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10年前の今日、何をしていましたか? ~ 東日本大震災10年特集 音楽ナタリー編

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「10年前の今日、何をしていましたか? ~ 東日本大震災10年特集 音楽ナタリー編」ビジュアル

2011年3月11日の東日本大震災の発生から、本日で10年を迎えた。

国内観測史上最大となったマグニチュード9.0の地震と、あらゆるものを飲み込んだ巨大な津波、そしてそれにより引き起こされた福島での原発事故――ちょうど10年前に発生したこれらの災害は、東日本の太平洋岸一帯に甚大な被害をもたらした。時間の経過とともに人々の関心は徐々に薄れつつあるが、被災地の復興は今もなお道半ばの状況だ。

震災の記憶をこれからも語り継ぐべく、このたび音楽ナタリー、コミックナタリー、お笑いナタリー、映画ナタリー、ステージナタリーは5媒体合同で「10年前の今日、何をしていましたか?」というテーマの横断企画を展開。各ジャンルで、さまざまな人々に地震発生前後の出来事やその後の生活を振り返ってもらう。

音楽ナタリーでは、宮城・福島出身で当時まだ小中学生だった新井ひとみ(東京女子流)、石田亜佑美(モーニング娘。'21 )、橘花怜(いぎなり東北産)、本田康祐(OWV)の4人と、宮城の野外ロックフェス「ARABAKI ROCK FEST.」のプロデューサーである菅真良に、自ら体験した震災の記憶をつづってもらった。

構成 / 橋本尚平

寄稿者一覧(※50音順)

音楽ナタリー編

新井ひとみ(東京女子流) / 石田亜佑美(モーニング娘。'21) / 菅真良(ARABAKI PROJECT代表) / 橘花怜(いぎなり東北産) / 本田康祐(OWV)

コミックナタリー編

いがらしみきお / 井上和彦 / ひうらさとる / 菱田正和 / 安野希世乃

お笑いナタリー編

赤プル / あばれる君 / アルコ&ピース平子 / ゴー☆ジャス / レイザーラモンRG

映画ナタリー編

小森はるか / 園子温 / 廣木隆一 / 宮世琉弥 / 山谷花純

ステージナタリー編

柴幸男 / 長塚圭史 / 萩原宏紀(いわき芸術文化交流館アリオス) / 長谷川洋子 / 横田龍儀

新井ひとみ(東京女子流)

小学校6年生の卒業式間近。
東京女子流として活動していた私は地元宮城県と東京を行き来していた。

11日はレコード店への挨拶回りでいろんな場所へ繰り出していました。渋谷での挨拶が終わり次の場所へと外へ出ようとしたとき、揺れが突然私たちを襲いました。大丈夫!大丈夫!と思っていましたが、だんだんと揺れが大きくなり、咄嗟に母に電話をかけていました。店の天井のシャンデリアが落ちてくるのではないかと思うぐらいの大きな揺れに襲われ、立っていられなくなりました。大人の方々が安全な場所へ避難させてくれましたが、今まで経験したことがないくらいの地震に、このまま死んでしまうのではないかとも思いました。

1回目の大きな地震の後、母と電話がつながり、お互い無事を確認しましたが、私は電話を切ればつながらなくなると知っていたので怖くて切れませんでした。電話越しの母の悲鳴とともに2回目の大きな地震。東京にも大きな地震が再びやってきて周りは悲鳴だらけでした。この電話を切れば、もしかしたら、もう会えなくなってしまうのではないか。そんなことを頭の中で考えていました。

テレビをつけて初めて震源地が三陸沖であることを知りました。津波に注意してくださいという報道。その数分後には津波が来ている中継映像が流れ、画面越しに自分がよく知っている所が津波に飲み込まれていく姿を見て不安と恐怖を覚えました。

宮城では地震後、停電により情報を得る手段が限られ、自分がどのような状況に立たされているのかがわからなかったといいます。そのため多くの人々が、必死に逃げ惑うものの津波の速さに何もできず飲み込まれてしまったそうです。私はその様子をテレビで観て唖然としました。怖くなり、母にもう一度電話をかけたけれど、もうつながらなかった。

