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レジェンドの横顔 第4回 森田芳光が愛したもの 三沢和子×宇多丸 対談 前編

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「森田芳光70祭(ななじゅっさい)」ロゴ

2011年、61歳で急逝した映画監督の森田芳光。その功績に改めて光を当てるプロジェクト「森田芳光70祭(ななじゅっさい)」が展開されている。森田の妻である映画プロデューサー・三沢和子とファン代表の宇多丸(RHYMESTER)が2018年に東京・新文芸坐で行った対談を収めた書籍「森田芳光全映画」が、2021年9月に刊行。また、森田のフィルモグラフィをほぼ網羅したBlu-ray BOX「森田芳光 全監督作品コンプリート(の・ようなもの)」も12月に発売される。

このたび映画ナタリーでは三沢と宇多丸の対談をセッティング。愛用の品々にまつわるエピソードなどから天才・森田芳光の素顔を語ってもらった。前編には三沢が宇多丸に贈った森田の腕時計のほか、8mmフィルム、編集機、アングルファインダーが登場する。

取材・文 / 平野彰 撮影 / 小原泰広

森田監督の時計を譲っていただくところに来るなんて(宇多丸)

──今回「森田芳光が愛したもの」というテーマのもと、森田芳光監督の私物を奥様である三沢和子さんにご持参いただきました。そして宇多丸さんには、三沢さんからプレゼントされたという森田監督愛用の腕時計をお持ちいただいています。宇多丸さんにこの腕時計をプレゼントされた理由を教えていただけますか?

三沢和子 森田と近いスタッフの方たちにも、一周忌の際にいろいろなものを差し上げたのですけど、この時計は誰かにあげられなかったんです。あまりに毎日森田が着けていたので、一番大事な人にあげたいと思っていたのですが、その相手を選べないまま10年経ってしまって。そんな中、3年前の新文芸坐での上映会や、今回の「森田芳光全映画」や、Blu-ray BOXのことで宇多丸さんには大変お世話になって。宇多丸さんとお会いしていなければ、こんなに森田が再注目されることはなかったと思うんですね。なので「この腕時計を差し上げるのは宇多丸さんだな」と。お似合いになりそうだったし。森田本人には似合わなくて、なんだか腕が重そうだったんですよ(笑)。

──確かに宇多丸さんの腕にばっちりハマってますね。

宇多丸 サイズも、なんのアジャストもしなくてもぴったりで。

──ちなみに森田監督はこの腕時計をいつ頃買われたんでしょうか?

三沢 すごくこういう腕時計が流行ったときがあって。2000年代だと思いますよ。少なくともその後半の5、6年はずっと着けていました。

──宇多丸さんはこの腕時計をいただいたとき、どのように思われましたか。

宇多丸 いいんですか?っていう。やっぱり時計って“受け継ぐもの”というニュアンスも強いし、恐縮で。僕なんかでいいのかという感じでした。もちろんうれしいし光栄ではあるんですけど。いただいた帰り、車の中で、マネージャーと「こんなところまで俺は来てしまった」みたいな話をしましたね。

三沢 (笑)

宇多丸 森田監督の時計を譲っていただくところに来るなんて、想像もしていなかったことですから。「あれ? なんでこんなことになってんだっけ?」みたいな。とんでもないところまで来てしまったというか、すごく責任も感じました。その一方で、ありがたいし、普通にかっこいい時計だから「やった」っていう気持ちもあります(笑)。さっきも、「アフター6ジャンクション」の月曜パートナーの熊崎風斗くんがずっと「かっこいいですねー」って。監督もそうなんでしょうけど、これは特に男の子心をくすぐるデザインだと思いますよ。

三沢 そうですよね、買ったときにみんな大騒ぎしてましたから。何十万円もするものじゃないんですよ。なのにたくさんの男子に「監督、なんですか、それ」って聞かれて、すごく自慢してたので。

宇多丸 ごついのもいいし、竜頭が斜めの位置にあるのもいいですね。説明書もネットで調べて、時刻もきっちり合わせて大事に使ってます。外見もきれいで、機能もまったく問題なくて時間も正確です。

