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吉田 伊知郎
1978年生まれ 映画評論家
展覧会 日本の映画館
22/4/12(火)~22/7/17(日)
国立映画アーカイブ 展示室(7階)、 国立映画アーカイブ
映画の記憶は、映画館の記憶と重なり合う。 ある映画を思い出すと、それをどこの映画館で観たのか、一館ごとの記憶が鮮明に甦ってくる。これがシネコンになると怪しくなる。特に同じ系列の劇場だと、日比谷で観たのか、六本木で観たのか判然としなくなる。やがて映画館の記憶という概念自体も消えていくに違いない。 国立映画アーカイブ展示室で始まった展覧会「日本の映画館」は、シネコン登場以前の日本の映画館──日本に映画が上陸し、やや遅れて常設館が生まれ、浅草劇場街のにぎわいから、繁華街に映画館が次々生まれ、関東大震災、戦争の二度にわたる焼失を経て再興し、戦後の黄金期から名画座、アート系シアターの隆盛に至るまでを、残された写真、雑誌、劇場が発行するプログラム、チラシ等で再現していく。 映画館が発行していたプログラムは、近年までシネマライズやル・シネマ、岩波ホールが発行するプログラムに名残があったが、戦前のそれは、残されたバックナンバーを見ても絢爛たるもので、デザインも洗練されている。映画評論家の双葉十三郎が、『映画の学校』(晶文社)で当時を回想している。 「この時代は各館が趣向をこらしたプログラムをくれた。もちろん無料である。これを教科書やノートの間にはさんで、シワ一つなしにもってかえるのがたのしみだった。いちばん立派で読みでがあったのは武蔵野館のウィークリイだった」 今回の展示では、新宿武蔵野館のプログラム『MUSASHINO WEEKLY』も見ることが出来るが、傷みやすいペラペラの紙でありながら、いずれも保存状態が良く、まさに〈シワ一つなしにもってかえる〉ことで、今に伝わっているのではないかと思えてくる。 紙資料展示の間には、銀座シネパトスの座席(!)や、会場の入り口横には水戸東映の巨大なネオン看板の「映」の部分が展示されてあったりと、映画館を移築させることが出来ないならば、映画館の細部を集結させようという偏執的な意気込みが感じられ、会場内には映画館の残り香が漂うような気さえしてくる。 数多く展示されている〈映画館の写真〉は、知らない場所、時代であっても想像をかき立ててくれる。例えば、現在の溜池山王駅の近くに戦前あった葵館は、日活の直営館として1913年に開館したが、関東大震災で崩壊し、1924年に再建されている。この二代目葵館は、多彩な活動で知られる村山知義が設計に携わった実にモダンな作りになっており、残されている写真を眺めるだけで、一度で良いからこの映画館に入ってみたいと思わずにいられない。 一方、地方の映画館の写真も多く展示されているので、自分が行ったことがある映画館の写真が登場するのが嬉しい。現在は実演の劇場となっている大阪松竹座は1923年に竣工し、1994年まで映画館として運営されていたので、何度か観に行ったことがある。他にも千日前弥生座など、20数年前まで営業していた映画館が多いこともあり、馴染みの劇場の戦前の写真と地続きで見ることが出来る。 神戸の映画館で有名なのは淀川長治も通った聚楽館だが、今回の展示では1938年の写真を見ることが出来る。一昨年公開された黒沢清監督による神戸を舞台にした『スパイの妻』にも、台詞の中でこの映画館が登場する。高橋一生が妻の蒼井優に「どうだった聚楽館の映画は? 溝口の新作だろ。傑作かい?」と言うのだ。 公開前、黒沢監督に取材した際に尋ねると、聚楽館の名前は最初から脚本にあったが、溝口健二の新作という部分は、後から監督が付け加えたという。当時、聚楽館で封切られていた映画を調べたところ、たまたま溝口があったので、台詞を足したのだという。黒沢監督も神戸出身だけに、1978年まで存在していた聚楽館で観ていたのではないかと思い、質問してみると、黒沢監督はこともなげに、「ええ、行きましたよ。『夕陽のギャングたち』(1971)を封切りで観たのが聚楽館なんです」と即答した。 映画館の記憶は、やはり映画と結びつくのだ。
22/4/26(火)