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『生きてるだけで、愛。』本谷有希子×関根光才監督対談ーー表現者は“共感時代”に何を描くべきか

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リアルサウンド

 2018年11月に公開され、20代を中心に大きな反響を呼んだ映画『生きてるだけで、愛。』のBlu-ray&DVDが6月4日に発売される。劇作家・小説家の本谷有希子による同名小説を映画化した本作は、鬱が招く過眠症のせいで引きこもりの寧子(趣里)と、出版社でゴシップ記事の執筆に明け暮れる津奈木(菅田将暉)、同棲するカップルの生き様を描いたラブストーリーだ。

 リアルサウンド映画部では、原作者の本谷と関根光才監督の対談を実施。映画化への経緯から、“共感”を求められる現代の在り方まで、じっくりと話を訊いた。(編集部)

●“変化球”な作品をいかに投げ込むか

――まずは改めて、本谷さんの中編小説『生きてるだけで、愛。』を今回映画化することになった経緯から教えてください。

関根光才(以下、関根):そもそも、僕と今回の映画のプロデューサーを引き合わせてくれた方がいるんですけど、その方が最初にこの小説の話をしていました。僕とプロデューサーは読んでいなかったんですけど、読んでみてビックリしたというか、すごい衝撃的な本だなと。

本谷有希子(以下、本谷):そうだったんですか(笑)。

関根:(笑)。「これを今映画化するなら、どういうふうにするだろう?」とプロデューサーと話していたら、すごく意見が一致したところがあったんです。で、それならいけるんじゃないかと思って、本谷さんのところに話しにいきました。

――この小説は06年に発表された小説です。実は結構昔の小説なんですよね。

本谷:そうですね。私が25、6歳の頃に書いたのかな? ちょうど主人公の“寧子”と同じ年代の頃に。その頃はずっと、自分と同年齢の主人公の話ばかり書いていました。だから、随分昔に書いたものを、よく見つけてきたなって。それはシンプルに嬉しかったですね。自分でも忘れかけていたような話に何かを感じて、それを今このタイミングで映画化したいと思ってもらえたんだなあって。「ああ、そういう作品だったんだ」と客観的に思えました。

――原作小説は、エキセントリックな行動に走りがちな主人公“寧子”の一人称で書かれた小説ということもあり、必ずしも映画化しやすい作品ではないですよね?

本谷:まあ、そうですね。何か事件が起きるわけでもなく、バイトを始めるぐらいのことしか起こらない話なので。だから、それは私も思いました。「映画化のお話は嬉しいけど、これ、映画になるのかな?」って(笑)。“寧子”の半径1メートルぐらいの話で終わるんじゃないかって。

――監督は先ほど、プロデューサーの方と意見が一致したとおっしゃっていましたが、それは具体的に言うと、どんなところだったのでしょう?

関根:いろいろあるんですけど、まずは大人っぽいものにしたいよねっていうことですね。この小説をそのまま映像にすると、ちょっと子どもっぽくなるかもしれないので、それをもうちょっと大人っぽいものにしたいというか、どんな世代の方が観ても楽しめるものにしたいよねと。それはかなり早い段階からプロデューサーと話していました。あまり日本的なアプローチではないかもしれないけど、自分たちがやるならそういう感じでやりたいと。そこで意見が一致したのが、そもそも大きかったというか……。

――「日本的なアプローチではない」というのは?

関根:この話を、もし日本の大きなスタジオが映画にしたら、もっとラブコメっぽい感じになるんじゃないかと思ったんです。だから、そうではない変化球をどうやって自分たちが投げることができるかとプロデューサーといろいろ話し合いました。そのためには“寧子”だけではなく、彼女の同居人である“津奈木”のキャラクターをもっと膨らませるべきだよねと。そこで大枠の方向性みたいなものが、僕とプロデューサーのあいだで一致したんです。

――菅田将暉さんが演じる“津奈木”の描き方をはじめ、今回の映画は原作と少し異なるところがありましたが、本谷さんのほうから、あらかじめ何か希望は出されたのですか?

