荒木経惟 写真に生きる 写真人生の出会い
500冊を超える写真集。 撮ることは、脈打つこと、呼吸すること。
全11回
第11回

写真集による展覧会
「写真集展 アラーキー」
俺の写真集、これまでに500冊以上出てるっていうけどね、もっといってるみたいだよ。海外で出版してるのも全部入れたらね、550冊超えてるんじゃないかって。写真集がどれぐらい出てるのかって、よく聞かれるけど、何冊なのかわからないんだよね。
何年か前に、俺の写真集の展覧会をイズフォト(ミュージアム)でやってくれたんだ。その時に数えてくれて、何冊だって言ってたかな、450冊ぐらいだったかなぁ。これまでに出した写真集を全部集めて、壁に並べてくれたんだ。並べるだけじゃなくて、本を1冊1冊、手にとって見ることもできるようにしてくれてさ。自分でも忘れちゃってる写真集もあったしね、俺の手元にないのもある。おっ、こんな本もあったなとかね、全部見ることができるなんて嬉しいよねぇ。その展覧会で、「毎日芸術賞」をもらったんだよ。(2012年にIZU PHOTO MUSEUMで「荒木経惟写真集展 アラーキー」を開催。電通時代に制作したスクラップブックの写真集から最新刊まで454冊の写真集・著書が展示室の壁面に展示され、そのほぼすべての本を実際に手にとって触り、ページをめくって見ることができるという展覧会。この展覧会により、「第54回毎日芸術賞」の特別賞を受賞した。)
毎日撮って、毎日作った
スケッチブックの写真集
俺の一番最初の写真集は、スケッチブックにプリントを貼り込んで自分で作った写真集だね。電通時代に作り始めた、手作りの写真集。銀座に月光荘という画材屋があってさ、そこのオヤジと仲良くなって、このスケッチブックにしようってね。B4の大きさで、日にちと、撮ったカメラとレンズも書いてたね。ミノルタSRとかね。
俺は第1回太陽賞の受賞者だからさ、電通では特別待遇だったんだ。で、仕事してなかったから、毎日、スケッチブックの写真集を作ってたんだよ。毎日撮って、毎日プリントしてね。タイトルつけて、レイアウトもやって、プリント貼り付けて。俺、デザイナーの才能もあるしね(笑)。
毎日、銀ブラしている女性の顔をガンガン撮ってたね。プリントした顔を切り抜いて、白バックに貼って複写した「中年女(おんな)」。彼女たちの顔に人生がつまっていて、いいんだよね。
信号待ちの群衆もね。ず〜っと、何時間も撮ってたね。ぜんぜん飽きないんだよね。銀座の雑踏の群衆も毎日撮ってた。「雑踏の中のあなた」っていうのもあるよ。
銀座は正午になるとOLたちが昼食でビルから出てくるんだ。その頃はOL(オフィスレディ)と言わないで、BG(ビジネスガール)と呼んでた。当時はね、みんな紺色の制服を着てたんだよ。濃紺の制服を着たBGたちが昼休みになると、だらだら会社の中から散歩に出てくる。それがまるで囚人みたいに見えてね。その姿が監獄から解放されて喜んで出てくるように見えてさ、彼女たちの散歩コラージュっていうのも作ってるよ。
地下鉄も毎日乗るから、毎日撮ってたね。次の駅に、ひと駅行く間にフィルム1本ぐらいいけるからね。地下鉄の音にまぎれてシャッターを押す。おもしろくてさ、1秒とか2秒おきにシャッターを押してたね。地下鉄では巡査に捕まったこともあるんだ。「事件もないのに、なんで写真を撮るんだ」って。事件もないのに写真を撮ってるのが不思議だってね。でもね、なんでもないときに撮るからいいんだよ。いつもの地下鉄をね。
そうやって、毎日撮って、毎日プリントして、毎日スケッチブックを作ってた。でもね、おんなじことはやらない。それでね、おもしろいのはさ、その頃にさ、もう全部やってるんだよね。今、写真でやっていることを。電通時代は、俺の写真の修行時代だって言ってるんだけどね。よく飽きないで、毎日やってたよ。その頃、何十冊もスケッチブックの写真集を作ったね。
前にも話したけど、会社にゼロックス(コピー機)が入ってきて、『ゼロックス写真帖』を作り始めたんだよ。初期のゼロックスって鮮明じゃないし、プリントを複写してもよく出ないんだけど、それが よかったんだ。しめた!ってね。自分でトーンとかも変えられてさ、すぐに写真集が作れる。やりたいことが速攻でできるんだ。いろんな方法論でやってる、次から次へと。でもね、ゼロックスを一人でやるのは大変だから、女の子たちに頼んでたんだ。俺のファン多かったからね(笑)。朝、「300枚ずつコピーしてくれ」ってね。そうすると、昼休みにやってくれたりして夕方に持ってきてくれるんだ(笑)。ともかく思いついたことを一気にやる。がんがん作ってたね。(『ゼロックス写真帖』は、1970年から会社に導入されたばかりのゼロックス・コピー機を無断借用して作った私家版写真集(限定70部、全25巻+番外篇)。黒い表紙に赤い糸で和綴じにした。友人や知人、評論家、赤瀬川原平や永六輔、寺山修司などにも勝手に郵送した。)
『東京は、秋』
撮ることと、人生が同じ
電通を辞めて(1972年)、その退職金でアサヒペンタックス6×7を買ったんだよ。今でも使っているよ。6:7のあの比率がいいんだよね。アサヒペンタックスに55ミリレンズをつけて、三脚をかついで、“トーキョー・アッジェ” 【註1】と称して、東京の街を歩き出した。どこをどう歩くとか何を撮るとか決めないで、あてもなく彷徨うって感じで、あちこち歩いてたね。撮った写真は月光荘で買ってきた画用紙が冊子になったのに貼り付けて、自分だけの写真集を作ってた。最初は「東京の、秋」というタイトルだったんだ。それから1年ぐらい撮り続けて、秋になって、通して見たら、「東京の、秋」じゃない、「東京は、秋」という感じだったんだよね。それで、写真集を出版するときに『東京は、秋』【註2】になったんだ。