情報源を入手できない家族のことがとても心配になりました。周りが落ち着いてきてやっと外へ出ると、電信柱が斜めになっていたり建物が壊れていたりガラスの破片が飛び散っていたりと危険地帯になっていました。月島のマンション(当時、住んでいた寮)まで6時間以上歩いて帰りました。お腹が空いていてもお店も開いていなかったことを覚えています。寝室に川の字に並んで寝ていたメンバーの枕元には、その日からライブのときに使っていた懐中電灯を置くようになりました。

やっと家族から電話がきて話せたのは1週間後だったと思います。携帯電話が使えないため、近くの公衆電話からでした。ごはんは自衛隊の人が配ってくれる限られた食材、お水は何時間も列に並んで手に入れたそうです。1カ月後、飛行機で山形へ、山形から宮城へ帰りました。家族と待ちに待った再会。抱き合って喜びました。

私の思い出の地が本当に画像で見た通りなのか確かめたく、父に車で向かってもらいました。着いた場所は何も残っておらず、記憶を辿って以前の風景をやっと思い出せる程度で、正確にはわかりませんでした。津波の直撃を受け、海に沿って立っていた松の木が跡形もなくなくなっていました……。とても悔しかった。自分が生まれ育ち思い出に残る場所がなくなってしまい心にポッカリ穴が空いた状態。

大自然の脅威を自分の身で感じたあの日から10年経った今、思い出の地は震災前の状態に戻るのではなく新しく生まれ変わりました。悲しい気持ちはあるものの、今現在、新しい景色を見ることができるのは、他県の方々や海外からのたくさんの支援があったからこそです。おかげで私たちは前に進むことができました。忘れたい過去だと感じている人もいるかもしれないですが、風化させることなく語り継がれてほしいと感じます。

先日また大きな地震がありましたね。私も日頃から防災について家族と話し合いながら、備え、認識を高め、自分の身を守っていきたいです。

プロフィール

新井ひとみ(アライヒトミ)

1998年生まれ、宮城県出身。2010年より東京女子流のメンバーとして活動。2019年から“80年代アイドル風アイドル”をコンセプトにソロプロジェクトを始動した。東京女子流は2月にデビュー10周年を締めくくるシングル「Hello, Goodbye」を発表した。

東京女子流*(TOKYO GIRLS' STYLE)オフィシャルサイト
新井ひとみ ソロプロジェクト
新井ひとみ【公式】 (@AraiHitomidesu) | Twitter

石田亜佑美(モーニング娘。'21 )

私は当時中学2年生で、あの日は学校で3年生を送るための卒業式の飾り付けなどをしていました。震災がなければ、その翌日が卒業式でした。

地震が発生したとき、私は習っていたダンススクールのスタジオにいました。スタジオは地下にあったのですが、そこでもありえないほどの揺れを感じ、すぐにスタジオのドアをすべて開け、イスの下や、そんなに高さのない机の下に、みんなで必死に潜ったのを覚えています。

揺れが収まって地上に出ると、たくさんの人が外に出てきていて、どこかで割れたガラスがたくさん道に落ちていました。電話もほとんどつながらなかったです。私はなんとか親と連絡が取れて、迎えに来てもらうことになり、普段30分かからない道を車で4時間くらいかけて帰りました。帰りの道中、突然雨が降ってきて、濡れながら走って帰る人もたくさん見かけました。車に1本だけ傘があったので、車が止まったタイミングで横を通ったスーツを着た男性に、せめて……と傘を差し上げたのも覚えています。

家の中は大きな棚が倒れた跡があったり(すでに母が片付けた後でした)、食器の破片もまだ落ちていたので、スリッパが必需品でした。電気が止まっていたので、冷凍していたものを消費しないと!と考えた結果、この日は家族そろって豪華な夕食を食べることになりました。ロウソクを立てて、ラジオをつけて、暗い中での食事です。事の重大さをこのときはまだあまりわかっていなかったのか「なんか新鮮でいいかもね」と思った記憶があります。星空もとてもきれいでした。いつ揺れるかわからないから、夜も寝るのがとても怖くて、ほとんど寝ませんでした。

