池上彰の 映画で世界がわかる!
『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』──フランス社会を変えたひとりの女性
毎月連載
第62回

シモーヌ・ヴェイユ。フランスの女性で、この名を知らない人は、おそらくいないでしょう。
いまのフランスを見ると女性の活躍が目立ちます。女性の権利がしっかりと守られている。そんな印象がありますが、1970年代半ばまで、そんな状況にはなっていませんでした。そのフランス社会を変えたのが、ひとりの女性シモーヌ・ヴェイユです。

カトリック国家のフランスでは、中絶が長らく違法でした。しかし非議員の保健大臣に就任したシモーヌ・ヴェイユは“中絶の権利”をフランス議会に提案します。
「喜んで中絶する女性はいません。中絶が悲劇だと確認するには、女性に聞けば十分です」と男性議員たちに呼びかけます。レイプによる望まない妊娠や非合法な中絶手術で命を失う女性たちのために中絶の合法化が必要だと説くのです。
男性議員ばかりの議会で、中絶の合法化を提案したシモーヌは、保守的な男性議員たちの口汚い攻撃にさらされます。圧倒的に不利と見られていたのですが、最後には劇的な勝利を収めるのです。

また、当時のフランスの刑務所の劣悪な環境の改善のために戦い、エイズ患者の人権を守ろうとします。
彼女は、なぜそれほどまでに人権のために戦ったのか。シモーヌには、第二次世界大戦中、ユダヤ人としてアウシュビッツに収容され、母を失ったという辛い経験がありました。
私たちから見ると、第二次大戦後はフランスもナチスの責任を厳しく追及したかに見えますが、実際には、ドイツに占領されていた時代にナチスに協力したフランス人たちもいたのです。協力ほどではなくてもユダヤ人虐殺を傍観していたフランス人も多く、強制収容所から生還した女性たちは、冷たく無視されていたことがわかります。
収容所では女性の尊厳は踏みにじられ、苛酷な環境の中で死んでいきました。そんなことは二度とあってはいけない。戦争を防ぐためには欧州が団結すること。そのためにはEU(欧州連合)の強化が絶対に必要だ。こう考えたシモーヌは、欧州議会議員選挙に立候補して当選し、さらに初の欧州議会議長に選ばれます。

映画は、シモーヌ・ヴェイユが自伝の執筆のために自身の体験を回想する形で展開されます。しばしばフラッシュバックのように出てくる強制収容所の目を覆いたくなる惨状。そんな経験があったからこその闘争だったのです。
母親の愛情をたっぷり受けて成長したシモーヌ。幸せな結婚をし、子どもたちにも恵まれますが、それでも家庭に閉じこもることなく弁護士として働き、社会を変えようと苦闘します。いまでこそ子育てをしながら働く女性たちは当然のことと見なされますが、当時は破天荒だったことがわかります。

人工妊娠中絶を禁止しようという動きが広がるアメリカ。ジェンダーギャップが先進国最低の日本。
でも、かつてはフランスでもそうだったという事実は、女性の権利拡大のために取り組む日本の女性たちにも勇気を与えるでしょう。
保守的な男性政治家の口汚い攻撃があっても、信念を貫くと、道が開けてくるのです。

掲載写真:『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』
(C) 2020 - MARVELOUS PRODUCTIONS - FRANCE 2 CINEMA - FRANCE 3 CINEMA

『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』
7月28日(金)公開
監督・脚本:オリヴィエ・ダアン
撮影:マニュエル・ダコッセ
編集:リシャール・マリジ
出演:エルザ・ジルベルスタイン/レベッカ・マルデール/オリヴィエ・グルメ/エロディ・ブシェーズほか
プロフィール
池上 彰(いけがみ・あきら)
1950年長野県生まれ。ジャーナリスト、名城大学教授。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK入局。記者やキャスターをへて、2005年に退職。以後、フリーランスのジャーナリストとして各種メディアで活躍するほか、東京工業大学などの大学教授を歴任。著書は『伝える力』『世界を変えた10冊の本』など多数。