沖縄に住む人たちが持つ大きな困難が浮かび上がるーー『海をあげる』に綴られた日常
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渋谷センター街の入り口にある大盛堂書店で書店員を務める山本亮が、今注目の新人作家の作品をおすすめする連載。第10回である今回は、上間陽子『海をあげる』を取り上げる。
琉球大学で教育学を教える上間は『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』で、沖縄の女性たちを取り巻くあやうい環境を描き出した。そんな彼女の最新作は、自身初のエッセイ。筑摩書房のWebサイトで連載されていた「アリエルの王国」に加筆してまとめた1冊である本作は、沖縄に住む、研究者であり、母である彼女の日常が綴られた作品だ。(編集部)
連載第1回:『熊本くんの本棚』『結婚の奴』
連載第2回:『犬のかたちをしているもの』『タイガー理髪店心中』『箱とキツネと、パイナップル』
連載第3回:『金木犀とメテオラ』
連載第4回:『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』
連載第5回:『クロス』『ただしくないひと、桜井さん』
連載第6回:『またね家族』『処女のまま死ぬやつなんていない、みんな世の中にやられちまうからな』
連載第7回:『明け方の若者たち』
連載第8回:『インビジブル』
連載第9回:『人鳥クインテット』
読んだ後、言葉も無くただただ、立ち尽くした経験をしたのは久しぶりだった。
著者の上間陽子は沖縄で大学教授として教鞭を振るう傍ら、その地に住む若者達をサポートしたり話し相手になるという事をしている。フィールドワークであるが、その都度出会う人に対して他人行儀ではなく親身に寄り添い、一方では客観的な観察眼をもつ。時には遠慮なくストレートに問題提起をする姿勢は、なかなか真似ができないと思う。本書はそういった日常を送る自身の身の回りにおきた出来事を描いたエッセイだ。
まず「美味しいごはん」が本書の最初の章。著者の東京での結婚生活が破綻した前後が描かれる。当事者として深く悩む視点が波のように迫ってくる。著者はその渦中、ストレスによって食事をとれなくなっていく。食べるという行為が、身体や感情に密接に関わっていくことがわかる。周囲の信頼できる友人、そして彼女達が作る料理によって著者は再びゆっくりと満たされていく。
ふと思いついて、「玲子はさ、子どものときみたいになにひとつ傷がないような人生と、優しくしてあげた人にぼろぼろになるまで騙されて、それでも大人になった人生とどっちがいい?」と聞いてみた。そしたら、なにをあほなことを言っているのだという顔をされて、「大人になったほうがいいやろ。ぼろぼろでもなんでも。ひとに優しくできるほうがいいやろ」と即答された。
こういうとき、私の友だちは大阪弁でなにかを語る。そういうふうにしか言えない言葉があるんだろうなぁと思っている。
この友人とのやりとりを読んで筆者の頭の中はハッと目が覚めたようになった。傷は忘れられないが、傷跡は薄く出来るかもしれない。そして、もちろんその傷は著者のものではあるけれど、同時に友人の痛みでもあるのではないだろうか。縁あって同じ時代に女性として生きている彼女達の共感と葛藤が合わせ鏡のように見えてくる。
本書には、友人たちだけでなく、母や亡き祖父母、新たな夫と食いしん坊な娘・風花、沖縄で出会うシングルマザーや様々な境遇にある若者たち、著者も住む普天間の住人たちなどたくさんの人々が登場する。中でも著者と風花とのやりとりはどれも素晴らしい。そこに映し出されるのは親子としてというよりも、人として相対する2人だ。著者は風花にバトンを渡し、逆に風花からも不意にバトンを渡されたりもしている。そんな著者=母から娘への一方通行の教育ではなく、幼くも風花を人として認め尊重している姿勢が清々しい。
著者は娘へこう呟く。
これからあなたの人生にはたくさんのことが起こります。そのなかのいくつかは、お母さんとお父さんがあなたを守り、それでもそのなかのいくつかは、あなた一人でしか乗り越えられません。だからそのときに、自分の空腹を満たすもの、今日一日を片手間でも過ごしていけるなにものか、そういうものを自分の手でつくることができるようになって、手抜きでもごまかしでもなんでもいいからそれを食べて、つらいことを乗り越えていけたらいいと思っています。
そしてもし、あなたの窮地に駆けつけて美味しいごはんをつくってくれる友だちができたなら、あなたの人生は、たぶん、けっこう、どうにかなります。
そしてもうひとつ大事なことですが、そういう友だちと一緒に居ながら人を大事にするやり方を覚えたら、あなたの窮地に駆けつけてくれる友だちは、あなたが生きているかぎりどんどん増えます。本当です。
ある期間、著者は言葉を書くという事に苦しんだという。家族や、取材で関わる人達を親身に感じながらも、最後までは相手に手を差し伸べることができないというような苦しみも感じられる。しかし一方で、本書に描かれた言葉たちが様々な音色となって我々読者へと響いてくる。もし本作を読んで上間氏に興味を持った方は、前著『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版)も読まれたい。本書と断ちがたい連なりを感じ取れるはずだ。
最終章「海をあげる」を読み終えると、沖縄に住む人たちが持つ大きな困難が題名と共に浮かび上がる。言葉は時に、一人では手に負えなくなる厄介なものだ。著者の手のひらからこぼれるように書かれた文章を握りしめる。そして著者と気持ちを共有する。どうか、たくさんの方にこの本を手に取ってもらい、著者の気持ちを共有してほしい。次に言葉を紡がなければいけないのは、言葉を託された我々の番ではないだろうか。
■山本亮
埼玉県出身。渋谷区大盛堂書店に勤務し、文芸書などを担当している。書店員歴は20年越え。1カ月に約20冊の書籍を読んでいる。マイブームは山田うどん、ぎょうざの満州の全メニュー制覇。
■書籍情報
『海をあげる』
著者:上間陽子
出版社:筑摩書房
出版社特設サイト