池上彰の 映画で世界がわかる!
『灰となっても 』──香港の民主化運動に参加した若者たちの多くが心に秘めていた覚悟
毎月連載
第83回

『灰となっても』
本作の原題『寧化飛灰(Rather be Ashes than Dust)』は「塵として朽ちるよりも、灰となっても燃え尽きる方がいい」という意味です。人生を無為に過ごすよりも、短くとも激しく生きるという覚悟です。香港で起きた民主化運動に参加した若者たちの多くが心に秘めていた覚悟だったのでしょう。
中には、激しい反対運動に直面して香港政庁も要求を受け入れるのではないかと希望を持った人もいることでしょう。しかし、その希望は潰えました。この運動は、どう総括すればいいのか。海外に逃亡してしまった活動家もいれば、海外に出ることができないまま沈黙を余儀なくされている人たちもいるのです。
香港の民主化運動が知られるようになったのは2014年の「雨傘運動」です。香港がイギリスから中国に返還される際、香港のトップは香港市民の選挙で選べるようにすることを中国政府は約束していました。

ところが、2017年から実施される予定の選挙法改革案は、中国政府のお墨付きがある人しか立候補できないという欺瞞的なものでした。騙されたと怒った人々は、街頭に出て抗議行動を展開します。これに対し香港政庁は警官隊によって押さえ込もうとします。デモ隊に放水するのです。そこでデモ隊は、雨傘をさして抵抗しました。これが「雨傘運動」の由来です。
若者たちは香港中心部の道路を占拠して抗議行動を続けますが、占拠が長引くにつれて市民の支持が減り、運動の中心人物たちが逮捕されることで、運動は収束します。
しかし、2019年の民主化運動は、さらに激しいものでした。このとき香港政庁は、犯罪容疑者を中国に引き渡すことを可能にする「逃亡犯条例改正案」を出すのです。

これは、建前としては中国大陸で犯罪を起こして香港に逃げ込んだ容疑者を香港で逮捕して中国に送還できるようにするというものです。これが中国大陸で殺人や強盗事件を起こした容疑者を送還するのであれば、それなりに納得できるものですが、多くの香港市民は、そうは考えませんでした。
それまでの香港では言論の自由が保障され、中国共産党の批判も自由にできました。しかし、これは中国大陸では「犯罪」に当たります。もし容疑者を中国に引き渡すことができるようになれば、香港で中国共産党を批判した人を中国が「犯罪者だから引き渡せ」と言ってくることが可能になるのではないかと恐れたのです。
この年の6月16日には香港の人口の3割を占める約200万人(主催者発表)が街頭に出て反対を訴えました。

しかし、中国共産党を恐れる香港政庁は法案を撤回しませんでしたが、激しいデモを厳しく取り締まろうとしない香港政庁の態度に中国共産党はしびれを切らします。そもそも香港市内での条例(法律)は香港の立法会(議会)が決めることですが、中国は「香港国家安全維持法」を香港に押し付けてきたのです。香港政庁に反対する人物は「安全維持法」に違反するとして逮捕できるようにするものでした。
これに反対する大学生など若者たちのデモ行進に対し、今度は警察が激しく弾圧します。催涙弾やゴム弾を発射。至近距離で警察官に銃で撃たれる学生が出るほどでした(辛うじて命は助かる)。

本作の映画監督アラン・ラウは、フリーのジャーナリストとしてカメラを回し続けます。しかし、この過程で彼は悩みます。目の前で警察による暴力が振るわれているのに、それを“客観的”に記録しているだけでいいのだろうか、と。
運動が激しくなるにつれ、香港市民の中でも分断が進みます。沈黙を余儀なくされる人々。世界の目の前で民主主義が押しつぶされていく様子を、私たちはアラン・ラウのおかげで目撃するのです。

掲載写真『灰となっても』
(C)rather be ashes than dust limited

『灰となっても』
監督・撮影・編集:アラン・ラウ
原題:寧化飛灰
英題:rather be ashes than dust
配給・宣伝:太秦
プロフィール
池上 彰(いけがみ・あきら)
1950年長野県生まれ。ジャーナリスト、名城大学教授。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK入局。記者やキャスターをへて、2005年に退職。以後、フリーランスのジャーナリストとして各種メディアで活躍するほか、東京科学大学などの大学教授を歴任。著書は『伝える力』『世界を変えた10冊の本』など多数。