本谷:最初の打ち合わせの段階で、いくつかお話をさせてもらいました。この小説を書いたときに、ちょっと誤読されがちだった部分があったので、そこはできれば気をつけてほしいっていうのは言いました。この小説は、最後2人が別れ話をしているように書いたんですけど、そんなふうに思っていない読者の方が結構多かったんです。それは監督にも話して、この小説をそのまま台本に起こすと同じことが起こり得るかもしれないから、気をつけてくださいっていうのは言いました。

関根:そう、その2人が別れる別れないの話は、僕もプロデューサーも全然気づいてなくて、「あ、そうなんだ」って……。

――すいません、僕も気づいてなかったです(笑)。

本谷:やっぱり、誰も気づいてなかった(笑)。だから、「わかりやすいハッピーエンドみたいなものはあんまり好きじゃないです」とは言ったけど、監督は「そのニュアンスは出すけど、やっぱり別れたか別れてないのか、どっちかわからない感じでいきたい」と仰っていたので、「はい、わかりました」と。あと、「彼女が“うつ”だからこうなったみたいな見え方にはしないでください」っていうのは、話した記憶がありますね。

――そこは割とナーバスなところですよね。この話は“うつ”を患っている人の話ではなく、“うつ”だと自分で言っている人の話であるわけで。

本谷:そうなんです。彼女が自分で言っているだけで、別に医者に診断されたわけではないんです。だから、そのへんの描き方は、ちょっと気をつけてくださいとは伝えました。その2つですかね。基本的にお願いしたのは。

●予想していなかった劇場公開時の反響

――実際に完成した映画を観て、原作者である本谷さんは、どんな感想を持ちましたか?

本谷:率直に、わからなかったっていうのはあります。自分の知っている話、自分の知っている筋で進んでいくから、それが面白いのか面白くないのか、正直わからなくて。それは、自分が書いているものについても、そうなんです。読者の反応を見て、初めて「あ、そうなんだ。これはアリなんだ」とか「あ、これはやっちゃったな」とか思うので。だから、この映画を観たときも、これでいいのかどうなのか、正直わからないなって。それは監督にも言いました。

関根:言ってましたね(笑)。

――それは逆に言うと、それぐらい自分のものとして観ることができたということですか?

本谷:いや、やっぱり違うものにはなっていたんですよね。ちゃんと監督のイメージする『生きてるだけで、愛。』の世界観になっていました。それは、はっきりわかったんです。でも、それが良いのか悪いのかは、よくわからなかったっていう(笑)。

関根:まあ、そのへんは、正直僕もわからないですけどね(笑)。

本谷:そうですよね? 自分の作ったものって、よくわからないですよね。

関根:映画を実際に作っているときは、いろいろ入り込んでしまうというか、単純に自分たちの中で必然だって思っていることを、自分のアングルから並べているわけじゃないですか。それはもう、いいとか悪いとかを超えちゃっているというか、「これ、最高でしょ?」みたいな感じで作っているわけではないんですよね。だから、“寧子”役の趣里ちゃんも、初号を観てもらったあとは、一瞬何かもうアフアフしていて。

本谷:ですよね(笑)。

関根:で、「どうだった?」って聞いても、「どう受け止めていいのか、まだよくわからないです……」って言っていて。まあ、それはそうだろうなって、何か思っちゃったんですよね。

――今回のパッケージの「豪華版」に収録されるメイキングの映像も観ましたが、今回の映画は、割と役者と相談しながら撮っていったところもあったようで。特にラストシーンは、かなり現場判断みたいなところがあったようですね?

本谷:あ、そうなんですね。割と臨機応変というか、即興みたいなものもあったんですか?

