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黒沢清、10人の映画監督を語る

ジャン=リュック・ゴダール

全11回

第7回

映画好きの若者を惑わせる響きがゴダールの周辺には漂っていた

 ゴダールを入れるべきか迷ったんですが、露骨に影響を受けていることは間違いありません。ただ、僕はゴダールがヌーヴェルヴァーグと言われて出てきた頃を全く知りません。ビデオもDVDもない時代ですから、そう簡単に観られなかったんです。

 高校3年生の時だったと思いますが、『映画評論』を読んでいると、「ジガ・ヴェルトフ集団」という言葉が出てきました。ゴダールが匿名で映画を作っていた時代の集団名なんですが、この響きに無邪気に惹かれました。それで、高校の学級日誌にその日あった出来事を書かせる番が僕に回ってきたとき、ジガ・ヴェルトフ集団について長い文章を書いた記憶があります。ゴダールの映画を全く観たことがないにも関わらずですよ。今思うと恥ずかしいんですが、当時ヌーヴェルヴァーグはとうに終わっていたにもかかわらず、それぐらい映画好きの若者を惑わせる響きがゴダールの周辺に漂っていたんです。

 大学に入ると、蓮實(重彦)さんの影響でゴダールは観なければいけない筆頭監督だと叩き込まれましたが、どうやって観ればいいか分からない。最初に何を観たのかも、実ははっきりと覚えていないんですが、たぶん『女と男のいる舗道』とか『軽蔑』のような、めちゃくちゃ過激ではない頃のゴダールを、アテネ・フランセ文化センターとか日仏学院だとかフィルムセンターのようなところで観たのだと思います。その時はものすごく衝撃を受けたということはありませんでした。これがゴダールなのねと、お勉強のような形で観た記憶があります。なかなか面白いなとは思ったんですが、強烈に影響を受けるのはまだ先の話です。

 その後、普通ではまず観られないような70年代初期の『ブリティッシュ・サウンズ』とか『プラウダ(真実)』とかを、どこかの大学の視聴覚室で秘密上映しているという情報を聞いて、潜り込んで観ていました。これがジガ・ヴェルトフ集団時代の映画です。通常の物語を持った映画とはだいぶ違うゴダール作品を、そういう特殊上映で立て続けに観て非常に影響を受けました。それは、当時8ミリ映画を自分でも作っていたからなんです。

 なぜかと言うと、自分で8ミリ映画を作り始めると、最初はハリウッド映画に近い、ごく素直に物語があって、俳優――といっても学校の友達ですが、彼らが脚本に書かれたセリフを喋るというものを作っていました。どうしてそれが映画だと思ったのか分かりませんが、ハリウッド映画はそうなっているので。ところが、全くつまらないんですね、自分が作った映画が。こんなものを作っていて本当にいいんだろうかと疑問を持っていた矢先に、その秘密上映でジガ・ヴェルトフ集団時代のゴダールを観て、全然違うやり方でも映画は撮れるんだっていうことを目の当たりにして勇気づけられました。こういうやり方なら自分たちでも出来るということで、それからというもの、やたらナレーションが流れて真っ暗な画面が出てきたりとか、字幕が出てパカパカ明滅するような映画ばかり撮っていました。ちなみに数年前ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』を観たときも、冒頭からやっぱり字幕がパカパカ明滅していて有頂天になりましたね。

 ただ、自分がジガ・ヴェルトフ集団の時代には生きていないというのはわかっていました。ですから、ゴダールが政治的なメッセージのようなものを映画で演説のように聞かせているのを真似はしたんですが、自分たちには心の底から政治的に何か訴えたいことなど、もはや何もないというのは分かっていたので、全て真似をしているだけ、形を似せているだけ、パロディなんだという冷めた認識も持っていました。

