佐野元春を成立させるクリエイティブのかけら
「路地裏の風景」のなかで育まれた感性 音楽との出会いから初の作曲まで
全14回
第1章
エルビス・プレスリーがRCAレーベルから最初のアルバムをリリースした1956年3月13日、佐野元春は東京で産声を上げた。エルビスの大ファンだった彼の母は、後々までその偶然をうれしそうに語っていたという。
最も古い記憶は「路地裏の風景」だ。浅草に近い、『銭形平次』で知られる神田明神あたり。袋小路がたくさんあって、友達と遊んではよく迷子になった。近くで祖父が鰻屋を営んでいたので、そこに集まる大人たちの会話を聞いていた。他にも、どこかの家からの三味線の音。蕎麦屋や、寿司屋や、畳屋から聞こえる話し声……そんな風景と音のなかで育った。
両親はふたりとも1932年生まれ。他の友達の両親と比べると、若くて活気があったように思う。家にはステレオがあって、いつもアナログレコードがかかっていた。いわゆるラテン音楽が多かった。幼心に素敵だなあと思った最初の音楽は、テレビで弘田三枝子さんが歌っていた「ヴァケーション」のカバー。8歳ぐらいのころ、年上のいとこからビートルズを教わった。
事業を営んでいた父は、車で僕を方々に連れていってくれた。特によく訪れたのは銀座。僕は、不二家のお子さまランチが大好きだった。ケチャップライスの上に旗が刺さった、あれ。母は音楽が大好きで、レコード喫茶を経営していた。
後年、知ったのだけど、母は父と出会う以前に、東映ニューフェイスのオーディションに受かっていたらしい。でも、家に届いた合格通知を、お父さん、つまり僕の祖父が勝手に破り捨ててしまったため、母は、しばらくその事実を知らなかった。
そして中学1年のころ、こんなことがあった。家族でテレビを観ていると、エルビスのライブが流れた。すると母は、突然「この子はエルビスみたいになる!」と言い出した。現実的だった父は「いい加減なことを言うな! この子はちゃんと実業に就かせる!」と激怒した。僕は心の底で、母親に「ありがとう」と言った。母は映画女優の夢こそ叶わなかったものの、表現することの価値を知っていた。だから、もし僕にその才能があるのならば「その道を進め」と、発作的にメッセージを送ってくれたのだろうね。
幼少の頃の佐野は、彼の親戚曰く、「火の玉のようだった」。すぐに何処かへ消えてしまうので、一瞬たりとも目が離せない子どもだった。
ある日は、街から街へと移動する紙芝居屋のおじさんの後を付いていって、日が暮れると迷子になっていた。そうかと思うと、またある日は、朝っぱらから家を飛び出すと、小学校の校庭で、全校生徒を前にラジオ体操を披露していたらしい。思えば、あれがパフォーマーとしての芽生えだったのかな?(笑)。大勢の前に立っても、まったく物怖じしない子どもだったそうだ。
異性への興味は、小学校1年生のころからあったようです。当時、1年生のクラスはふたつあって、1組は、どちらかというと僕のような早生まれの子、2組は遅生まれの子で構成されていた。
ある日、父兄参観か何かで、1組と2組の合同授業があった。僕は密かに関心を寄せていた2組の女の子の隣に座ると、突如、「結婚しよう」と言ったそうだ。自分では覚えていないんだけどね。それを彼女が自分の親御さんに話したため、僕の両親に猛烈な抗議が届いたよ。まあ、他にもたくさんのエピソードがあるんだけど、それはまた別の機会に。
そんな小学校生活のなかで、ある出来事が起こる。
クラスに女の子のふたり組がいた。ふたりはきかん坊で、実習時間になると、すぐ表へ遊びに出てしまう。僕は「それってどうなんだ?」と思い、近くの公園まで彼女たちを連れ戻しに行った。そこですったもんだしていると、教師がやってきた。しかし、自分の行動をうまく説明できなかった僕は、一緒にサボったと思われてしまい、彼女たちと一緒に激しく怒られてしまった。
もし怒りや間違いを感じても、言葉を知らなければすべて受け身のままだ。そう感じた僕は、4年生のとき、学校の図書館にあった本を片っ端から読み始めた。小さな図書館だったので、1年でだいたいの本を読破した。5、6年生のころには、大人を論破するだけのスキルが身に付いてた。
しかも、僕の素行があまりにユージュアルから外れていたため、4年生のときは、教師の薦めでIQテストを受けさせられた。すると、自慢じゃないけど140近くあった。教師たちは驚いて、ますます僕をどう扱っていいのかわからなくなり、「佐野には気をつけろ」と言われた。まあ生意気で扱いづらかったとは思うけど、ひねくれてはいなかったから友達も多かったし、嫌われてはいなかったんじゃないかな。
当時の関心事は音楽とロケット。学習雑誌から宇宙に興味を持つと、毎晩、本を読み漁った。何より衝撃だったのは、テレビアニメ『鉄腕アトム』との出会いだった。
