湯浅政明 挑戦から学んだこと
『四畳半神話大系』でも痛感した、原作ものをアニメ化するときに大切なこと
全13回
第5回
── 続いて『四畳半神話大系』(10)ですね。森見登美彦さんの同名小説をアニメシリーズ化した作品です。フジテレビのノイタミナでオンエアされました。私は今回、配信で観たのですが、繰り返しが多いので配信でまとめて観るのには向かないと思いました。これはTVシリーズで1話1話楽しむことに意味があるんじゃないでしょうか?
湯浅 分かります。実際、3話で挫折したという人もいましたから(笑)。
── それに、原作を読んでいない私は、これを文章ではどう表現しているんだろうと疑問を持ってしまいました。映像だからこそ成り立つ構造だったように思ったのですが。
湯浅 いや、原作も同じ感じなんですよ。同じ文章がコピペで何度も出てきたりする。あれ? これ読んだんじゃないかなって。読みづらいという意見もありますけど、それがストーリーの伏線になってる。TVシリーズにするにあたっては、4つの話を膨らませて10話にしています。
── アニメ化しやすい小説なんですか?
湯浅 やっぱりしづらいと思います……というより、大変難しい(笑)。なぜかと言えば、原作でもっとも面白いのは文章そのものであり語り口。主人公がずっとひとりで喋っている、その文章なんですよ。僕の役目はその面白さをできる限りアニメに落とし込むことで、そのためにはいろんな置き換えが必要になる。たとえば占い師のばあさんが言う“コロッセオ”の表現についても、そのままでは納得させるのが難しく、アニメに有効な形に変更してみたりしました。
── その主人公が、難解そうな言葉を理路整然と並べて、とうとうと喋っているので、なんだか押井(守)さんみたいだなーって思いましたけど。
湯浅 押井さんも舞台、お好きですもんね。今回の脚本は、舞台などのマルチな活動で知られる劇団、ヨーロッパ企画を主宰されてる上田誠さんにお願いしています。僕は初めて組む方です。キャラクターデザインも、原作小説の表紙イラストを描いている中村祐介さん。彼も僕は初めての方でした。
最初の脚本は、小説のストーリーを要約して、状況と登場人物の紹介に絞ったものになりました。話としてはシンプルであまり起伏がなく、アニメで退屈しないよう、視聴者の意識を持続させるのは難易度が高いなと思いました。それ以前にオリジナルで作った『カイバ』(08)の1話を、異世界で謎が謎を呼び謎のまま終わらせたら、視聴者の多くが離脱したという苦い経験があったので、たとえプロローグであっても、娯楽的な満足感は得られるようにしておきたいと考えたんです。事件が何も起きない静かなアニメで、視聴者を退屈させない自信がなかったんです。
そこで僕は、森見さんの小説の個性と魅力である語り口を活かすしかないと思い、原作のエピソードも脚本に追加して、たくさんのモノローグを詰め込みました。とにかくやたらと主人公が喋るようにしたんです。それも、小説を読んでいるスピードにできるだけ近く。もちろん、黙読の方が圧倒的に速いんですが、それに近い印象にしたかった。
── 速さが重要だったんですね。
湯浅 そうです。もしゆっくり喋っていたら、さほど大したことを語ってないことがばれ過ぎちゃいますから(笑)。昔の文学者のような喋り方をするくせに、内容は自分が女性にモテない言い訳をどうにかひねり出そうとしているだけ。そのアカデミックな口調とくだらなさのギャップが小説を読んでいるときの面白さなんです。なので、めちゃくちゃ速く喋れば、森見さんの小説のもっとも面白い部分が少しでも表現されるんじゃないかなと考えたわけです。原作を読んでいる人、ファンの人たちもおそらく、その面白さを期待してしまうだろうと思ったので。
“アニメ的冒険”と“京都らしさ”を出すための工夫
── そもそも、この企画はどうやって始まったんですか?
湯浅 フジテレビとアスミック・エースが声をかけてくれたんです。条件として脚本家は上田さん、キャラデザイナーも中村さんというのがあって。原作者の森見さんの唯一の注文は「京都らしさを出してほしい」というものでした。森見さんとは、彼が東京に来られているときにお会いしました。とても活字が好きそうな、まさに文筆家という印象でしたね。
脚本の上田さんも劇団が京都なので、京都の土地勘なども分かる方。森見さんとは同世代だし、彼の他の作品も準備していたりして、ふたりはもうツーカーの感じでした。
また、中村さんのイラストは黒白に色を挿した感じなので、アニメの場合も肌に色を使わなくていいんじゃないのって。これはアニメ的には冒険なんですが、「やってみよう!」ということになったんです。なのでキャラクターの肌に色は使わず白いまま。白黒で作って1色、2色、色を挿す感じになっている。背景も同じです。
みなさん、漫画は白黒でも文句言わないのに、アニメになると「なぜカラーじゃないの?」と言う。そういう意見へのアンチテーゼと言ってしまうと大げさですが、ちょっと冒険してみたんです。しかし、極端にカラフルな色を使ったイメージシーンの印象が強いせいなのか、カラフルな配色の作品と捉えている方が多かったですね。それも発見でした。
── 今回は写真も使っていますね。
湯浅 そうです。原作に出てくる場所のイメージが『ケモノヅメ』と違って実際ある場所をモチーフにされている場合が多いので、写真は撮りやすいだろうと思いましたし、「京都のアニメ」ってのを表すにも、実際の場所をなぞって描き起こすより写真を使った方が良いと思ったんです。京都まで行って、実際に舞台のモチーフと思われる場所の写真を撮り、それを絵的に歪ませて使っています。主人公が住んでいる寮も吉田寮がモデルだと思われたので、写真に使わせていただきました。あとは背景に意味なく古い和柄を使ったり、木々の緑にも和柄を使いました。グラフィックな感じも京都らしくなるのではと考えたんです。
これという正解もない原作ものは“自分の解釈”がとても重要
── なるほど。この後、森見さんの『夜は短し歩けよ乙女』も手がけていらっしゃるので、その話はまたお伺いしますが、原作ものの映画化は本作に限らず、やはり難しいんでしょうか?
