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荒木経惟 写真に生きる 写真人生の出会い

【序章】被写体に育てられた。アラーキーが撮った名優たち

全11回

第1回

 アラーキーが撮った名優たち。平成が終わりを迎えようとする今、忘れられない昭和、平成の名優たちとの思い出を振り返る。

樹木希林さんの手指に惹かれてシャッターを押した。

久世光彦さんの葬儀(2006年3月7日、文京区・護国寺)にて、出棺のときに合掌する樹木希林さんの手指

 樹木希林さんの手指、きれいだったね。思わずシャッターを押してしまったんだよ。10年ぐらい前だったかな、演出家の久世(光彦)さんの葬儀のときだよ。久世さんの遺影は亡くなる1ヶ月前に俺が撮った写真なんだよね。出棺の前に、希林さんとちょっと立ち話をするときがあって。

 そのときに「花の写真集を買ったから」って、寄ってきてくれて、京都で花の展覧会を見てきたって言ってくれたんだ(2002年、個展『花人生』何必館・京都現代美術館)。「あれはアラーキーしか撮れないわよね」って話をしてくれたわけよ。前から好きだったけど、ますます好きになったね。それで、しばらく話して、出棺の時に二人並んで出ていったわけ。前を通って行く時に、希林さんがちょうど手を合わせてね。その時に、シャッターを押したんだ。手指がすっごくきれいだったの。

 普通は初めて撮るんだから、顔からいかなくちゃいけないんだけどさ。でもその手指がすごく“自分で作った手”になってたんだ、女優のね。手にその時の本人も写っているし、久世さんに対しての哀悼も写っているわけ。写真家の度量とか目利きとかで、最初にその人のどこを撮るかというのも、決まるわけだよね。顔よりも手のほうがいいというわけじゃないんだけど、手ですごく表現しちゃってるなって思ったんだ。だから撮ったんだよね。

久世光彦さんの葬儀。遺影は荒木による撮影

 好きで撮りたいなと思っている人とは、たいがい良い出会いができるね。2016年に、雑誌(『FRaU』)の撮影で希林さんを撮ったんだ。俺と同じで、はたから見たらカラ元気気味な感じだったな。相当体調が悪かったんじゃないかな。久世さんの葬儀のときのことを、「きれいでしたよね〜、あの時ね」って言ったらさ、「私の手がきれいなの当たり前じゃない」って言ってさ(笑)。これがいいんだよ。自分で手には自信があったみたいだね。お世辞も含めるじゃない、普通褒めるんだからさ。「俺、手指に惹かれて撮ったんだよ」って言ったらさ、「私の手はきれいなのよ」って(笑)。手に全部出るんだよね。もしかしたら、体調のこととかさ、死に関するなにかが自分の頭の中にあってさ、それで手のほうにまで現れていたのかもしれない。

 撮影のときは、はしゃいでくれたよ、もう元気に。でもそこに「体調悪いのかなぁ」というのがチラリと見えちゃうんだ。もしかしたらバラしちゃってるのかもしれないけどね。もともとあの人は、演技でその人の「人生」を演じるんじゃなくて、自分をそのままをさらけ出すことが演技だと、人生だと、思っているんだよね。だから自分を隠さない。そういう人だったね。

 変な言い方だけどさ、役者というのは、女優というのはさ、人間を表現するということであると。それが女優であり、俳優であるということだと。だから、何かを演じるんじゃなくて、なんでも自分自身を表現しているでしょ。“ジュリー〜〜”っていったって、この間の映画の『万引き家族』に出たって同じだもんな。お茶の先生もやってるでしょ(映画『日日是好日』)。要するにさ、俺はいつも言ってるんだけど、ずーっと現在を、今を感じさせるんだよ、なんの役をやっても。希林さんにとって過去よりも今が一番なんだよね。だから、あの人にとって女優というのは、自分自身にわがままに生きること。それが女優ということなんだよね。

2017年に荒木が撮影した樹木希林さん。希林さんが用意した衣装は、娘婿である本木雅弘さんが家に置いていった白いシャツ。自分で裾上げをした。「FRaU(2016年)6月号/講談社」

 やっぱりさ、褒めてもらうのが嬉しいじゃない、みんな。褒めてもらって嬉しかったのが、樹木希林さんだね。「もう、あの花は荒木しか撮れない」とか、そういう褒めかたをするんだよ。だからね。男の子は褒められるとね、いい気持ちになるんだよ(笑)。

笠智衆さん、「こんにちは」と「さようなら」を同時に撮る。

 もう一人、褒めてもらって嬉しかったのが笠智衆さん。笠智衆さんはね、俺が撮影した時は病気だったんだよ。そんときね、あれは親戚かな、娘じゃないなあ、付いてきてくれて、ちょっと外に行こうって、公園があるからって連れていってくれたんだ。そうしたら元気が出ちゃってさ、やる気十分になっちゃって。「ぼくはこれでもね、お相撲やっていたんだ」って言って、そばにあった木で相撲のテッポウやってくれた。

 公園にブランコがあったんだ。俺はまた悪い知識があるからさ、笠さんがほとんどの作品に出演している小津安二郎監督とは逆の、黒澤(明)の映画のさ、『生きる』の感じでブランコに乗ってもらってとかさ、思っちゃったの。ちらっと考える。この時代の映画をいっぱい見ているからね。どっちかっていうと、やっぱり俺は小津の方だからさ。最初にね、変だけど名刺がわりに出したのが俺の写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』。これを、ず〜っと見てくれて、その後に褒められたんだよ。だから、評論家とかなんだとかに褒められるより、樹木希林と笠智衆なんだよ(笑)。そういうのって効くんだよ。やっぱり写真撮っていると。

 俺、その時に初めてライカを買ったんだ。あ、笠智衆を撮るんだったらライカで撮らなきゃって。「今日は小津ですから」とか言ったら通じるわけ。小津さんはしょっちゅうライカで撮っていたらしいからね。それからライカで撮り出したんだよ。

笠智衆さんを小津安二郎監督も愛用していた「ライカ」で撮影。初めてライカ(M6)を手にする

 本人はさ、手をちょっと上げて、くらいな感じで、俺もさ、こうやってお互いに手を上げてね。この笑顔と手の具合というのが、「よう!」っていうのと、「さよなら!」っていうのを両方写してる。「こんにちは」と「さようなら」を同時にね。自分の写真に生と死を一緒に撮ったということを気づかせてくれるんだよ、向こうが。それを俺は無意識で撮っている。撮る時に、「こんにちは」と「さようなら」を一緒に撮ろう、とは思わない。瞬間の、その時の、相手との魂といっちゃ大げさだけど、行ったり来たりする気持ち。俺が人物を撮る時はさ、これがなくちゃダメなんだよね。ああ、そうなんだって、自分の写真に教えられることが多いんだよ、俺の場合は。だからね、感性が先行しているんだよね(笑)。

気が行ったり来たりして通じあっていた、中村勘三郎さん。

 気持ちがすごく通じあったのが勘三郎さんだね。好きだったねぇ〜。その時は勘九郎だったけどね。今度、浅草に「平成中村座」をつくって『法界坊』をやるからって、俺を存分に引きだすのは荒木だって言ってくれてさ。ご指名されるのが一番うれしいことなんだよ。他の演目も撮ったけど、最初は『法界坊』。(2000年、中村勘九郎〔05年に勘三郎を襲名〕が隅田公園の「平成中村座」にて歌舞伎公演『法界坊』を上演するにあたり、勘九郎と浅草・雷門の界隈を歩きまわり撮影した。)