関根:即興とまではいかないけど、最後のシーンは、主演の2人の実際の雰囲気を見ながら、柔軟に対応できるように準備はしていました。もちろん映像だから、あらかじめいろいろ決めなきゃいけないことはあるんですけど、その中でできるだけのことはして。最後のシーンだけは、絶対決め込みたくなかったんですよね。やっぱり、主演の2人がそれまでの時間を経過したあと、どう感じるかっていうのが大事かなって思ったので。

本谷:関根監督は、結構細かく演出するほうなんですか?

関根:いや、そんなに細かくないと思います。ある程度は言いますけど、それで役者がやりにくくなるようなことは、あまり言いたくないなっていうのがあるので。

――とはいえ、この物語の登場人物たちは、みんなわかりやすい人たちではないですよね。それだけに、役者さんたちもいろいろ悩まれたのでは?

関根:そうですね。だから、言うべきことと言わないほうがいいことがありました。趣里さんに関しては、“寧子”という役のこと以上に、趣里さん自身がどういう人生を生きてきたとか、どういう経験をしたとか、そういうことを話すようにしたんですよね。そのほうが大事というか、それによってお互いが見ているものをすり合わせることができると思ったので。「そういう経験があるなら、このシーンはきっとここまでいけるよね」とか。そう、僕自身、長編映画を監督するのは今回が初めてだったし、向こうにとっても「お前、誰やねん?」みたいなところがあるじゃないですか。

本谷:そんなこと考えるんだ(笑)。

関根:でも、そういう部分での信頼関係ができるかできないかみたいなことが、今回の映画の場合、きっと大事なんだろうなっていうのは、ちょっと思っていたんですよね。

――公開後のリアクションについては、いかがですか? 「これは私の映画だ!」じゃないですけど、個人的には予想以上の反響があったように思ったのですが。

本谷:へえ。そうだったんですか?

関根:そうみたいですね。それは僕も若干動揺したというか、映画が公開されたらもっと賛否両論が湧き起こるかなと思っていたんですけど、今おっしゃった「これは私の映画だ!」じゃないですけど、割と真正面から共感してくれる方々が多くて。それに最初、結構ビックリしたんです。でも、公開からしばらく経って少し落ち着いてきたら、そうじゃない意見とかも結構出てきて、そこである種ホッとしたところもあったというか。ちゃんといろんな見方で、この作品を観てもらえたんだなって、ちょっと安心したんですよね。

本谷:そこで安心するんですね。

関根:そうですね(笑)。「いや、全然共感できなかった」とか「なんだこれ?」みたいなふうに言う人もいて……でも、そのほうが健全じゃないですか。もちろん、この映画に共感してもらえるのは、すごく嬉しいことなんですけど、「そんなに共感して、大丈夫ですか?」っていうのも、どっかでちょっとあって。

本谷:このよくわからない話が共感されるなんて、今の日本は大丈夫かって?

関根:そう、「救われた!」じゃないですけど、あんまり諸手を挙げて共感されると、ちょっと心配になるじゃないですか。必ずしも、そういうつもりで作ったわけではなかったので。

●“共感お化け”に捕まらないように

――本谷さんは、そもそも何を描こうと思って、この小説を書いたのですか?

関根:それは僕も知りたいですね。

本谷:うーん、結構昔のことなので、自分でもあんまり覚えてないんですけど、そもそも私は、自分が面白いなとか興味あるなって思う人間を書くのが好きなんですよね。だからこの小説の場合は、「もし“寧子”みたいな女性がいたとしたら、彼女に見えている世界はどんな感じなんだろう?」って思いながら書いていったような気がするんですけど。そしたら最終的に、ああいう形になった(笑)。だから、「生きづらい人間を書こう」みたいな、そういう狙いみたいなものは、まったくなかったです。