私の家はライフラインがすべてストップしましたが、早い段階でガス、続いて水は復旧しました。しばらく電気は使えなくて、川を1本挟んだ隣の地区は電気がついているのに、こっちはまだ……という状況でしたが、「でも大丈夫、きっと明日はつく。きっと明日は」って、あまり深刻に考えず、日が落ちたら寝て、日が昇ったら起きて、という生活を送っていました。テレビもケータイも使えなくて暇なので、家族でトランプなんかをしてました。一緒にトランプをするのは確かそれが初めてで、その時間は楽しかったです。

被災した街の状況をニュースで知ったときは、とても信じられませんでした。

遠くの空が赤く光ってるな……とずっと思っていたのですが、それが気仙沼のほうでの火災だと知って、とんでもないことが起きているとやっと把握したような気がします。私は小さい頃からテレビっ子で、ずーっとテレビを好きで観ていたのですが、やっと電気が戻ってひさしぶりにつけたテレビは、あまりにもショッキングな光景が広がっていて、しばらく観られませんでした。本当は状況を知っておかないといけなかったかもしれないけど、普通のバラエティ番組を放送してもらえることのほうが、そのときはありがたかったです。それくらい、目を向けるのが怖かったです。

一度、街に買い出しに行ったのですが、開店前から長蛇の列で。入店したら商品はほぼなくなってましたけど、崩れて開店することすらできないお店もたくさんあったので、営業しているお店があったのは本当に救いでした。今思うと、そのお店で働いてくださる方やそのご家族の方々、大丈夫だったのでしょうか……。あんなときでも働いてくださり、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

私は家族と一緒でしたが、あの状況で1人でいた人はとても不安だったと思います。あのときの生活の中で学んだのは、近所の方々と交流を持っておくのが大事だということ。いざというとき助けてもくれますし、情報交換もできます。都会ではなかなか難しいかもしれませんが、そんな仲間や連絡手段を大切にしてほしいです。


モーニング娘。に加入したのは震災の半年後でした。このことは、親よりも、誰よりも、おばあちゃんたちが喜んでくれてたかな~と思います。私は「がんばらなきゃ……」っていう必死な気持ちのほうが大きくて、加入当時は「何か地元に還元を!」とは考えられてはいませんでした。加入当時の気持ちを聞かれると、正直必死だったとしかお返しできません……。

でもそれから年を重ねるごとに、誰かが喜んでくれることが自分の喜びに変わって、「みんなが応援してくれてるからがんばろう」に変わったと思います。地元での番組や「秘密のケンミンSHOW」に出演することを、まだまだ元気な101歳のひいおばあちゃんも楽しみにしてくれています。

復興支援と呼べるような、これ!ということは正直まだできてないと思います。ですが、少しでも私を通して宮城の魅力を知っていただき、遊びに来て、美味しいものを食べて、東北に触れてもらいたいという気持ちで発信をしています。実際に私がロケでお世話になったお店に、ファンの方が行ってくださるのですが、そうすると次に私がプライベートでそのお店に行ったときに、どこの店主さんも「県外からのお客さんが~!」「海外からのお客さんも~!」と私に報告をしてくださるのがすごくうれしいです。むしろ私よりも顔なじみになっている方もいらっしゃるようで、若干嫉妬しますね……(笑)。それくらい、皆さんに宮城を愛していただけているのを感じます。

あれから10年経ちました。震災のことを、毎日思い出してほしいとは言いません。ただ、ちょっとわがままになってしまった日や、どうしようもなく落ち込んでしまった日に、それでも「今生きてるって幸せだな」「明日もがんばって生きよう」と、そんなふうに思ってほしいです。記憶が薄れるのは仕方のないことだから、つらかった記憶を覚えておこうとするのではなくて。私もこの震災のことを、ただ怖かった出来事として伝えたいのではないんです。みんなで今にきちんと感謝することができれば、自然と風化されないかなと思います。

