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天才監督マイケル・ベイの“美”を求めてーー正気の『バンブルビー』と狂気の『トランスフォーマー』

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リアルサウンド

 ティーンエイジャーの主人公が切望し、ついに手に入れた「人生最初の車」。だがその正体は宇宙からやってきた機械生命体が変形(トランスフォーム)した姿だった。意外すぎる事実に最初は驚く主人公だったが、その車=ロボットに知性と感情があることを知り、また敵対するロボット軍団との戦いを通じて二人の間には熱い友情が育まれていくのだった。

 これは昨年末にアメリカで公開された『バンブルビー』(日本では今年3月に公開)のあらすじ……ではない。いや、『バンブルビー』「だけ」のものではない、と言った方が正確か。主人公の性別が違うだけで、2007年のシリーズ第1作『トランスフォーマー』(※1)もストーリーのアウトラインは同じだった。

※以後、特に「シリーズ」とつけずに『トランスフォーマー』とだけ表記してある場合、1作目の『トランスフォーマー』(2007年)のことを指す。

 『バンブルビー』は〈『バンブルビー』シリーズ〉になるとのことで、現時点で5作ある元の『トランスフォーマー』シリーズとの関わりについてはまだ不明な点も多い。スピンオフでもあり、プリクエルでもあり、リブート的にも見える……という、微妙なポジションにあるのが『バンブルビー』だ。一方、もとの『トランスフォーマー』シリーズも5作目で完結、というわけでもなく、新作が作られる可能性は依然として残っている。

 新作『バンブルビー』がキュートな魅力に溢れた楽しい作品であることは間違いない。主人公の少女と車=ロボット「バンブルビー」が交流を深めていくさまを『E.T.』に例える向きも多い……が、ここで我々は今いちど2007年版『トランスフォーマー』を思い起こす必要がある。「少女と車」という『バンブルビー』の骨子は『トランスフォーマー』が打ち出した「少年と車」というテーマのリバイバルだからだ。そこに『E.T.』の影が見え隠れするのも当然で、『トランスフォーマー』シリーズも『バンブルビー』もスティーヴン・スピルバーグが製作総指揮を務めているからには、どちらの作品も『E.T.』のいわば遠い親戚なのである。

 『トランスフォーマー』を初めて映画化するにあたって「少年と車」というコンセプトを示したのはスピルバーグだと言われている。余談になるが「少年と車 A boy and his car」という言い回しはハーラン・エリスンの小説で映画化もされた『少年と犬 A boy and his dog』(映画は1975年)を踏まえたものだ。『少年と犬』は核戦争後の荒廃した地上で、テレパシー能力を持つ犬と少年が互いに支え合いながらサバイブする物語だが、彼らの交感を主人公とバンブルビーになぞらえていると考えると、新旧シリーズにおいてバンブルビーが時折みせるペットの犬のような愛らしさの原点が理解できる。

 『トランスフォーマー』の脚本家の一人、ロベルト・オーチーはニューヨーク・タイムズ紙のインタビューに応えて次のように言っている。

「この映画はアメリカにおいて車が象徴する全てについてのものだ。(自分の車を持つことによって)子供は大人の世界に足を踏み入れ、責任を負うことになる。セックスへと至る道も拓けるかもしれない。これはそういう物語だーーロボットの存在の有無に関わらずね」

 『バンブルビー』が『トランスフォーマー』に負っているのはコンセプトだけではない。物語やキャラクターなど多くの部分で『バンブルビー』は実質的に『トランスフォーマー』のリメイクと呼んで差し支えないほど類似性が高く、にも関わらず「まったく新しい『トランスフォーマー』映画」としてきわめて高い評価をものにしている。

 高評価はストップ・モーション・アニメーター出身のトラヴィス・ナイト監督(『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』)の手堅く、きめ細やかな演出の賜物であり、主人公を演じたヘイリー・スタインフェルドのフレッシュな魅力も大きい。観客のノスタルジーを喚起する80年代オマージュの数々もーーあまりにもその手法が横行しているため、ほのかに退廃の香りを漂わせているとはいえーー奏功した。『トランスフォーマー』でカマロに変更された「バンブルビー」の車体が、もともとのフォルクスワーゲン・ビートルに戻されたことに快哉を叫んだファンも多い。結果として『バンブルビー』は興行的に成功を収め、批評家からも絶賛されるという幸福な結果となった。

 しかし……しかしである。『バンブルビー』を観ていて感じる、この寂寞感は何だろうか。喪失感、と言い換えてもいいが、端的に言って『バンブルビー』はお行儀が良すぎるのだ。こじんまりとした端正な映画であること、それ自体は決して悪いことではないはずだが(1億3500万ドルもかけた映画を「こじんまりとした」と呼んでいいものか疑問は残るが)、何かが決定的に足りないのである。

 いや「何かが」などとしらを切っている場合ではない。『バンブルビー』に不足しているのは、これまでの『トランスフォーマー』シリーズに充満していた濃密な狂気である。『バンブルビー』はどこまでも正気の映画であるがゆえに、おそるべき狂気に支配された過剰でいびつな『トランスフォーマー』シリーズのバロック的な壮麗とはベクトルが真逆なのだ。くどいようだが『バンブルビー』が映画として劣っていると言いたいわけではない。そうではなく、『トランスフォーマー』シリーズが明白に、かつ完全に狂ったものであったがゆえに、そこには狂気のみがもたらすことのできるドラッグ的な恍惚があったということだ。

 その狂気をもたらしたのは、マイケル・ベイという一人の天才監督である。

 本稿を書き始めるにあたって、「マイケル・ベイの監督作品は、その多くが不当に低く評価されている」という文章を何度か書いては消した。心情的にそう書きたいのはやまやまだが、彼の作品が低く評価されることの責を観客や批評家に負わせるのはあまりフェアではないかもしれないと思い返した。マイケル・ベイの狂った作品は「狂っていることのうちにある美」を基準点に評価するべきであり、通常の美学的な尺度に基づいて低く評価される傾向に異議を申し立てても仕方がない。

 その点でマイケル・ベイはスピルバーグに似ている。スピルバーグ作品の多くがつぶさに観察すればするほど異常で狂っていることに気付かされるのと同じように、マイケル・ベイの作品にも狂気が渦巻いているーーにも関わらず、マイケル・ベイの映画はメジャー中のメジャーであり、記録的な興行成績を上げたものも多い。その点もスピルバーグと共通している。だが何より興味深いのは、スピルバーグもマイケル・ベイも、監督の名前と特定の作品イメージが観客の印象の中で強烈に結びついているところだ。実のところ、この「作品イメージ」自体は彼らの作品とは決して完全に一致しているわけではない。にも関わらずそのような印象が醸成されるのは、ひとえに彼らの作品が時代を牽引するものであったことの証左に他ならない。驚くほど早撮りなところ、現場が大好きでワーカホリックなところなど、マイケル・ベイとスピルバーグの共通点はまだまだあるのだが、ここでは彼らがどちらも映像の世界「しか」知らずに育った生粋の映画人で、同時に直感的で卓越した映像センスの持ち主であることを指摘するにとどめておく。

 狂気が文字通り爆発するマイケル・ベイ映画の世界へようこそ。スローモーションで爆発を捉えるようにして、ベイの作品において何がどのようにして爆発しているのか、その爆発が何によって引き起こされたのか、被害はどの程度なのか……それを、爆発物処理班になったつもりで解明していきたいと思う。(第2回へ続く)
(高橋ヨシキ)