「ゴダールがやっているから大丈夫」を合言葉に

 80年代に入って、世の中がバブルに突入しつつあった時、『勝手にしやがれ』とか『気狂いピエロ』といった初期の作品がリバイバル上映されて、それと重なるようにゴダールの最新作が上映されたんです。これはエポックメーキングでした。立て続けに『パッション』『カルメンという名の女』『ゴダールのマリア』『ゴダールの探偵』などを最新作として観たというのは僕にとって大きいと思います。『パッション』を観た時、それまで思っていたゴダールと違っていたんです。それこそジガ・ヴェルトフ集団とは全く違っていて、昔の『勝手にしやがれ』のゴダールとも違っていて。政治的アジテーションを声高に訴えるでもなく、通常の物語を完全に逸脱して破壊するゴダールでもなく、全く新しい物語をきっちり作り出そうとしているゴダールに出会ったんです。これこそ我々のゴダールだと思った記憶があります。

 80年代は、自分も商業映画に踏み込みつつあったということも関係していると思いますが、8ミリ映画でやっていたようなことはもうやめようと。ゴダールだって違うものを目指しているから我々も何かを破壊するのではなく、もう破壊されてしまったかもしれないものをもう一回再構築しようと。言葉で言うと大げさですけどね。ちゃんとした物語のある普通の映画に素直に向かっていっていいんだなっていうのをゴダールから学びました。

 もうひとつ、実に素直な感想として80年代のゴダールは画面が美しかった。全く照明を使わず撮ったという触れ込みでしたが、照明を使わないというのはこんなに美しいのかっていうことを知りました。ゴダールが照明を使わないという触れ込みは、その後ずいぶん誤解されて伝わっているように思います。それは絵画的な美しさを拒否して、何でも映ってさえいればいいんだという風に作っていったのでは全くないんです。最高の自然光の瞬間を狙う一番贅沢で最も絵画的なものなんです。『パッション』を観れば、それこそがこの映画の物語のテーマでもあるので、すぐ分かるんですけどね。はっと心を打つような映像を、どうやったら獲得できるのかというのを、80年代のゴダールを観て知り、それが自分たちの目指す方向だという風に気づきました。

 その後のゴダールは、ビデオカメラを使うことで作り方も全く変わっていきました。僕は日本映画の歴史の中では、かなり早く映画の中にビデオカメラで撮った映像を使っていると思います。『女子大生 恥ずかしゼミナール』を再撮影してタイトルも『ドレミファ娘の血は騒ぐ』に変えて作り直した時に、お金がなかったせいもあって、もう追加撮影分はビデオカメラで撮ってしまおうと。ゴダールもやっているから大丈夫と確信していました。

 その後、今に至るまでゴダールは、そうそう意識しないでおこうと思っているんですが、編集をしていて、「こんなの繋がるのかな?」とか「こんな場面を突然ここに入れて大丈夫なのかな?」と一瞬迷う時も、たぶんゴダールだったら平気でやるということをひとつの合言葉にして、やってしまうということはあります。あるいは音楽や効果音を、カットの変わり目で突然全部バッサリと切ってしまいたくなることがあります。フワッと音を変えるのが商業映画の常識なんですが、ブツっと本当にハサミで切ったように音を切断したいと言って、録音の人を戸惑わせています。なんでそんなことを言い出すかというと、全部ゴダールがやっているからなんです。最近の『さらば、愛の言葉よ』を観ても、本当に気持ちいいぐらい音がブツブツ切れていて。映画が始まって10秒もすると、ああこれはゴダールだって分かる。通常の映画の作り方と違うやり方を、あれぐらい高らかに見せてくれる強烈な個性があるから、昔からゴダールであり続けているんだなと思います。

 最新作はまだ観ていませんが、デジタルが登場して、ゴダールの作り方もまたまるっきり違うものをめざしているようです。それにしても本当に新しいもの好きですよね。僕も新しい技術が出てくると、まずは飛びついて何ができるのかやってみたくなります。3Dはまだなんですが、ゴダールがやっているので僕もそのうちやってみたいと思っています。

(取材・構成:モルモット吉田/写真撮影:池村隆司)