仕事で被災地に行くと、東北の方々の強さを、どこに行っても感じます! 私は東北のそんなところが大好きです。震災のことを取材させていただくと、多くの方が「こんなときこんな人に助けられた……」というお話をしてくださいます。すごくうれしそうに。「当時は大変だったけど、今こんなふうにがんばっているんだ!」って、皆さんまっすぐに前を向いていて、カッコいいんです。「大変な被害を受けた東北」で止まるのではなく、ぜひその1歩先にいる「今がんばっている東北」を知ってほしいです。

プロフィール

石田亜佑美(イシダアユミ)

1997年生まれ、宮城県出身。2011年9月にモーニング娘。10期メンバーオーディションに合格したことが発表され、メンバーに加入。2018年12月よりモーニング娘。のサブリーダーを務めている。モーニング娘。'21は3月31日に16thアルバム「16th~That's J-POP~」をリリース。

モーニング娘。'21|ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト
石田 亜佑美_モーニング娘。'21(@ayumi_ishida.official) ・Instagram photos and videos
モーニング娘。'21 天気組オフィシャルブログ Powered by Ameba

菅真良(ARABAKI PROJECT代表 / GIP)

10年前の今日は、SING LIKE TALKINGの佐藤竹善さんの、仙台でのメディアキャンペーンの仕事中でした。

地震発生の直前、仙台市内定禅寺通りにあったエフエム仙台のサテライトスタジオにて、竹善さんが生放送番組のゲスト出演を終えました。乗り込んだタクシーではラジオ出演直後の番組が放送されていて、竹善さんの曲が流れていました。

しかしタクシーが出発してすぐに、車の中でも確認できるほど、大きく地面が揺れました。ラジオが緊急放送に切り替わり、放送を通じて、東北が震源地の大きな地震があったことを理解しました。

その後、僕は竹善さんと一緒に、竹善さんがインタビューを受ける予定だった河北新報社へ向かいましたが、もちろんインタビューは中止。

竹善さんが宿泊予定だったホテルは使用できなくなっていたため、僕はエフエム仙台に竹善さんを避難させていただくようお願いをし、そのあと自宅へ向かって家族の無事を確認しました。

その日は、車の中で過ごしました。
夜は星がとても綺麗であったことを、とてもよく覚えています。


翌日から、2011年の4月29、30日に開催を予定していた「ARABAKI ROCK FEST.11」を中止すべきか、GIPのスタッフのみんなと協議しました。津波で亡くなられている方々もきっといらっしゃることを思うととても悩みましたが、「2011年の特別なARABAKIを」と考え、その年の夏、8月27、28日に延期開催することを決断しました。

業務が通常に戻ったのは確か6月頃だったと思います。2011年にGIPが主催するコンサートは約700公演控えていましたが、このうち300公演ほどが中止に。そのほかの公演も、夏以降に延期したり、翌年に延期したりとさまざま対応をしました。

ARABAKIの延期開催に向けて準備を進めるうえで苦労したのは、被災地で必要とされていたため重機やプレハブ、仮設トイレなどが揃わなかったことです。楽屋などはテントを使用することを出演アーティストの皆さまにご理解いただきました。

8月のARABAKIは無事開催させることができましたが、チケットをお持ちでいながら、さまざまな事情で来場いただけなかった方や、中には亡くなられてしまった方もいらっしゃったと思います。10年経った今も、つらい気持ちになります。ただ、2011年にARABAKIを実施でき、たくさんの方々に喜んでいただけたと感じたことで、自分たちもたくさんエネルギーをいただけましたし、スタッフ一同とても強くなれた気がします。改めて、開催を続けてこれていることを感謝したいと思います。

震災から10年が経った今年、コロナ禍においてまた決断を迫られる事態となっていますが、10年前に決断をしたように「2021年の特別なARABAKI」の開催へ向けて、今、GIPのスタッフたちと一緒に準備しています。

感染対策を万全に、参加いただく皆様や川崎町、みちのく公園の皆様のご協力のもと、エンタテイメントが前進する開催となるよう、精一杯準備を進めて参ります。

プロフィール

菅真良(スガマサヨシ)

