池上彰の 映画で世界がわかる!
『セプテンバー5』──報道のあり方を考えさせられるオリンピック史上最悪のテロ事件
毎月連載
第79回

『セプテンバー5 』
題名の9月5日とは、1972年9月、当時の西ドイツ・ミュンヘンで開催されていたオリンピック中に、イスラエル選手団の宿舎がパレスチナゲリラに襲撃され、選手たちが人質になった事件の日付です。
映画は、当時中継をしていたアメリカ・ABCテレビのスポーツ局の取材班の視点で描かれます。
事件は、「黒い九月」という名のパレスチナ武装組織がイスラエル選手の宿舎を襲撃し、2人を殺害して9人を人質にとって宿舎に立てこもります。彼らはイスラエルによって拘束されているパレスチナ人らの解放を要求しました。オリンピック史上最悪の事件の発生でした。
このときABCテレビのスタッフは、報道局ではないスポーツ中継専門。ありあわせのカメラで宿舎の様子の中継を始めます。

これに対し、アメリカの本社からは報道局スタッフに中継させろと言ってきます。テレビ現場でよくあることです。が、スタッフはこれを拒否。自分たちだけで中継を続けます。
当時はテレビの映像を海外に送るには国際電話会社の電話回線を借りなければなりませんでした。ドイツからアメリカに送れる回線はひとつだけ。アメリカのテレビ各局には、この回線を利用できる時間が割り振られています。当初はABCテレビが、この回線を使っていましたが、やがてCBSテレビの使用時間となります。CBSテレビに回線を使わせると、ABCテレビの中継ができなくなります。この逆境をどう乗り越えるのか。
中継班は報道スタッフではないので、ドイツ語ができるメンバーもいませんし、専用の通訳も用意していません。たまたま映像編集を担当していたドイツ人女性に臨時の通訳を依頼。ドイツのラジオニュースを聞きながら状況を把握します。

ABCテレビの仮設スタジオは、たまたま選手村に近く、スタジオにあった巨大なカメラを外に出すことで、選手村の様子を中継できます。ミュンヘンの地元警察が人質を解放するために宿舎に接近する様子もリアルタイムで伝えたのです。
しかし、これに気づいた地元警察は激怒。宿舎に立てこもるゲリラが宿舎内のテレビで外部の警察の動きを知ることが可能になるからです。警察官は中継スタッフのいる調整室に乱入。中継を止めろと要求します。さて、中継チームはどうすべきか。

このシーンを見て、私は1981年6月に東京・江東区で発生した人質立てこもり事件を思い出しました。このとき私は現場中継を担当していたのですが、警視庁から「犯人が室内でテレビを見ている可能性があるので、警察の動きはコメントしないでほしい」と求められたのです。大事なのは人質の安全。そこで現場中継は続けながらも外周の警察の動きについては触れないことにしました。
事件現場からの中継と人質の安全をどう両立すべきか。ABCテレビの中継クルーも、この難問に直面するのです。
当時の西ドイツには、こうした事件に取り組む部隊が存在せず、事件に不慣れなミュンヘンの地元警察が担当していました。
ゲリラは逃走用の航空機を用意するように求めます。犯人と人質たちはヘリコプターで空港に移動。そこで航空機に乗り込もうとするのですが、警察の不手際で銃撃戦となり、警察の装備の貧弱さもあって、事件は悲劇的な終わりを迎えます。

私は事件現場を2019年末に訪れました。なんと現場となった選手村の宿舎は、リノベーションはされたものの、アパートとして使用されていました。
この事件をきっかけに西ドイツ政府は国境警備隊の中に対テロ特殊部隊として「第9国境警備群(GSG-9)」を創設します。
GSG-9は、その後、1977年にパレスチナゲリラが起こしたルフトハンザ航空ハイジャック事件に投入され、乗員乗客に犠牲者を出すことなく事件を解決します。これを受けて日本でも警視庁第6機動隊の中にSATが創設されました。
この事件にイスラエルは激怒。事件を起こした「黒い九月」の指導層の暗殺を計画します。イスラエルの諜報組織モサドの特殊部隊が、ヨーロッパ各地で指導者たちを殺害していきます。この報復作戦は、2005年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ミュンヘン』に描かれています。
『セプテンバー5』は、報道のあり方を考えさせるだけではありません。ドイツ人スタッフとフランス人スタッフの感情の相克やアメリカ人スタッフとフランス人の多様な人種構成による感情の対立などの機微にも触れているところも見どころです。
掲載写真:『セプテンバー5』
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『セプテンバー5』
2月14日(金)公開
監督・脚本:ティム・フェールバウム
出演:ジョン・マガロ、ピーター・サースガード、レオニー・ベネシュほか
配給:東和ピクチャーズ
プロフィール
池上 彰(いけがみ・あきら)
1950年長野県生まれ。ジャーナリスト、名城大学教授。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK入局。記者やキャスターをへて、2005年に退職。以後、フリーランスのジャーナリストとして各種メディアで活躍するほか、東京工業大学などの大学教授を歴任。著書は『伝える力』『世界を変えた10冊の本』など多数。