湯浅 簡単ではないけど、どうやったら読書感と同じ感覚をアニメで与えられるのか、それを考えるのも楽しみのひとつですね。僕の場合は、自分で原作を読んだときの面白かった部分や、自分の中に湧き上がったイメージをアニメに置き換えることに注力している。とはいえTVだと限られますけど。
── ということは、小説を映画化する場合、そのままではなく自分の解釈を重要視するわけですね?
湯浅 ん〜。“そのまま”の解釈が難しいんですが、小説だと文章のままの台詞、漫画だと絵のままの画面、吹き出しままの台詞とも捉えられますが、自分にとっての小説や漫画は、読んだ人の解釈によってそれぞれ違うものだと思うんです。つまり、作者の意図が正しいとは言えないし、これという正解もない。アニメという媒体は一定の時間で絵や色、声、音、風景をひとつに限定してしまうので、それぞれの“それ”に応えることはできない。
だから、“自分の解釈”というのは、自分が読んだ“まま”を、限定された20分のアニメの中に落とし込むという意味です。できるだけ作者の意図や他者の読みも考慮に入れますが、最終的にはやはり自分の“読み”。自分の解釈(読み)が確立したら、原作者や周りの人の意見であっても、あまり聞きたくないと思ってしまいますね。
もちろん、企画がスタートしたときには、原作者の方の話をお伺いしますしヒントもいただく。そして、その意見を踏まえた上で自分の解釈を固めていくというプロセスを取っています。
最初はやっぱり一度、普通に読んで自分のフィルターを通し、その中に生まれた解釈を確認してみる。そのプロセスがないと原作からアニメへと移し替えられないんです。過去に読んでいたら、そのときの印象を大切にするし、読み直して新しい発見があれば、初見でも分かるようにその発見をアニメに分かり易く入れ込む。
媒体が違うので、文字や絵をなぞっただけでは、読んだ人がその作品だと思っている“そのまま”にたどり着かない。だからといって自分の“読み”はやっぱり自分の“読み”でしかない。でも自分が監督となった以上、自分の解釈というのはとても重要で、それに忠実でないと、作家が作ったような筋の通った作品を作ることもできないと思っています。
そもそも“原作どおり”の定義は曖昧。その中で特に意識していること
── 湯浅さんの解釈が、原作者のそれと異なる場合、それでも自分の解釈でいくということですか?
湯浅 そうです。違ってもいいと僕は思っているので。メディアが違うので全く同じものを作るのは不可能だし、それぞれのクリエイターが自分の解釈で作った方が媒体のトランスレートとして正しいと思う。大切なのは作家や作品へのリスペクト。アニメはライブと違って残るものなので、毎回、同じ形でやるのも意味がないですし、この時代だからこその解釈で、というのが作品を作る意味になると思います。
たとえば赤穂浪士の物語もそうですよね。小説から映画、テレビ、いろんなバージョンがある。それも時代をまたいで作られてます。だから、それぞれをそれぞれが楽しめばいいと思うんです。
── そうですね。みなさんの大好きなジブリ作品も原作がありつつ、まるで違いますからね。
湯浅 そうそう。宮崎(駿)さんのように原作からネタをもらって、あとは自分流に大きくアレンジすることが以前は当たり前でした。近年はそれぞれが考える「原作どおりに」という要求が強く、それが作品の解釈やアニメ作品としての広がりを狭めているように思います。
できるだけ“そのまま”と思っても、皆が“そのまま”と思う作品は作りにくい。それでも僕ができるだけ“そのまま”でやりたいと思うのは、それぞれが気がつかない読書感の“そのまま”の差異が面白いと思ってますし、できる限り広い読者に納得してもらえるようなトランスレートに興味があるからです。僕の師匠でもある芝山(努)さんも、そういう作品が多かったように思いますね。
原作をどれだけ尊重するかというのは、常に問題になることではあるんです。とりわけ今の時代は、映像技術のおかげでどんな絵的な表現も可能だから、原作どおりじゃなきゃという原作ファンもいる。でも、小説には絵がなく、漫画にも動きや色、音もない。読んでいるスピードも人それぞれなので“原作どおり”の定義が曖昧なんです。
僕は、自分の“読み”と、今の時代を意識した上でしか作ることができない。だからといって、好き勝手するわけじゃなく、原作が書かれた時代の読者が感じたことを、今の時代でも感じられるように作ることができればとも思っています。とはいえ、これも読む人によってみんな違いますし、時代とともにも変わるんじゃないかと思っているんですけどね。
── 時代における解釈は確かに大きいですね。シェイクスピアを現代に翻案する面白さもそこにあるわけだから。
湯浅 シェイクスピアは16世紀の価値観で書いているわけで、当時と同じまま演じれば、今の読者や観客が当時の人々と同じように感じるとは思えない。それぞれの時代に読んで、どういう風に感じたかが大切だと思ってますし、その一方で、作者がその時代に表現しようとした意図と、当時観ていた人たちの受け取り方も大事にしたいとは思っています。
同じ原作もので言うと、『DEVILMAN crybaby』も、もし永井豪さんが今の時代にこの話を発信していたらこうなるんじゃないのかという、自分なりの解釈を大切にしましたね。
取材・文:渡辺麻紀 撮影:源賀津己