仙台を中心にコンサート制作等を手がける株式会社GIPの執行役員で、野外ロックフェス「ARABAKI ROCK FEST.」を企画するARABAKI PROJECTの代表。なお「ARABAKI ROCK FEST.」はもともと2021年に4DAYSで開催されることがアナウンスされていたが、コロナ禍での実施を踏まえて全面キャンプインフェスに内容を一新し、4月30日から5月2日にかけて3DAYSでの開催に変更となった。

アラバキロックフェス

橘花怜(いぎなり東北産)

あの日から、今日で10年が経ちました。
当時、私は小学1年生でした。
帰りの会をしているときに、急にものすごい音が聞こえて、立っていられないくらいの激しい地震が来て。崩れ落ちる物の音、泣き叫ぶ同級生、大丈夫だからねと必死に叫んでいる先生の声も全部怖くて、聞こえないようにひたすら泣き叫んでいました。

その日、外は雪でものすごく寒かったんです。橋が壊れて通行止めで、家族が迎えに来るのが難しくて。校庭にぱらぱらと限りなく落ちてくる雪を見上げて、どうしてこんなことをするんだろう、ってずっと考えていました。
みんな お迎えが来て帰っていく中、私は最後まで残っていて、不安そうな私の背中を先生がずっとぽんぽんってしてくれていました。先生の優しさと その手の冷たさが、胸をぎゅって締め付けたのを覚えています。

先生にお家まで送ってもらって帰ったけれど、お家は入れる状態じゃなくて。車の中で過ごしたあと、避難所でたくさんの方と一緒に生活していました。狭いところで、みんなでぎゅうぎゅうで雑魚寝して。そんな中でも、私は友達とずっと遊べたし、いつもと違うところに来たってことにちょっとドキドキしてたんですよね。だけど、そういう気持ちを持てたのって、きっと家族や大人の人たちががんばってくれていたからだと思います。

最初は、非日常に楽しさを感じていたけど、だんだん、家族があんまり笑わないこと、みんなが苦しそう、つらそうっていうのが読み取れてきて、それがすごく悲しくて。
そこから、私がみんなを笑顔にしたいって思うようになったんです。

しばらくして、お家に帰ったときは、ビニールシートだらけで、電気もなかったからすごく暗くて。
1本のロウソクで照らしながら入ってみたら、好きでずっと飾っていたお雛様がぐっちゃぐちゃになっていたり、ガラスの棚が真横に倒れて、床中が破片だらけで。壁には大きく亀裂が入っていました。
そんな姿にただ立ち尽くしていました。

だけど、割れたものとかを片付けたりしたあとには、そのお家に住んでいたし、家族もみんな無事で、津波が来ないところだったから親戚で亡くなった人もいなかったんです。
そんな中、私は震災の経験で「怖かった」って言ってもいいのかなって、何度も悩みました。私よりもっともっとつらい思いをした人がたくさんいて、今でもずっと苦しいって人がいっぱいいるのに、私なんかがつらいと言っていいのかなって。

でも、これ以上苦しんで、笑えなくなる人が増えてほしくない。生まれたからには笑っていたいし、みんなにも笑顔でいてほしい。そんな思いをずっと持っていました。

震災から少し経ったある日、家族の車に乗っているときに、初めてがれきを見たんです。ニュースとかでは見てたけど、実際に見ると、やっぱり衝撃が強くて。でも、そこで作業していた自衛隊さんが笑顔で私たちに手を振ってくれているのを見つけて、その笑顔にすごく心を奪われたんです。私も自衛隊に入ったら人を笑顔にできるかもって思って「入れますか?」って聞きに行ったんですけど「大きくなったら入ってね」って優しく言われて。
でも、どうしてもみんなのために何かしたかったんです。ある日、復興イベントに遊びに行ったときに、SCK GIRLSっていうボランティアアイドルグループに出会いました。

