまでフランスの委任統治領でした。要するにフランスの植民地だったのです。その結果、フランスの香りがする街並みが残っています。

その一方で、キリスト教マロン派やイスラム教ドルーズ派、シーア派など多様な宗教が混在していました。それでも、それなりに微妙なバランスによって平和が保たれていたのですが、イスラエルが建国されたことで発生したパレスチナ難民が多数レバノンに逃れたことで、宗教上のバランスが崩れます。
さらにヨルダン内戦でヨルダンを追われたPLO(パレスチナ解放機構)の武装組織が流入。1975年に、キリスト教マロン派の民兵組織とPLOとの内戦が勃発します。ここに、レバノンへの影響力を強めたいと考えた隣国シリアが介入したことから、誰が敵で誰が味方かわからなくなるような泥沼の内戦となってしまったのです。

それでもシリアの軍事介入によって、一応の収束を見せますが、PLOの武装勢力はレバノン南部に拠点を移し、イスラエルに対する越境攻撃を繰り返します。
これに対しイスラエルは1982年、レバノンに侵攻します。このときマロン派の民兵はイスラエルに協力してパレスチナ難民キャンプを襲撃して、多数の民間人を虐殺。国際的に非難を浴びます。
イスラエルの軍事侵攻でPLOはレバノンを離脱しますが、レバノン南部では、今度はイランの影響を受けたイスラム教シーア派のヒズボラ(神の党)が台頭。レバノン政府の統治が及ばない独自政権を築き、イスラエルへの攻撃を繰り返しています。
レバノン内戦が収まった後、私は二度に渡ってレバノンを取材しました。ベイルートは廃墟から甦り、美しい町並みを取り戻しつつありますが、街を歩いていると、突然装甲車が止まっていたりと、緊張感は残っています。
それでも地中海に面した海岸線は美しく、レバノン料理は中東随一の美味で有名です。この料理には、レバノンのワインが合うことでしょう。

レバノンと言えばイスラム教の国のイメージが強く、「イスラム教徒は酒を飲まないのではないか」と考えるかもしれませんが、キリスト教も多くいますし、ワインが好きなイスラム教徒もいるのです。
レバノンワインを味わうためにレバノンを訪れる観光客が増えれば、レバノン経済の復興にもつながるのですが、そんな難しいことを言わなくても、ワインとの語らいが待っていることでしょう。
掲載写真:『戦地で生まれた奇跡のレバノンワイン』

『戦地で生まれた奇跡のレバノンワイン』
2022年11⽉18⽇(⾦)アップリンク吉祥寺ほか全国順次ロードショー
監督:マーク・ジョンストン、マーク・ライアン
出演:セルジュ・ホシャール、マイケル・ブロードベント、ジャンシス・ロビンソン、エリザベス・ギルバートほか
プロフィール
池上 彰(いけがみ・あきら)
1950年長野県生まれ。ジャーナリスト、名城大学教授。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK入局。記者やキャスターをへて、2005年に退職。以後、フリーランスのジャーナリストとして各種メディアで活躍するほか、東京工業大学などの大学教授を歴任。著書は『伝える力』『世界を変えた10冊の本』など多数。