初めてアトムを観た僕は、すぐに「僕はアトムだ」と、自分とアトムを同一視しはじめた。アトムが歩く真似をして、アトムのように明るく振る舞った。アトムが正義を求めるなら僕も求め、アトムが泣けば僕も泣いた。
僕が『鉄腕アトム』に強く共感したのは、アトムが「僕は人間にはなれない」という憂鬱やジレンマを抱えていたから。もしかしたら、僕自身も、何か心の奥底に憂鬱を抱えていたのかもしれない。正義とは何か? 人とは何か? 科学とは何か?が、子どもにもわかるように描かれていた『鉄腕アトム』は、言わば、僕が生まれて初めて出会った“文学作品”だった。
数多い手塚作品のなかでも、特に触発されたのは初期の作品群だった。『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』、そして『鉄腕アトム』と『0マン』。このふたりの存在こそが、僕の魂に火を点け、「僕の幼少期を形成した」と言っても過言ではない。
小学校を卒業するころ、どうしても手塚さんに会いたかった僕は、3人の友達と連れ立って、手塚さんのアトリエまで押しかけてしまった。写真で見ていた姿がそのまま動いているような実物の手塚さんは、とてもジェントルな大人でした。子どもの目からも尊敬できる、大きな存在感がありました。
ちなみに、このエピソードにはちょっとした続きがある。
手塚さんに会えて調子づいた僕は、その後、石ノ森章太郎さんのアトリエにも押しかけ、『サイボーグ009』の一筆書きとサインをもらった(苦笑)。でも、うれしくて毎日眺めているうちに、どうしても水彩絵の具で色を塗りたくなってしまった。
緊張しながら肌の色を塗り、次に目を黒く塗ると、目のまわりにじわっと絵具が滲んでしまい……。赤塚不二夫さんのキャラみたいになった009の前で、僕は30分くらい立ちすくんだ。人生で初めて凍りついた瞬間だったね。
この頃、佐野の一家はすでに東京・中野へと居を移していた。そして中学に進学すると、彼は音楽にのめり込んでいった。
学校の誰よりも音楽を聴いていたと思う。当時、ちょっと気持ちを寄せていたクラスの女の子が、ロック好きだったお姉さんからアメリカやイギリスのヒットのシングルをいっぱい借りてきてくれて。そのレコードを聴いては、ふたりで盛り上がっていたね。
初めて自分で買ったレコードはザ・モンキーズの「(Theme From) The Monkees(邦題:モンキーズのテーマ)」の7インチシングル。ご機嫌なA面に惹かれて買ったんだけど、いつのころからか、B面の「I Wanna be Free(邦題:自由になりたい)」ばかりを聴くようになっていた。
14、5歳のころから、毎晩、眠る前にトランジスタラジオを聞き始めた。いわゆるヒットパレードが中心で、ビートの強い曲がお気に入りだったね。
楽器を初めて覚えたのは中1のころ。いとこがガットギターを譲ってくれた。そのガットギターには、何故かナイロン弦ではなく、アコースティックギターの鉄弦が張られていた。つまりものすごく指が痛いんだけど、それが当たり前だと思っていた僕は、指を血だらけにしながら猛練習した。おかげで、後にアコースティックギターを弾いたら、どんなコードも楽々と押さえられた(笑)。そこからアコースティックギターとピアノを同時に、すべて独学で覚えた。
僕が楽器を覚えはじめた理由は、あくまでソングライティングに興味を抱いていたから。自分で作った曲を自分で演奏したかったんだ。でも、最初は曲をどう作ればいいかわからないし、歌詞だって浮かばない。それで中学2年のころ、たまたまお気に入りだったヘルマン・ヘッセの「赤いブナの木」という詩の和訳にメロディをつけてみた。それが初めての作曲。ソングライティングの大海原に漕ぎ出した瞬間だった。
取材・文/内田正樹
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当連載は毎週土曜更新。次回は9月19日アップ予定です。
プロフィール
佐野元春(さの もとはる)
日本のロックシーンを牽引するシンガーソングライター、音楽プロデューサー、詩人。ラジオDJ。1980年3月21日、シングル「アンジェリーナ」で歌手デビュー。ストリートから生まれるメッセージを内包した歌詞、ロックンロールを基軸としながら多彩な音楽性を取り入れたサウンド、ラップやスポークンワーズなどの新しい手法、メディアとの緊密かつ自在なコミュニケーションなど、常に第一線で活躍。松田聖子、沢田研二らへの楽曲提供でも知られる。デビュー40周年を記念し、2020年10月7日、ザ・コヨーテバンドのベストアルバム『THE ESSENTIAL TRACKS MOTOHARU SANO & THE COYOTE BAND 2005 - 2020』と、24年間の代表曲・重要曲を3枚組にまとめた特別盤『MOTOHARU SANO GREATEST SONGS COLLECTION 1980 - 2004』のリリースが予定されている。