SCK GIRLSは、メンバー全員が震災を経験した地元の女の子たちで、被災地に笑顔を取り戻すためにボランティア活動をしているアイドルグループらしくて。そのアイドルのライブを観たら、メンバーたちがものすごく楽しそうに歌って踊っていて、それを観たお客さんもすごく楽しそうにしていたんです。
そして、アイドルが「そこのお店のたこ焼きが美味しいんです!」って紹介したら、紹介されたお店の人がすっごく喜んで、ライブ終わりにメンバー全員分のたこ焼きを差し入れしていて!
ありがとうねって嬉しそうにしていて、そういうのを見て「あ、見つけた」って思ったんです。私がずっとやりたかったことが 今、目の前で起こっていることに、すごくすごく胸が熱くなったのを覚えています。そしてすぐ、レッスンを見に行かせてもらってSCK GIRLSに加入したんです。

SCK GIRLSでは、復興メッセンジャーとして、復興イベントでパフォーマンスをしたり、震災のことを伝えるイベントに出演させていただいたりと活動していました。自分の歌やダンス、言葉で笑顔になってくれる人がいることに、胸がいっぱいになったことをよく覚えています。

そして、SCK GIRLSを作ってくれた阿部さんって人が、本当にすごい人だったんです。
どんなに大きい夢を語っても、じゃあ応援するよ!って言って、有り得ないパワーで背中を押してくれて。私も夢を持たせてもらいました。だけど阿部さんは、震災前から癌を患っていて、急に容態が悪化して亡くなってしまいました。それを知らされたときは、意味がわからなかったし、理解したくなくて。
ぽかんと頭に穴が空いたみたいな感覚でした。
だけど私たちの心の中ではずっと生きているし、私もあんな風に、人に夢を与えられる人になりたい。阿部さんの思いを途切れさせないようにつないでいきたいって、そのとき強く思いました。

今、私は、女川で復興ライブをしていたももクロさんに憧れ、同じ事務所の「いぎなり東北産」として活動させていただいています。復興ライブに出演したり、SCK GIRLSと共演したり、石巻でラジオをレギュラーやらせていただいたり、「3000days」っていう震災の曲を作っていただいたり……。震災に携わりながら、活動を続けることができています。

そして、アイドルになってからの8年間「東北から笑顔を届けたい」っていう私のモットーを変えずにここまで来ることができました。それがすごく嬉しいし、出会ってくれたすべての人に感謝の気持ちでいっぱいです。

この間も地震があったりして、あの日のことを思い出した人も少なくないんじゃないかなって思います。
私もその1人です。

私にできることは、まず自分が笑顔になってその笑顔の輪を広げていくこと。そして、あの日のことを伝え続けていくことかなって思います。

アイドルの活動をしていると、日本各地や海外からも応援してくださる方がいるんです。だから、活動をがんばればがんばるほど、たくさんの方とつながりができるのかなって思っていて。

つながりってすごく大事なものだと思うんです。どんなものよりも、みんなからの声が一番響くし、つながりがあれば、どこかの県や国で何かが起きたとき、私はすっごく心配になる。なんとなく心配するのと、本気で心配するのってパワーが違うと思うんです。
私は震災を経験して、たくさんの人から応援してもらいました。震災後、被災地にはたくさんの励ましのお手紙が届きました。そして、今はファンの方からお手紙をいただけることが多くて。そういうのって本当に力になるんですよね。“応援してくれてる人がいるんだ”ってわかることって、すっごい原動力になると思うんです。

アイドルって、人との心のつながりを大事にできる職業だと思います。これからも“アイドル”の橘花怜だからこそできることを、一生懸命続けていきます。

初心忘るべからず、これからもがんばっていきたいと思います。

プロフィール

橘花怜(タチバナカレン)

2003年生まれ、宮城県出身。スターダストプロモーションに所属する東北地方出身の女性タレントによるレッスン生グループ、いぎなり東北産に2015年に加入し、翌年からグループのリーダーを務めている。いぎなり東北産は2020年3月に1stアルバム「東北インバウンド」、10月にシングル「re;star」をリリース。

いぎなり東北産
いぎなり東北産オフィシャルブログ Powered by Ameba

本田康祐(OWV)

10年前、僕は15歳で中学校の卒業式でした。
いつもなら友達と遊んで帰るのですが、なぜかその日はみんな遊ばずに帰りました。
家で兄弟とゲームをしていると、携帯から緊急地震速報が流れました。

