スーパー戦隊関係者が歩みと危機を振り返る「仮面ライダーをぎゃふんと言わせたい」
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トークイベント「マスタークラス スーパー戦隊シリーズの歩み」の様子。
第33回東京国際映画祭のトークイベント「マスタークラス スーパー戦隊シリーズの歩み」が、本日11月4日に東京・六本木ヒルズ アカデミーヒルズで開催され、俳優の誠直也、脚本家の荒川稔久、監督の渡辺勝也と坂本浩一、プロデューサーの白倉伸一郎が登壇した。
本イベントでは、スーパー戦隊にゆかりのある人々がトークを繰り広げた。冒頭では、誠がアカレンジャー / 海城剛役を務めたスーパー戦隊第1作「秘密戦隊ゴレンジャー」の話題に。荒川は、脚本家の上原正三の名前を挙げ「上原さんは『こういう作品はおもちゃ箱みたいなもの。そういう楽しさが子供たちに伝わるという信念があった』と話していた」と証言。白倉も「ゴレンジャー」の魅力を「おもちゃ箱であり、子供の好きなものはなんでも詰め込むサービス精神が感じられた。ゴレンジャーの5人はすごく強い。爆発を食らってもすぐ立ち上がる。5人の持っている勢いが番組の勢いにつながっていたのかなと思う。今の戦隊が失ってしまったものも『ゴレンジャー』の中にはある」と語った。
そんな声を聞いた誠は「やっぱりおもちゃを売るための番組だったんだなって思ったよ……冗談ですけど(笑)」と笑いを起こす。さらに原作者の石森章太郎(石ノ森章太郎)との思い出を、誠は「お酒が入ったときに『先生、なんで(主演は)僕なんですか』と聞いたら、僕のボディを軽く小突いて『お前しかいないんだよ』と。『そのままでいいから』と言われてすごく楽な気持ちになりました」と明かした。
中盤では、1990年以降の「地球戦隊ファイブマン」「鳥人戦隊ジェットマン」「恐竜戦隊ジュウレンジャー」の話に。東映入社2年目で「ジェットマン」に携わったという白倉は、当時の“戦隊シリーズ存続の危機”について赤裸々に話した。「実は『ファイブマン』は、視聴率は悪いわ、おもちゃは売れないわで……。今年ダメなら撤退するしかないと言ってやけくそで作ったのが『ジェットマン』でした(笑)。それが当たったことで存続できたし、その反動で正統派に戻したのが『ジュウレンジャー』だったんです。そして『パワーレンジャー』で海外展開の風が吹いた。そんな転換期にたまたま居合わせることができたのは貴重でした」と説明する。「ジェットマン」当時チーフ助監督だった渡辺は、監督の蓑輪雅夫が両足を骨折してしまい、急遽監督を代行した経験を告白。次作からレギュラー監督になったため、渡辺は「当時、僕が突き落としたみたいなうわさが流れてましたけど……(笑)」と自虐的に笑った。
1993年以降に海外で放送されたスーパー戦隊の英語版ローカライズ「パワーレンジャー」シリーズに携わった坂本。当初は日本の特撮映像に、英語で撮影したドラマパートを追加していたことなどを語った。「僕は4年目くらいから呼ばれて、会議室でプロデューサーたちに日本の映像を観せながら同時通訳しました。そして『これは面白い』ということで、日本式アクションを(現地の撮影に)取り入れていくきっかけになったのが『激走戦隊カーレンジャー』。いやあ、同時通訳するの大変だったんですよ!」と振り返る。また「パワーレンジャー」での苦労を、坂本は「なんで名乗っている間に攻撃しないのか、なんでミニチュアの中で戦っているのかと質問されるんです。文化の違いを説明しながら理解してもらった」と回想。続けて放送コードの違いにも触れ「アメリカではアクションシーンで顔を殴っちゃダメだし、倒れた相手をさらに刺したりしちゃいけない。コードに引っかからないよう調整しながら、どう戦隊の魅力を伝えるか苦労しました。向こうではやはりアクロバットなアクションがウケます。打撃を一度ブロックしてから吹っ飛ぶ、最終的には足払いで倒すなどの工夫をしました」と具体的に述べた。
冒頭で話に挙がった“スーパー戦隊存続の危機”について、誠は「よく乗り切りましたよね。もしそのときに折れていたら、今日はないので。今年『ゴレンジャー』は45周年。また5年後、10年後にこういう形の集まりができるよう、ぜひ皆さんがんばってください」とほかの登壇者たちにエールを送る。すると白倉は、その後も何度かあったという存続の危機を紹介。「1つの大きな危機は2000年あたり。“仮面ナントカ”って番組が始まった瞬間に、それまで盤石に見えた戦隊シリーズに暗雲が立ち込めて……。今でもそうなのかもしれません。仮面ナントカが調子に乗って思い上がっているので、見返してやらんといけないなと。ぎゃふんと言わせないとあかんと思っております!」という、普段“平成仮面ライダーの父”とも称される白倉の言葉に、会場では笑いが起こった。