――ましてや、「この人物に共感してほしい」みたいなことは……。

本谷:無いです無いです、まったく考えてない。そう、共感というか、むしろよくわからないからこそ、面白いんですよね。私の場合、「読者が共感するものを」って言われて書いたものは全然ダメ。そういうものを度外視したほうが、意外と共感されるんですよね(笑)。何に共感されるのかわかんないなあっていうのが、正直な感想ですね。

――なるほど。

本谷:あと、自分の中で、“共感”とか“生きづらさ”って、そもそもあんまり好きな言葉ではないんですよね。だから今回の映画も、あまり甘い匂いのする映画にはなってほしくなかったというか、生きづらい人たちのための映画みたいな感じにはなってほしくなかったんです。

――そのあたりは、関根監督も意識されたのですか?

関根:うーん……僕自身、「共感されたい」みたいなことは、そんなに思ってないんですよね。だから、最初に本谷さんからそういう話を聞いたときに、「そうだよな」ってすごい思ったし、映画を作っているうちに、「誰かに寄り添えたら」みたいなことはあんまり関係なくなったというか、それどころではなくなってきてしまったところがあって。

本谷:作品を作るときって、目の前のことを考えるだけで一杯一杯になっちゃいますよね。

関根:そうなんですよね。でも、今回の映画の場合は、そのほうが良かったというか、その都度その都度、自分自身と向き合ったり、役者をはじめ目の前の人たちと真剣に向き合ったりしたことが、映画としての“深み”に繋がったような感じがして……結果的に、良かったんじゃないかと思っているんですよね。

本谷:でも、“共感”も“生きづらさ”も、多分この小説を書いたぐらいの頃から言われ始めた、盛り上がった言葉のような気がするんですよね。で、その後、震災があって“絆”っていう言葉が出てきたり……そう、だから今、自分がものを作っている上で思っているのは、共感されたら終わりだなってことなんですよね。それは感覚として。

関根:すごい極端ですね(笑)。

本谷:もっと正確に言うと、共感を求めるようになっちゃ終わりだなってことなんですけど。たとえば「人にこう思われたい」と思って書いた小説は、小説ではなくなる、みたいな。確かに極端だけど、でも今、世の中見てると、それぐらい思いながら作ったほうがいいんじゃないかなあって気がするんですよね。それでも絶対、共鳴する人は共鳴するだろうし……とにかく、共感を狙いにいったら終わりだっていう感覚があるんです。だから、J-POPとかでもあるじゃないですか。バーッて売れたりする曲や人々を見ると、「うわっ、(“共感”に)捕まったな」って思っちゃう。

関根:わかります(笑)。でも、自分から捕まりにいってるような人たちもいますよね?

本谷:そうなんですよね。捕まりにいったし、捕まっちゃったしっていう。特に、それが若い人たちの表現だったりすると、余計そう感じる。やっぱり今、何かを表現していくとしたら、“共感”からどう逃れるかを考えないといけないような気がします。

――それこそ、SNSの時代になって、「フォロワー」や「いいね」の数で“共感”が数値化されるようになりました。

本谷:そうですね。でも、昔は“共感”っていう言葉が、そこまで怪しくなかったような気もするんですよね。今は何か怪しい言葉になってますよね。

関根:今の時代って、“共感”が数値化されて、お金になっちゃっているんじゃないですか。それが、売れるものとされているというか。SNSの「いいね」の数じゃないですけど、みんなに共感されれば、経済的にもどうにかなるというか、そういうことをどっか裏で考えているフシがあるんじゃないでしょうか。

――なるほど。だから“共感“という言葉に、一抹の怪しさを感じてしまうというか……。

関根:そうですね。で、僕もそういうのはすごく嫌だなと思うから、さっきの本谷さんの話じゃないですけど、若い人たちがそういうことを必死にやっているのを見ると、何かドキドキしてしまうんです。もちろん、別に僕が心配するようなことではないんですけど、「みんな大丈夫?」「全員が同じようなこと考えていて、大丈夫かな?」って思ってしまう。