初めて聴くその音に自分は恐怖心よりも好奇心の方が強く、兄弟と笑って「なんだこれ」と言い合っていました。
でもそのすぐあと、今まで体験したことのないような揺れが起こり始め、すぐにさっきの音がなんだったのか理解しました。

考えるよりも先に体が勝手に動いていて、とりあえず兄弟と一緒に家の扉をほとんど開けて、中にいた家族と無事一緒に外に出ました。

このとき初めて小中学校でやっていた避難訓練の大切さを実感しました。

外に出てもまだ揺れは続いていました。
止まっている車が激しく揺れ、建物のガラスが一気に割れ、家の塀などが道路に崩れ、車も走れない状態になっていました。
僕の家の中も食器棚などが全部倒れたり、いろいろなところが壊れたりしてしまいました。

本当に大変だったのはそれからで、道路陥没などによる食料調達の困難で、コンビニやスーパーなどから食材が消えてしまいました。
そして、原発の爆発や津波の様子がテレビで映されると、「これからどうなってしまうのだろう」と不安でいっぱいでした 。

それから10年。
あの日のことは3月11日になると、「3.11」という文字を見ると、必ず思い出します。

僕は18歳のときに東京に出てきて以来、福島にまだ何も恩返しができてないですが、福島で毎年行われる「福魂祭」という東日本大震災のイベントに、上京して初めて振付師として関わらせていただいたことがありました。
そのときに改めて、福島を盛り上げようと復興支援に励んでいる福島の方々や県外の方々などがたくさんいることを知りました。その方々を通じてこの震災の重大さを感じると同時に、年月が経った今でもまだ復興が行き届いていないところもあり、まだ仮設住宅で暮らしている方々がいる状況や実際に仮設住宅があるところを目の当たりにして、知らず知らずのうちに自分の中では落ち着いてきてしまっていたことが本当はまだこんなにも以前のままなのだと思い知りました。

風評被害も当時ほど酷いわけではないですが、やはり今でもまだ以前のようには受け入れられていないのかなと思うこともあります。

原発による風評被害が多かった高校生の頃、福島から新幹線に乗ったとき、自分の鞄が椅子に少し触れてしまっただけでバイ菌を触ったかのような目をされて目の前で拭かれたことは今でもよく覚えています。
ありえないようなことだと思う方もいるかもしれませんが、当時は本当にそれほど福島のイメージが悪くなってしまっていたのです。

それからは何か自分にできることはないのかと模索しながら活動をしていました。
“自分が有名になって絶対に福島のイメージをよくするんだ”と、“福島ってこんなに良いところなんだ”と伝えたいという思い、そして自分も何か復興の役に立ちたいという思いが強くなっていきました。

まだまだ自分にできることは微力でしかないですが、こうして今少しでも僕の書いた文章に目を留めてくださる方がいて、福島のことをもっと知ってもらえるのなら昔よりは自分も少し成長できたのかなと思います。

東日本大地震からもう10年だと思う方がいれば、まだ10年と思う方もいると思います。
ただ、10年という月日が経った今もまだ僕たちにやれることはたくさん残されています。
もちろんこれは福島だけではなくさまざまなところで被害に遭われた被災者の方々、被災地すべてにおいて言えることだと思います。

誰かが少しでも被災地のことを知り、小さくてもできることをするだけで、考えてくださるだけで、もう少しわかり合えたり支え合えたりできるんだと思います。
そして僕自身も、自分の地元であり大好きな福島のためにこれからも自分ができることを少しずつでもやっていけたらと思っています。

プロフィール

本田康祐(ホンダコウスケ)

1995年生まれ、福島県出身。オーディション番組「PRODUCE 101 JAPAN」でファイナリストに残り、同番組の元練習生たちと2020年に4人組グループ・OWVを結成。同年9月にシングル「UBA UBA」でデビューした。OWVは3月31日には3rdシングル「Roar」をリリースする。

OWVオフィシャルサイト
本田康祐 kosuke honda (@honda_0411) | Twitter