三沢 森田も「三沢、あげるべき人をちゃんと選んだな」と思っています、間違いなく。

宇多丸 いやいやいや……。ほかにいろんな方がいらっしゃるのに、本当にすいませんという。

三沢 いや、全員納得だと思いますよ。ほかの誰かに聞いても「僕ではないでしょ」ってみんな言うと思います。

──実は僕自身、宇多丸さんの活動や「森田芳光全映画」から森田監督の映画の価値を改めて見直し、新しいファンになったというところがあります。おそらく同じような人は多いと思うので、そういう意味でこの腕時計はやはり宇多丸さんのところに行くべきだったのかと。

宇多丸 うれしい限りです。でも僕も、もともとファンでしたしよく知っているつもりでしたけど、全作品をスクリーンで観直し、「森田芳光全映画」を作った結果、改めてちゃんとファンになったというか、初めて真の理解のとば口に立ったと思っています。「これはどうなんだ?」と感じていたところの意味とか必然性を知ったり。たぶんみんなね、同じプロセスを踏んでファンになる、というか「面白い!」となるんですよ。森田さんは映画も面白いしご本人の物語も面白い。

森田が今いたらiPhoneで好き勝手にやっている(三沢)

──なるほど。今回、三沢さんにはいろいろお持ちいただいたのですが、まず8mmカメラと編集機です。

宇多丸 (編集機を眺めて)スプライサーですね。僕も高校のときに1回だけやっています。

──8mmフィルムで作品を撮っていたということですか?

宇多丸 はい。

三沢 それ見せてください。

宇多丸 ダメです!

三沢 (笑)

宇多丸 本当に向いてない、っていう……。

──フィルムが残ってはいるわけですね。

宇多丸 実家に行けばありますけど。

三沢 うわあ、観たい。

宇多丸 いやいやいや。やろうとしていたことはそれこそ森田さんと近くて、ミュージックビデオの監督になりたかったんですよ。

三沢 できるんじゃない?

宇多丸 でもやっぱり映像はダメです。コントロールしなきゃいけないこと、思い通りにならないことが多すぎて、めげました。

──この8mmカメラで、1978年の「ライブイン茅ヶ崎」も撮ったわけですね。

宇多丸 えー、ヤバいな。

三沢 当時、カメラをすごく動かしていたんですよ、8mmだから。もうダンスを踊ってるみたいに。森田は「カメラワークのために体を鍛えないと」と言っていました。だからいきなり35mmになったとき、キャメラマンの方が撮るので実はそこに不自由さを感じる部分もあったんです。

宇多丸 だから「の・ようなもの」はオールフィックスで撮って。でもあれはやっぱり……。

三沢 逆によかったんです。

宇多丸 その頃の森田さんはたぶん、「ちょっと落ち着いてください」っていうか、そのくらいでちょうどよかったんじゃないかと(笑)。

三沢 (笑)

宇多丸 クリエイティブって、枷があったほうがよかったりもしますからね。

三沢 最初から森田の好きなふうにカメラワークをやっていたら、誰にもわからない映画になっちゃったかもしれない。

宇多丸 今はiPhoneで映画を撮れる時代ですから、100%好きなことができるでしょうけど。最初から枷がない状態なら、森田さんはどうしていたか。

三沢 森田が今いたらiPhoneで好き勝手にやっていたでしょうね。

宇多丸 絶対やってますよね。デジタル撮影も早い時期にやっている(「模倣犯」)し。

プライベートでは「タリモ」と呼んでいた(三沢)

──そして、このアングルファインダー(撮影画角の確認をする道具)ですが。

三沢 8mmのときからカメラワーク、編集、音とこだわっていたわけですけど、アングルが思っているものとちょっと違うと、森田は気になってどうしようもないわけです。独自にこのアングルファインダーを見て「いや、これは」と思ったときには言いに行っていました。いつからかモニターで画を確認できるようになって、このアングルファインダーは要らなくなりましたが。

──「TARIMO」とネームプレートが貼ってありますね。この呼び名は昔からのものですか?