――それが、先ほどの「賛否両論あったほうがいい」という発言に繋がるわけですね。

関根:あと、何か震災のあとの日本って、コンプライアンスの時代になってしまったような気がするんですよね。震災によって既存の価値観がひっくり返されて、その後は勝手に自分たちで生きるみたいな感じになっていくのかと思ったら、逆にすごくみんなで寄り添って、それこそ“絆”じゃないけど、みんなで手を繋いで、和を乱さないようにしないと生きられないみたいな感じになってしまった。

――確かに。

関根:そういう中で、何かを疑うことって、すごい大事なことだなって思うんです。「いやいや、そんなもんじゃないでしょ」とか「私はそう感じなかった」とか、いろんなことを常に疑って掛からないと、何も進まなくなるじゃないですか。それが僕は怖いので、今回この小説を映画化する際にも、そういうものは、ちょっと込めたかもしれないですね。

本谷:“共感お化け”に捕まらないように(笑)。

関根:そうですね(笑)。

本谷:私はたとえ、その最後に救いがあったとしても、傍から見たらド不幸であるとか、そのズレみたいなものが好きなんですよ。本人たちはそこで幸せ、気付きを得た感じになっているけど、現実的に見たらよりドツボにハマってたり、間違ってたり……。主観と客観が一致しないほうが好きなんですよね。究極的にはその人たちが幸せって思えば、どんな状態だっていいわけじゃないですか。

――まあ、そうですね。

本谷:だから、他人が心配するぐらいがいいんですよね(笑)。「この人たち、大丈夫なの?」「でも、本人たちは幸せって言ってるよな?」みたいな。そうやって混乱させて、“共感お化け”に捕まらないようにする(笑)。そこは、『生きてるだけで、愛。』を書いていた頃とは、ちょっと変わってきている部分かもしれないです。だから、もし今、自分がこういうちょっとした依存関係にあるような人たちを書くとしたら、いろいろあって自立して家を出ますっていう話にはしないんじゃないかな。本人たちに何らかの気づきがあっても、状況的には明らかに悪化している話にするかもしれない(笑)。

――なるほど。最近の本谷さんの小説っぽいですね。

関根:そう、僕が本谷さんの作品を読んでいつも思うのは、すごい“足が速い”なっていうことなんですよね。

本谷:足が速い?

関根:捕まえようとすると、ものすごい勢いでパーンって走り出すというか(笑)。何かそういう感じが、いつもするんですよね。

――わかります(笑)。

本谷:なんだろう。そもそも私は、あんまり残そうと思って小説を書いてないんですよね。だから、固有名詞もあえて使うし、今書いているものも、今この時代の言葉であって、来年にはないかもねみたいな言葉であろうと、どんどん使おうと思っていて。やっぱり今を生きているんだから、その今を書かないと意味がないじゃないですか。特に今の時代ってすごいスピードで変動してる。これからいろんなことがガラッと変わっていくんだろうなっていう感じがある。そこで普遍性とか考えてても、意味ないなとか思っちゃって(笑)。来年読んだら「古っ!」ってなるのかもしれないけど、そのときの“今”が読めることには別の意味がある、“記録”っていう意味があるんだろうなと個人的には思ってるんです。

――常にその“今”を更新し続けているというか……確かに“足が速い”ですね(笑)。

関根:そういう意味で言ったら、僕は足が遅いほうなのかもしれないですよね。だから、今回の映画で僕は、逆に古くならない“普遍性”みたいなことを、どっかで持ち込みたいなと思っていたところもあって……原作に出てくる「2ちゃんねる」的なものを、別のものに変えさせてもらったりもしたのも、そういうことなんですよね。それは、小説と映画っていうジャンルの違いもあるのかもしれないですけど、その違いみたいなものを突き合わせながらこの映画を観てもらえたら、きっとまた違った面白さがあるんじゃないですかね。

(取材・文=麦倉正樹/写真=服部健太郎)