池上彰の 映画で世界がわかる!
『摩文仁 mabuni 』──戦後 80 年を迎える沖縄。慰霊とは何か?
毎月連載
第84回

『摩文仁 mabuni』
今年は戦後80年。日本の本土での終戦は8月15日ですが、激しい地上戦となった沖縄の「終戦」は6月23日。日本軍司令官の牛島満中将が摩文仁(まぶに)の丘で自決して日本軍の組織的戦闘が終わったからです。
以後、6月23日が「沖縄慰霊の日」となりました。この摩文仁には平和祈念公園があり、沖縄戦で亡くなった兵士や民間人の名前が刻まれた平和の礎(いしじ)などの慰霊碑があります。
平和の礎の特徴は、沖縄戦で亡くなった米軍兵士の名も刻まれていることです。

また、当時は朝鮮半島も台湾も日本の領土(植民地)。朝鮮半島や台湾出身で日本軍兵士として戦死した人たちの名前もあるのです。
平和の礎の近くでは、ボランティアで遺骨を収集している人がいます。私も現地で取材して知ったのですが、いまも遺骨収集は終わったとは言えない状況なのです。
もともと日本軍の司令部は沖縄中部の首里城の地下に置かれていましたが、米軍が上陸し、形勢が不利になると、南部に撤退。沖縄本島南端に位置する摩文仁の丘に司令部を移します。少しでも戦闘を長引かせ、日本軍が本土決戦の準備ができるようにするのが目的でした。沖縄は“踏み台”にされたのです。

しかし、南部には多くの沖縄の住民が既に避難してしていました。結果、多くの住民が戦闘に巻き込まれて命を落としました。
南部には「ガマ」と呼ばれる自然の洞窟がいくつもあり、住民たちはこの中に隠れていましたが、避難してきた日本軍の兵士によって追い出された人たちもいます。
また、米軍の捕虜にならないように自決を迫られた住民も多く、日本軍から渡された手榴弾で自決した人たちも多かったのです。

こうした人たちを弔う慰霊碑が多数建立され、多くの人が花を捧げます。
その一方、1972年に沖縄が日本に復帰すると、沖縄戦で亡くなった全国各地の兵士たちを顕彰する碑も建立されるようになりました。
慰霊碑と顕彰碑。亡くなった人を弔う目的は同じでも、対照的なふたつ。沖縄の人たちの思いも複雑です。

映画監督でジャーナリストの新田義貴氏は、沖縄の住民や日本軍の戦友、慰霊に訪れる制服姿の自衛隊員、米軍海兵隊員、沖縄の遺族など、多くの祈りの姿を記録してきました。
戦後80年になっても、いまも世界ではロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルとイランの交戦など、平和とはほど遠い現実があります。
戦争で亡くなった人たちを、どう慰霊するのか。二度と新たな慰霊が生まれないようにするにはどうしたらいいのか。慰霊とは何かを考えさせる映画なのです。
掲載写真『摩文仁 mabuni』
(C)ユーラシアビジョン

『摩文仁 mabuni』
6 月7日(土)〜桜坂劇場(沖縄)にて先行ロードショー
6 月 21 日(土)〜シアター・イメージフォーラムにてロードショー
監督・撮影・編集 新田義貴
プロフィール
池上 彰(いけがみ・あきら)
1950年長野県生まれ。ジャーナリスト、名城大学教授。慶應義塾大学経済学部卒業後、NHK入局。記者やキャスターをへて、2005年に退職。以後、フリーランスのジャーナリストとして各種メディアで活躍するほか、東京科学大学などの大学教授を歴任。著書は『伝える力』『世界を変えた10冊の本』など多数。