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池上彰の 映画で世界がわかる!

『オッペンハイマー』──東西冷戦時代、加速する核兵器開発競争の中で揺れる物理学者の葛藤や苦しみ

毎月連載

第70回

アカデミー賞の13部門でノミネートされるなどアメリカで高い評価を得た映画ですが、日本での上演がなかなか決まりませんでした。「広島と長崎に落とされた原爆を開発した人物の映画は日本では上映を控えた方がいいという判断があったからでは」との憶測も流れましたが、遂に日本でも上映されます。

ロバート・オッペンハイマーはアメリカが原爆開発を進めた「マンハッタン計画」の責任者で、「原爆の父」と呼ばれますから、日本に住む私たちにとって好意的には見られない人物ですが、映画は彼の人間的な葛藤や苦しみを描いています。彼がソ連のスパイの汚名を着せられたエピソードなどは東西冷戦時代のアメリカの暗部を照らします。

極めて優秀だった彼はハーバード大学を卒業後、イギリスのケンブリッジ大学に留学しますが、実験を中心とした物理学研究になじめず、理論物理学へと研究の重心を移していきます。そのあたりのことは、極めてショッキングなエピソードで描かれています。

アメリカに帰国後はカリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学(カルテック)で教えるようになり、学生たちからは「オッピー」の愛称で呼ばれます。

物理学の世界では、ドイツの学者がいち早くウラン235を核分裂させると巨大なエネルギーが発生することを突き止めます。そのドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発すると、アメリカはドイツが先に「核分裂爆弾」(原子爆弾)を開発するのではないかと恐れます。このため「マンハッタン計画」と呼ばれる原爆開発のプロジェクトを発足させます。

その中心になったのがロスアラモス国立研究所の初代所長に任命されたオッペンハイマーでした。映画では、砂漠にみるみる研究所の建物群が建造されてゆく様子が描かれます。

原爆の開発は、核分裂するウラン235を濃縮するプロジェクト(広島型原爆)と、ウランを燃料とした原子炉を運転してプルトニウムを取り出すプロジェクト(長崎型原爆)が平行して進められます。

そのために、全米各地の研究所で研究が進められ、それをオッペンハイマーが統括していきます。

研究にゴーサインを出したアメリカの大統領はルーズベルトでしたが、任期途中病死し、後任となったトルーマン大統領は原爆実験を急がせます。1945年の7月17日から始まったポツダム会談で、ソ連のスターリンにアメリカが原爆を開発したことを通告したかったからです。

しかし、原爆が完成した段階でドイツは降伏していました。そこで日本に投下することが決まるのですが、このあたりの描写は息が詰まります。

原爆実験が成功すると、オッペンハイマーは古代インドの聖典の一節「我は死神なり、世界の破壊者なり」を引用します。自分が死神になってしまったという悔悟の念に駆られるのです。

第二次世界大戦が終わると、オッペンハイマーは英雄扱いを受け、トルーマン大統領に呼ばれます。自分のことを絶賛するトルーマン大統領に対し、オッペンハイマーは「私の手は血塗られています」と、原爆開発への後悔を滲ませますが、トルーマン大統領は相手にせず、「投下したのは私だ」と発言。原爆投下を自らの功績だと自賛します。

オッペンハイマーは、地球上で使えないような強力な兵器を作り出すことで、戦争ができないようにしようと考えていたとされますが、マンハッタン計画に潜入していたソ連のスパイが製造法をソ連に伝達。ソ連も原爆を作り始め、核兵器開発競争が始まってしまいます。

相手が原爆を開発したなら、こちらはさらに強力な武器を開発しよう。こうして水爆の開発が始まると、オッペンハイマーは水爆の開発に反対します。

さらに当時は東西冷戦が激化。アメリカではアメリカ共産党の関係者の追放が始まります。妻のキティや大学時代の恋人ジーンは共産党員だったからです。また彼自身も共産党系の集会に参加したことが問題とされます。このため彼はソ連のスパイの汚名を着せられて公職追放になるのです。彼の汚名が払拭されたのは、実に2011年のことでした。

そんな歴史の一断面に思いを馳せながら見てもらえればと思います。

掲載写真:『オッペンハイマー』
(C)Universal Pictures. All Rights Reserved.

『オッペンハイマー』

3月29日(金)公開

監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、チャールズ・ローヴェン
出演:キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナー
原作:カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン 「オッペンハイマー」(2006年ピュリッツァー賞受賞/ハヤカワ文庫)
2023年/アメリカ
配給:ビターズ・エンド  ユニバーサル映画

プロフィール

池上 彰(いけがみ・あきら)

1950年長野県生まれ。ジャーナリスト、名城大学教授。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK入局。記者やキャスターをへて、2005年に退職。以後、フリーランスのジャーナリストとして各種メディアで活躍するほか、東京工業大学などの大学教授を歴任。著書は『伝える力』『世界を変えた10冊の本』など多数。