池上彰の 映画で世界がわかる!
『ワース 命の値段』──911・アメリカ同時多発テロの損害賠償金はどう算定されたか?
毎月連載
第57回
人の命は平等です。でも、たとえば交通事故の犠牲者が若い医者と80歳の高齢者だった場合、補償金は同じになるでしょうか。
なりませんよね。どうしても「将来大金を稼ぎそうな人」の方が高くなります。これは「命の値段」に違いがあるということになるのではないでしょうか。
この難題に取り組むことになったアメリカの弁護士の物語です。実話が元です。
2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロでは、4機の旅客機がイスラム過激派にハイジャックされ、世界貿易センタービルや国防総省などに突っ込み、多数の犠牲者が出ました。ビルの崩壊で消防士や警察官にも死傷者が出ました。彼らへの補償はどうするのかが、大きな問題になりました。
もし遺族や被害者の多くが航空会社に損害賠償を請求した場合、航空会社はとても払えず、次々に倒産してしまうでしょう。これではアメリカに大手の航空会社がなくなります。アメリカにとって大損害です。そこでアメリカ政府は、国家の責任で約7000人を対象に補償することにしました。題して「補償基金プログラム」です。
でも、被害者は多数に上り、年齢も性別も職業もバラバラです。遺族が納得する補償金額はいくらになるのでしょうか。アメリカでの補償金額の計算式を機械的に当てはめると、次のような金額になります。
たとえば25歳の皿洗いを仕事にしている人には扶養家族が4人いて、年収は2万3000ドル(1ドル130円として日本円で299万円)でした。この人には35万ドル(4550万円)が支払われます。
一方、55歳の会社役員には扶養家族が3人で年収は75万ドル(9750万円)でした。この人には補償金が1420万ドル(18億4600万円)支払われます。
25歳の未来ある若者よりも55歳の人の方が補償金額は高い。差額は凄い金額です。それは55歳の人が会社役員だから。これはフェアな算定なのでしょうか。
補償金額の算定を任されたのは、弁護士のケネス・ファインバーグ氏(77歳)でした。彼は、遺族や被害者を一同に集めて補償金額の算定方式の説明をしようとしますが、参加者は納得しません。「娘の命も金持ちの命も同じはずだ」という反発です。
ケネス氏が政府から求められたのは、被害者のうち80%以上の人の賛同を得ることでした。しかし、交渉は難航します。算定方式の修正を求めるリーダーが出現し、多くの支持を得てケネス氏に修正を迫ります。
しかし、ケネス氏にすれば、途中で方針を変更すると、プログラム自体が存続の危機を迎えてしまいます。さて、どうすればいいのか。
当初は極めて実務的に補償金額を決めていたケネス氏ですが、多くの被害者の声を聞くうちに、被害者たちが求めていたのは金額の多寡ではなく、愛する人を失った悲しみを理解してほしいという思いだったことに気づきます。
さまざまな事情を抱えた被害者たち。訴えを聞くことで心が揺さぶられるケネス氏の事務所のスタッフたち。
さて、締め切りが迫る中で、80%の目標は達せられるのでしょうか。
人間の命の価値は計算できるものなのか。心を揺さぶられるのは、ケネス氏のスタッフばかりではないのです。
掲載写真:『ワース 命の値段』
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『ワース 命の値段』
2023年2月23日(木)公開
監督:サラ・コランジェロ
脚本:マックス・ボレンスタイン
出演:マイケル・キートン、スタンリー・トゥッチ、エイミー・ライアンほか
プロフィール
池上 彰(いけがみ・あきら)
1950年長野県生まれ。ジャーナリスト、名城大学教授。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK入局。記者やキャスターをへて、2005年に退職。以後、フリーランスのジャーナリストとして各種メディアで活躍するほか、東京工業大学などの大学教授を歴任。著書は『伝える力』『世界を変えた10冊の本』など多数。