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水先案内人のおすすめ

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映画は、演技で観る!

相田 冬二

Bleu et Rose/映画批評家

流浪の月

いまほど、人間が行為によって断罪されている時代もない。どんなに個人間でのやりとりであったとしても、許されざる行いをしてしまった者は、そのことが明るみになった段階で、人間失格の烙印を押される。いや、処理する、という言い方が正しいかもしれない。 不寛容な時代は、不寛容な社会は、人間が人間への寛容を放棄することを強要する。それを拒否しようとすると、SNSという世界においては、新たなスタンプが刻印される。それをおそれて、粛々と受け流す。結果、人間による、人間に向けられた不寛容は、より徹底されていく。 この映画で横浜流星が体現している人物は、許されざる存在である。広瀬すず扮する物語のヒロイン、更紗の同棲相手、亮は、その行為によって、最低な人間として処理されるのだろう。現に、わたしは、亮のことを「クズ」の一言で断罪する同業者に出くわしている。いま、世の中が、たとえそれが架空のキャラクターであっても、人間が人間を断罪する、ある種の過剰防衛に傾いていることに、恐怖を感じる。 亮は、愛する更紗が、ある人物と再会したことから嫉妬心を抱き、彼女の勤務先であるファミレスにシフト確認の探りを入れ、更紗を自分の許に留めておくために、卑劣な策略を弄し、それが発覚したとき、逆上し暴力を振るう。さらには、逃げ出した更紗を執拗に追いかけ、復縁を迫る。 目を背けたくなる振る舞いの数々。唾棄すべき存在としてジャッジするしかないのかもしれない。しかし、横浜流星の演技には、そんなふうに処理はさせない、血の通い方がある。 しかも、共感原理に根ざしているわけではない。亮をことさら美化したり、狂的な存在にしてしまっているわけでもない(多くの“間違った”演技や演出は、人物に“美しき狂気”を纏わせ、わたしたちと無関係なファンタジーに貶める)。あるいは、ひどくわかりやすい悪役に仕立て上げ、強烈なインパクト重視の切り取り方で、人間ならざるものとして、ある種の安全圏内に放置しているわけでもない。 横浜流星は、この許されざる亮を、あくまでも人間として、わたしたちの隣人として、演じている。だからこそ、この映画の亮を見つめることは息苦しいし、フィクションだとわかっているにもかかわらず、リアルに途方に暮れるしかない。そして、想うのだ。わたしたちだって、いつ、こうなるか、わからない、と。 この、どうにも居心地の悪いため息をつかせる表現が、この映画の横浜流星の芝居にはある。 思い上がりと勘違いの上から目線。自分が保護してやっている、という屈折したプライドからの口調。焦りと自己否定のデッドヒート。逃避とシェルターとヘルプレス。言葉と脱力の葛藤地獄。そのすべてを、横浜流星は、誰にも起こりうる“可能性”として提示している。 その気概こそが、まぶしい。 インパクトのあるヒールは、簡単かもしれない。だが、結局のところ、断罪されるしかない人物の“人間らしさ”を地道に、丹念に、精緻に、そして恐れることなく追跡していくことは、並大抵のことではない。 もちろん、映画『流浪の月』の亮は、多くの観客に否定されるだろう。だが、わたしたちは、不寛容な時代を生きる者のひとりとして、不寛容な社会を形成する一員として、共感とは別のまなざしから、亮の行末を見届けなければならない。なぜなら、映画とは、人間が人間を見つめることなのだから。

22/4/19(火)

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