三沢 小学校からです。森田が亡くなったあと、小学校の同級生の方がクラス会に私を呼んでくださって。みんな「タリモ」って言ってました。

宇多丸 へええ。

三沢 「タリモがあんな有名な監督になって」って(笑)。同じ森田という名字の人でいえばタモリさんのほうが有名だけど、年季は入ってるんです。

宇多丸 タモリさんと同じくジャズマンっぽい言葉の崩し方だなと思ってたんですけど、実は小学生からだったんですね。

三沢 実は私もプライベートでは「タリモ」と呼んでいました。だってほかに呼びようが……。下の名前で呼ぶような関係じゃないんですよ。友達みたいな感じです。

宇多丸 森田さんも「三沢」って呼んでましたし。

三沢 私たちが夫婦だということを知らない人がすごく多かったです。お葬式のときに喪主の名前を聞かれて「森田は嫌なんで三沢和子にしてください」と言ったら、葬儀社の方に「あり得ません! そういうことは。お葬式でそんなこと言う人いませんよ」とすごく怒られて(笑)。周囲の人に「三沢さん、こういうときぐらい妥協しましょうよ」と言われて森田和子にしたら、「森田和子って誰だ」「奥さんがいたんだ」なんて話になったぐらい。別に夫婦であることを隠していたわけじゃないんですけど。アナウンスする必要もなかったし。

宇多丸 それは葬儀屋が無粋ですね。何を言ってやがる、という(笑)。

三沢 三沢和子でよかったじゃないっていう。でもそのときは打ちひしがれていたから、素直に従ったんですが。

後編に続く

森田芳光(モリタヨシミツ)略歴

1950年1月25日生まれ、神奈川県出身。東京・渋谷区円山町で育つ。日本大学芸術学部放送学科に進学すると自主映画の制作を開始。1981年に「の・ようなもの」で商業映画デビューを果たした。松田優作を主演に迎えた「家族ゲーム」で一躍有名になり、沢田研二の主演作「ときめきに死す」、薬師丸ひろ子主演の「メイン・テーマ」、夏目漱石の小説を映画化した「それから」などを発表してスター監督としての地位を不動のものに。吉本ばなな原作の「キッチン」やパソコン通信を題材にしたラブストーリー「(ハル)」などを手がけ、1997年には「失楽園」を大ヒットさせた。その後も「39-刑法第三十九条-」「黒い家」「模倣犯」「間宮兄弟」「サウスバウンド」「武士の家計簿」などを発表。精力的に活動を続けていたが、2011年12月20日、急性肝不全によって死去。翌年に公開された「僕達急行 A列車で行こう」が遺作となった。

三沢和子(ミサワカズコ)

1951年生まれ、東京都出身。大学在学中よりジャズピアニストとして活動する傍ら、のちに夫となる映画監督・森田芳光と出会い、宣伝や製作補佐、キャスティングという形で帯同する。その後、森田の監督作「キッチン」「未来の想い出・Last Christmas」「(ハル)」「39-刑法第三十九条-」「黒い家」「海猫」「間宮兄弟」「サウスバウンド」「椿三十郎」「わたし出すわ」「僕達急行 A列車で行こう」などにプロデューサーとして携わった。

宇多丸(ウタマル)

1969年生まれ、東京都出身。1989年にヒップホップグループ・RHYMESTER(ライムスター)を結成し、1993年にインディーズデビューを果たす。2001年から活動の場をメジャーへ移し、2007年には日本武道館公演を大成功させた。同年に放送が始まったTBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」でパーソナリティを務め、映画批評コーナーで映画ファンにも広くその名を知られるようになる。2018年4月からは、TBSラジオの「アフター6ジャンクション」でメインパーソナリティを担当。映画関連の書籍にも携わっており、映画プロデューサーの三沢和子と共同で編著した「森田芳光全映画」が2021年9月に刊行された。